旧パラを検証する188
第十五号 7
三部作 将棋現代史C 宮本弓彦
理論より実戦ということと東西芸風の相違
むろん棋士の社会においては、ものを云うのは「理論より実戦」である。
ささない棋士やさせない棋士は価値が低い。棋士の履歴書は、他のなにものでもなく彼のさした棋譜をみればよい。はやい話が、先月の毎日新聞に載った橋本対坂田第六期本因坊戦の観戦記で倉島竹二郎氏は、(この勝敗は直ちに日本棋院と関西棋院の鼎の軽重を問われるものであり、また双方の主張の是非も一にこの勝負の結果によって判定が下される。「負けた方は黙っておれ、、、、」これが勝負の世界の巌とした不文律だ)とズバリとものを云っている。おおせの通り将棋の世界でも、まけた者はだまっているほかないのが不文律である。将棋が強くなれば発言権も強くなる。負けると出場の機会がへり、好敵手にも出会わずますます弱くなる。
名棋士の一生は勝局の連続だ。阪田、土居、花田は皆連戦連勝の棋歴に輝いていた人々である。私の現代史三部作は第一部、第二部がそうであったように、第三部においても棋譜(実戦)が重要なはたらきをしないわけにゆかぬ。
第三部の冒頭から読書の参考になると思われる棋譜を順次掲げてゆくから熱心な読者はいちいち駒を盤上に配して御研究願う。大正・昭和と各一局づつについて棋風の変遷や駒組の変化を比較対照されたい。但し、ならべてみて妙味の無い棋譜は有名大家の作品でも絶対に掲載しないことにしました。
先ず、大正時代の関西を代表した大朝系の「阪田」と大毎系の「木見」、両氏の芸風を見よう。
名局の鑑賞
−大正時代−
香落 阪田 三吉七段
木見金次郎五段
3四歩 2六歩 5四歩 5六歩 5二飛 4八銀 5五歩 同 歩 同 角 6八玉 6二玉 7八玉
本譜は大正三年十二月に木見、阪田両氏が京都の早川隆教(当時五段)を訪ねた際の作品で、記録係は同行の高浜作蔵二段であった。阪田氏は当時七段、木見氏は五段。
3三角 5八金 4二銀 4六歩
木見先生は四六歩からお得意の受け将棋の構想である。阪田氏はぐいぐいと左の銀をくり出す。阪田の左銀を木見の右金が出勤して受けとめられるかどうか。上手がさすと、駒が生き生きと働く。阪田の銀が盤の上で泣いたり笑ったりする。
5三銀 4七金 7二玉 5七銀 4四銀 3六歩 3五歩 6八銀 3六歩 同金 3五歩
3七金 5五銀 3四歩 4二角 4七金 5六歩 6六銀 同 銀 同 歩 3六銀 5三歩
同 飛 4八金 5四飛 7九角 2四歩 4七銀 2五歩 3六銀 同 歩 4七金 7五角
4五銀 5二飛 3六銀 6六角 5七歩(図面)

3二飛 5六金 8四角 2五歩 3四飛 3五歩 5四飛 6七銀 3三桂 6六歩 5二金左2四歩
木見先生はガッチリと受けきってモリアガロウとし、阪田氏は腕力をたのんでブチ破ロウとする。阪田氏いわく「二四歩は早し、先ず一六歩と突くべし」
両雄の互いに、得意とする棋風が盤面いっぱいに現れている。木見五段いわく「二四歩は阪田氏評の如くさきに一六歩とついてからにすべきでした」
2七歩 同 飛 2六歩 同 飛 1五銀 2八飛 2四飛 2五歩 2七歩 同 飛 2六歩
4七飛 2五桂 2八歩 2七歩成 同銀 3六歩 5八銀 3七歩成 同桂 同桂成 同 飛
2六銀 同 銀 同 飛 2七銀 2五飛 1六歩 4四桂 7六桂 7五角 6五金 5三角
6八角 2六銀 同 銀 同 飛 2七銀 4六飛 4七歩 4五飛 3八飛 8二玉 3四歩
3六歩 5四金
阪田氏飛車を振りまわすが、木見氏の陣はあまりにも堅い。質駒になりやすいブラ金を五四金と捌いて、敵陣に進入した。木見氏の逆襲である。
3七銀 3六銀 同桂 3七飛 4八桂成 5三金 同金 5六歩 5八成桂 同 金 4九銀
5九銀 5八銀成 同銀 2五飛 2七銀 2六銀打 同銀 同 飛 1七角
