旧パラを検証する177
第十四号 12
三部作 将棋現代史B 宮本弓彦
「木見」「神田」「坂田」の一門
「東」の土居一門に対抗するのは「西」の木見一門である。その筆頭は名人位挑戦者升田幸三八段。続いて読売九段戦の花形大山九段。村上眞一、大野源一両八段。中井捨吉七段。上田三三、山中和正、二見敬三の各六段。角田三男五段。西本馨四段。橋本三治二段。山本晋初段等々多士済々。なんと言っても、人間味の深かった木見金治郎氏だけに門下に、異質の棋風を有つ、さまざまの棋士がすくすくと成長するだけのうるおいがあった。
木見一門に匹敵するのは神田辰之助八段一門で。松田辰雄(前名は与之助)八段を筆頭に早見えの灘照一七段、岡崎史郎六段、神田鎮雄六段其他。
坂田三吉八段の流れをくむ。藤内金吾六段とその系統の高島一岐代八段。
坂田の正系たる星田啓三六段。京都の誇り村上八段門の南口繁一八段。
「升田」と「大山」以外がすべて今期はA級からB級へと降ったことは、淋しい限りだ。松田辰雄八段のA級張出しで病気休場が惜しまれてならない。
「大野」「高島」「南口」等関西の精鋭たちのA級復帰と新人灘七段の棋運にめぐまれての昇格を期待する。
なんといっても、関西の正統は、さきに誌した木見直系か、阪田派か、神田一門に限るようだが、書きおとした闘将として神田門の北村秀次郎七段の闘志は見事であるし、松浦卓三七段の病身なるは残念である。関西のC級にも人物はいないのではない。中井門の本間六段、神田一門の畝六段と野村六段、岡崎門下の増田敏二四段、熊谷達人四段等の奮起によって関西陣営にがっちりした充実味を加えてもらいたき次第である。とは言うものの、将棋のような玄妙深遠なる「精神的競技」の世界では芸の幅と深さを身につけるまでにその修業に年月を要する関係上、スイ星の如く新鋭の現れるナンテことをにわかに期待しても到底不可能である。とは言えB級乃至はC級から、新しい名前の選手がグングンと伸びてこなくては、面白くない。『三日会わねばかつ目して待つ』というたとえもあるから、今回順位戦には「升田」「大山」の後に続く関西棋士の台頭を切に祈る。
但し、過去二十年の涙ぐましい精励によりて、ながらく中央棋界(東京棋壇と言ってもよい)に立ち遅れていた関西棋界(大阪棋界と言っていた)が全東京の堅陣に対して五分の態勢までその陣容を整備し、遂には「升田」「大山」の順位戦を破竹の進撃によりて、東総大将木村義雄名人をして『余の後に続く者は東に居ないのか?』と嘆じさせている現今棋界。うたた昔日の感にたえないものがある棋力をもちながら政治的に葬られた「坂田」の意志を継ぎ、猛虎「神田辰之助」が東京攻略戦に現わした勇猛ぶりが、昨日のことのように筆者のマブタに映っている。又神田八段の勇名のカゲに隠されて、バツとしなかったけれども藤内金吾六段が鎌倉の朝日新聞社クラブに於て、全八段攻略は不可能とカゲ口されつつもかんぜんとして東京全八段に跳んだ香落熱血譜も、当時朝日新聞将棋の全部を記録係として、働きながら見学しておいた筆者の記録にマザマザとのこっている。
すべては、なまなましい「東西対抗」将棋のありのままなる血みどろの血闘だ。
東西対抗
「東西対抗」は、大阪と東京の争いで、明治、大正から、昭和の現在まで糸をひいている。あらゆる分野に於ける対立の姿だ。(その詳細は後章で述べることにして、ここでは棋界の大勢と摘要するにとどめておこう)新聞社も東と西とが、やはり血みどろな争いをした。西は次第に東を圧服してきた。
正力松太郎氏読売八段戦の大構想
「新聞将棋」は「碁」や「野球」や「新聞小説」と共に読者をひきつける新聞奉仕品として編集部(むろん営業販売系統からも圧力が加わってくるだろう)が重視した。
大正末期に、後藤新平氏等の助力を得て「読売」経営に乗出した正力松太郎氏が、本因坊戦と、将棋八段戦を掲載し、米国野球団を招き、興味津々たる紙面を以って読者に奉仕し、一挙に多くの新規購読者を獲得し、三流紙から二流紙に、さらに二流紙から一流紙へと、関西系の大新聞を対手に廻して、言うはやすく行うにはかたき三段跳びのハナレ業をヤツてのけたのは、世間周知の大記録である。
昭和二年の「読売八段戦」という正力氏の大構想が「大朝」「大毎」といった大阪系諸紙の牙城をおびやかした結果「東京朝日」や「東京日日」等が「新聞将棋」に相当力こぶを入れはじめたのである。