阪田氏はこの二六銀打について、「上手方二度目の二六銀打は悪手で四八銀打、三六飛、五九金打、六七銀、五七金打とさすべきところ」と感想を洩らしている。
5六飛 6七銀 1六飛 5三角成 1九飛成 1七飛 2九龍 3五馬 5六歩 1三飛成
5五香 2二龍 7二金 5二金 6二金 6一金 同 金 6九金 5七銀 同 銀 同歩成
同 角 5六歩 7九角 5七金 5八銀 3八龍 4六馬 4四銀 5九歩 6七金 同 玉
4五銀 1三馬 5七歩成 同銀 同香成 同 馬 5六銀 同 馬 同 銀 同 玉 4五角 6五玉 8九角成 8五香 6二銀 9五桂 7一桂 8四桂 6四歩 7六玉 4七龍
7二桂成 同玉 8三桂成 6三玉 5八金 4五龍 3二龍 5一桂 2四角 5六馬
8二成桂 7四歩 8六歩 7三桂 6七銀 5五馬 8七玉 8五桂 4二角成 7三玉
9一成桂 6三桂 7六歩 5四馬 8五歩 8二香 8六香 7五桂 7七玉 6七桂成
同 金 6三桂 4六歩 5五龍 4七桂 4六龍 8四銀 7二玉 5二馬迄の二百二十四手にて木見金次郎(当時五段)の勝ち。
受駒を自陣にさかんにうち生角と成角を防備に利かす。八四桂とびの妙手で玉の退路を広くする等々、木見流ともいうべき受け将棋の妙技の前に、鉄腕をうたわれた阪田一流の攻撃も、四九銀打を逸して二六銀と打った酔棋率の上昇となりて大敗した。
いかな名手でも、ふらふらと魔がさしたような、悪手をさすものだ。上手の手から水が洩れるというやつである。門下から村上、大野、升田、大山らの八段を輩出した巨匠木見金次郎先生快心の棋譜の一つであろう。
筆者はいくたびもこの大手合せならべて鑑賞し、しみじみと将棋の醍醐味を満喫させてもらった次第だ。それはさておき、昭和初期に於て、関東を代表する強豪といえば、土居・花田をあげるのが当然かと思う。
阪田・木見の棋譜によりて、関西の芸風をみたわれわれは、さらに土居・花田の作品に接して、関東の棋風を鑑賞するのが手順であろう。
関西の重厚に対して関東の軽快。関東将棋の序盤中盤の捌きと関西棋の粘りある中終盤。比較対照して味わってみよう。(後に東西の芸風を併せて毅然たる境地に入り木村将棋の完成をみたことを、特に付記して置く)下手な前口上はこのくらいにして棋譜をならべてみましょう。
名局の鑑賞
−昭和時代−
香落番 土居市太郎八段
(平香交) 花田長太郎八段
3四歩 7六歩 4四歩 2六歩 3三角 2五歩 5四歩 1六歩 4二銀 1五歩 5三銀
1四歩 同 歩 同 香 1三歩 同香成 同 桂 1四歩 1二飛 1三歩成 同飛 4五桂
4二角 5三桂成 同角 2四歩 同 歩 同 飛 1八飛成 2一飛成 3一金(図面)
2八龍 1四龍 4八銀

さしこみ手合いであるから同段でも土居先生が半香引くのである。今からみると花田先生の二八龍の手にはよこ槍がはいるところである。
花田氏の二八龍の手で強く四四角と決戦する手が研究されて、この対局以後、定跡手筋とされている。実戦は定跡を産み、既成定跡を修正する。
6二玉 4六歩 2一香 2五歩 4二金 4五歩 同 歩 4四銀 6四角 1七龍 1六歩 2七龍 7二玉 6八玉 5二金 7八玉 2八歩 同 龍 1五龍 2七龍 2五香 3六龍 2九香成 3四龍 2六龍 4三銀成 7六龍 7七歩 8五龍 5二成銀 同金 7六金 8四龍 4四歩 4二銀 9六歩 7四歩 3二龍 5三角 4一龍 6二玉 2一龍 1七歩成 8六金 4四角 7六歩 5五歩 5六歩 7三龍 5八金 6四龍 5五角 同 角 同 歩 6五角 4三歩 同 角 2九龍 2八歩 1九龍
土居氏いわく「六五角と打たず二八ととさしておくところだった」
土居氏いわく「五三角引が三一歩打、二二龍、一七歩成とさしておくところだった。実は其際四三歩成、同銀、四四歩と打たれて悪いと思ったが三二銀と引く手があった」達人にも酔棋率が出る。