「報知」や「都」や「時事」や「国民」等々の各紙が「読売」に押されたのには他にいろいろの原因がみられたが、そのうち有力な一因として、正力氏の従来の常識を打破した構想によりバク大な手合料を奮発して、その代償として従来は『実現不可能なり』とあやまりつたえられていた、豪華けんらんたる八段戦を他紙にさきがけて、企画し独占掲載したるによる。
昨日に変る今日の観戦記つきの将棋欄、ハツラツたる紙面のセイサイに目を見張ったわれわれであつた。昭和二年の「読売八段戦」へのオドロキは、昭和二十六年の「読売九段戦」への興味とくらべても比較にならぬ大ヒットであつた。最初に八段戦を解説した鉄仮面石山賢吉氏や安田黄子氏、或は有名文士の誰それ等々。
北斗星菅谷要氏の登場以前の読売将棋欄の驚異的豪華さは、読売囲碁欄と共に文字通り他紙の追随をゆるさぬハナヤカさがあった。そうして「西」に圧服されて、次第に併呑されるか。もしくは全く経済的にたたきつけられる。「東」の新聞陣営に『読売ここにあり』『東京では読売が第一流』との勇ましい反ぱつをしめしたものである。
くしくも「読売」にいつたんセキをおいた「木村」と、現在セキをおく「塚田」がたらいまわしで名人位を保持して「西」の攻勢に耐えているのも、なにか意味ありげな「東西対抗」現実の姿ではないか。それはさておき。
近代文学と近代将棋の比較
『近代に於ては、将棋も小説も新聞連載の「続きもの、読者奉仕品」として発達した』と、私は第二部「大正棋界の発展」に於ていつておきましたが、事実上、近代文学も近代将棋も今日では新聞雑誌(狭義のジャーナリズム)の保護をうけないでは、立派に生きていけないと言っても決して過言ではないのであります。
棋士関係について調べてみても、明治大正時代には、師弟関係が唯一の結び付きであつたが、昭和時代にはいると、師弟関係が唯一つの結び付きであったが、昭和時代にはいると、師弟関係の上にもつと強い関係−有名棋士たちがそれぞれの立場からある特定の新聞社の専属棋士となり、新聞将棋の進行係を務める者や、解説係を受持つ者などが続々と現れる。−といつた新しい強力な結び付きが生じた。
無論、師弟関係で団結する外に、新聞社への専属となれば、棋士はその日から新聞社という大勢力に保護される、(一)経済的にも又(二)名声を保持する上にも、実際にこれ以上の大きな恩恵はちょっと外にない。
詳細は後章に記すが、ちょっと考えてみただけでも、古くは、明治大正かけて万朝報をめぐりての「関根」と「土居」の関係。ごく最近では「毎日」をめぐっての「土居」と「大山」との関係。どの場合もなかなか複雑な事情がひそむ。ここで簡単に解説出来ないが「朝日」は最初の「関根」「小泉」の線から「金子」「神田」の線に移り、さらに現今では「升田」「加藤」「原田」「松田茂行」の線に切りかえられた。時には棋士の運命をある方向にひきずる場合もある「新聞」の大きな勢力と比較すると微々たるものだが、専門誌としての「将棋雑誌」も亦棋士の運命と深い関係をもっている。しかし雑誌の場合は棋士の運命をひきずる迄にはいかない。
棋士とジャーナリズム
古くは明治大正時代に於て「関根」「土居」らが「将棋新報」に拠り、最近では「塚田」「建部」が「王将」に「原田」「五十嵐」「加藤博」らが「将棋時代」に依ったことなども、ジャーナリズムとの深い関係を示した棋士の生涯である。
新聞社の編集局長や雑誌社(将棋専門誌の外に「富士」其他の大衆誌がある)の編集局長は、専属乃至はそれに近い関係にある棋士や観戦記者などと相談して読者が歓迎しそうな形式の「新聞将棋」を演出する。棋士は注文に応じてお望み通りの組合せで一定の期日までに棋譜を生産しなければならない。ただ小説を書く場所と棋譜をのこす場合とことなる点は「小説家」は高度の通俗性と毎日毎回の小さいヤマ場を要求されるため調子を下していろいろ変化をつけたり、濃厚に官能にうったえたりしなければウケないが「棋士」はなんの顧慮なしに、実力いっぱいにさせば読者はよろこぶ。将棋の場合むろん調子をおろせば、八百長視される。
この点は、棋士は作家よりジャーナリズムに感謝してもよい立場に立つ。第一級の小説でも新聞小説として向かない場合があるが、第一級の棋士が全力をぶっつけあって必死に戦ってみせる棋譜は新聞将棋としてつねに適当である。ジャ−ナリズム於て多額の手合料をもらいながら、棋士は第一義に生きることができるのだから、優秀な棋士が専属となりやすい傾向があるのは、一向差支えないわけ。世の中に、自分の希望する仕事に没頭して、それで、生活が事缺かないとすれば、つらい憂き世にこんないいことがまたとあろうか!