1八歩 5九龍 2七と 6八金 7二玉 5六龍 8四歩 5七銀 6二銀 6六銀 8五歩
9五金 8六歩 同 歩 9四歩 8四金 8三歩 7四金 同 龍 7五香 同 龍 同 銀
7三香 4四歩
土居氏いわく「敵の四三歩打に対しては同銀と取るべきであった。これが第三の失策。又九四歩とついて八四金と出られるところは一旦七三桂打と予防して置けば面白かった。これが第四の失策」土居先生はさしもの好局を次第に不利とした。経験が深く直観の鋭い天才土居。花田八段に香を落とすほどの達人土居氏にして、酔棋率が出るのだから、将棋はむづかしい。
土居氏いわく「長時間を要する棋戦は対局中自然にいや気を生じ緊張味を欠く傾きがある」土居先生の正直な芸談は純粋な高貴なもので、私は敬服している。
3二角 5四歩 7五香 同 歩 6四桂 5五龍 7六銀 8八銀 5六金 同 龍 同 桂
8五香 7一桂 6六金 6八桂成 同金 8五銀 同 歩 5九飛 8四歩 同 歩 8二歩
8五香 8一歩成 5四角 6五桂 8八香成 同玉 8一玉 8二銀 7二玉 7一銀成 同玉 8三桂 8一玉 7三桂 7二玉 6一角 8二玉 8一飛 9三玉 9一飛成 9二銀 同龍
同 玉 9一桂成 9三玉 9二成桂迄の百六十六手にて花田氏の勝ち。
長時間対局のために、疲労がかさなって、落手を出す。これが私の主張する酔棋率の一つの場合である。土居先生の感想を熟読するとそれがよくわかると思います。
現今では雑誌「富士」が力のはいった棋戦を連載しているが、昭和二年当時の土居・花田戦は、講談社の催しとして「読売」八段戦とほとんど同時に成立した大棋戦である。
「講談倶楽部」八段戦も亦、「読売」八段戦と同様に、前代未聞の高額なる手合料を奮発して企画された大試合で、これを飾るために観戦記が花々しく登場した。
昭和二年。はじめて新聞将棋専門の観戦記者が現れた。棋力こそ低けれ、随筆風のしっとりした文章で全国ファンをよろこばせた。無類の名記者菅谷北斗星氏がそれである。
今でこそ北斗星級の観戦記の書ける人は五指にあまるが、当時は、まさにすい星的出現で、かん天に慈雨を得たごとく、将棋ファンは菅谷要氏の登場を熱烈な拍手を以って迎えたわけだ。
前に誌した石山賢吉、安田黄子、等々の観戦記のあとに、菅谷北斗星が「読売」記者として、観戦記を受持ち、以来じつに二十四年というながい間、筆に衰えを見せずに頑張っているのは、北斗星ファンの一人として筆者も嬉しい次第である。
読売囲碁の観戦記者覆面子が、何代も代が変わっているのに、将棋欄の北斗星はいまだに昭和二年以来の初代菅谷さんである。まことにおめでたいことでもある。
棋譜と関係無しに書かれても、菅谷北斗星の随筆風の名観戦記は「読んでいて肩が凝らない」と云われている。確に筆が枯れている。近来益々円熟してきている。−話を前にもどそう−。
土居八段対花田八段の香落の乱闘譜。この対局は大衆誌「講談倶楽部」主催の棋戦である。
大正から昭和にかけて、専門棋士の昇段は「朝日」、「日日」、「報知」、「時事」、「都」、「国民」、「万朝」。この七つの新聞将棋に限ったものだが、昭和にはいって「読売」と雑誌「講談倶楽部」の将棋が加わった。
しかも「読売」も「講談」もともに他社にさきがけての豪華手合であったから、後のカラスが先になった形で、先輩各社は顔色なしだった。「読売」将棋欄に人気は集中した。このへんから「読売」将棋欄に人気は集中した。このへんから「読売」と「毎日」さらに「朝日」各新聞のセリアイが目だってくる。前記八新聞のあいだに「大朝」「大毎」などが大きく割ってはいり、関西系二大新聞の組織の力は、東京各紙の上に大きくかぶさってきた。
青年木村が二十年近く頑張った「報知」もぶっつぶされた。大崎八段の牙城「国民」も圧倒されてしまった。これは後の話だが−
当時の「読売」には辣腕家矢野営業局長が、二流紙を一流誌紙にする努力に懸命だった。勇将正力松太郎社長のもとに矢野営業局長は存分の働きをした。土居八段をといて八段戦に賛成せしめたのは「読売」の資力をバックとした矢野氏に外ならぬ。関根十三世名人は「読売」の講評責任者として、二つ返事でハイハイと引きうけた。むろん「朝日」や「日日」「報知」其他の各紙にも、ある程度の申しわけをし、いろをつける雅量は持合せている。「関根」と「土居」の師弟だった。
「花田」「木村」の先陣争い
菊池寛の第二の接吻が評判となっていた大正十四年十月「東京朝日」に関根九段と木村義雄七段の香落が連載された。名人は九段であるから、関根氏は九段として登場したのだが、現今(昭和二十六年)の木村名人は九段ではなく、段位を超越したそれ以上のものである。
大正十五年四月、木村が八段に昇ったので、八段戦をやるならちょうど絶好の時期となってきた。世間は花田と木村の両新進が、土居、大崎、金、木見の古豪に対して、いかなら戦績を示すかに絶大な興味をつないだ。だから「読売」ならずとも、全八段戦には大いに気があったはずである。
なお、木村七段の戦績は、二十四勝五敗全員中第一等の平均点百三点というズバヌケタものだった。(七十点がさしわけにあたる、同段の平手を勝った方が百二十点、負けた方が二十点とる。)その後、十八勝五敗、又全員中第一等の平均点九十六点を確保した。つまり二十四勝五敗百三点で八段昇格を認められながら辞退していたが、又十八勝五敗九十六点を得て悠々八段になった。
災難だったのは当時五段の金子金五郎氏で、木村七段に五番やられている。金子が弱くて六段になれなかったのではない。さしざかりの木村とたびたび顔が合ったばっかりに、五敗して、くさったのである。総当りでなく、木村に何度もぶつかる人と、めったに顔の合わぬ人が出来たのは不公平だった。但し鈴木禎一氏のように木村さんの大駒落を負けたことがないとよろこんで、書きいれにしていたなんていう例外はあった。運不運の外に、制度の不備から昇段の遅速も生じた。
昭和初期の棋界
昭和二年漸く有力棋士も出そろい、昇格すべきものは昇進し、合同すべきものは大同団結した。「読売」と有力なる雑誌社、講談社の「講談倶楽部」とが共に昇段に関する手合を掲げることになったことは既に述べた。
棋界の第三勢力があった大崎系には統主大崎熊雄八段を中心に、溝呂木七段、宮松・飯塚の両六段、平野・山北の両五段、鈴木四段、市川左団次の声色がうまかった三上三段、志沢二段、まだ久夢流を名乗らなんだ若き日の純一君、間宮初段等が顔をそろえた。大崎氏は高知から、宮松氏は愛知から、飯塚氏は茨城から、平野氏は青森から、山北氏は岐阜から、皆志を立てて東京に集って来たが、皆志を得て高段者となった。(溝呂木氏は元来東京の人。)
関根名人の元に、土居、金、大崎、花田、木見、木村の六大家が八段陣に勢ぞろいした。「読売」八段戦の皮切りとして登場した両棋士は「東の木村」と「西の木見」とであった。
木村八段昇進と前後して、好棋家だった府中の有力者鶴森信太郎氏は関根名人をはじめ棋界のおれきれきをことごとく鮎漁に招き、府中の魚仙(この料亭は今でも鶴森家の親類だ)で歓を尽くした。鶴森氏の令嬢が木村義雄氏夫人となったことは読者も御承知の方が多いと思う。(以下次号)
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「西の木見」というのはちょっと、、、。木見先生なら阪田先生を挙げるべきだと思いますが、、、。八段戦に阪田先生は出ないから仕方ないでしょうけど、、、。もう少し立てば神田辰之助先生が出てきますが、、、。

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