低俗な作品を書きまくって、自分をほろぼした小説家もある。その心配のない高段棋士は実にめぐまれている。人間的に成長することは木村義雄が示している。その点で、人間的な成長が、低段より高段への近路だ。
生死の境から復員してきた「升田」がついに「大山」に勝ったのも、この事実を証明しているようだ。と言いきるのには、疑義もあるが第二章にゆずる。
新聞将棋ファンの数
『新聞将棋をみて、将棋を語り、将棋をたのしむ愛好者の数は、どのくらいあるだろうか』とはよく問われる質問だが、豪華棋戦「名人戦」を掲載した「毎日」は東京、大阪、九州の三区域を含めて三百五十万の読者ありと言われているし「名人戦」を掲載している「朝日」も東京、大阪、九州の三管区合計で三百五十万程度の読者を持つと称せられる。
これに続くものは、、関東を中心に百六十万以上の読者も有つ「読売」と、名古屋中心の「中部日本」の八十万、九州の「西部日本」が五十万、北海道では「北海道新聞」の六十万等々が大どころで、以下多くの読者に支持されていることは、周知の通りだ。
毎年一千万円いやそれ以上の費用が「新聞将棋」のために使われているのをみれば、いかに将棋好きの数が多いかは、言わずとも、あきらかになるだろう。
たとえば、私はへぼ碁を打つが、「新聞碁」の勝敗を知ろうと(どう打つたかよりは勝ち負けが面白い)新聞紙面に興味をつないでいる次第だ。時には、呉清源と藤沢を決戦させたらどんな手を打つかとか、橋本本因坊と坂田七段はどちらが強いかなどを考えて、たのしんでいる。
この程度の将棋ファンを勘定に入れたら三百万と勘定しても差支えないのではあるまいか。とすると、新聞将棋のネウチは大したものだ。
「木村」名人の王座をつけ狙う棋士がいかに生命がけの勉強をしているかも、おのずと明白となるわけ。
序章に於いて、棋界の鳥瞰図みたいなものを、書こうと考えて、一となで、さらつと刷いてみましたが、一応の大勢を概観することが、これで出来たでしょうか。
次回から、序章を了つて、第二章にはいつて、すこし、具体的に、棋界の人物や事件や等々を、書かしていただくつもりである。
(序章終り)
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当時の有力棋士が判って興味深いです。また、明治時代になって、新聞社が棋士のスポンサーになった経緯が判り面白いです。
また、新聞の部数が出て居ました。昭和26年人口8450万人で現在の人口は約1.5倍です。ここで2021年上半期時点の新聞の発行部数(ABC協会発表)を紹介すると。毎日2,011,884部 朝日4,751,459部 読売7,166,592部 中日2,020,387部 西日本479,398部 北海道881,318部。人口比を考えると、毎日新聞が350万部から現在の200万部というのは、大幅に凋落したと言えるでしょう。朝日新聞・北海道新聞はトントン。読売新聞は大幅増。中日新聞は増。西日本新聞は減。という感じでしょうか?新聞がこれから減って行くことが想定されることから、読売新聞以外の主催棋戦の存続は厳しくなって行くのかも知れません。

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