旧パラを検証する160
第十三号 9
箱根山 名人戦予想・・・木村・升田の名人戦予想。予想者と予想を抜粋。
八段 建部和歌夫 不明
徳島新聞社 麻植鉄山 升田
本紙選者 大橋虚士 木村
七段 灘照一 不明
ヘタの横槍 前田三桂 木村
詰棋作家 鈴木賢 木村
大牟田市 医師 上野勇 木村
25年アマ名人 山形義雄 升田
高校教官 吉野鳴南 木村
詰将棋評論家 松井雪山 升田
十三級子 草柳俊一郎 木村
東京将棋研究科 良延和雄 不明
医学博士 春藤俊男 木村
奈良 和田平一 升田
三重 平野廣吉 木村
八段 坂口允彦 不明
八段 原田泰夫 不明
八段 荒巻三之 不明
将棋評論家 宮本弓彦 不明
本紙選者 土屋健 不明
本紙選者 森利男 木村
石巻市久五主人 久松正夫 不明
鶴田主幹 木村
以上の結果を集計すると、木村勝9名・升田勝4名・不明8名でした。(結果は木村防衛)
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三部作 将棋現代史A 宮本 弓彦
ま え が き
王座を守らんとする名人「木村」は、受け将棋の妙技を見せ、挑戦者鬼の「升田」は、けんらんたる攻め将棋の本領を発揮する。
名人戦七番勝負は今や二対一木村リードで全国好棋家の話題を賑わしている。棋界に君臨している木村義雄は、棋士を育て上げることのうまかつた十三世名人が仕立てあげたあまたの逸材中での逸材だ。鬼の升田が攻め倒させないのは木村城だけ。木村は家康のように敵に攻められると隠忍して逃げまわる。しかし、結局は天下を取る。実にガッチリした危なげのない将棋を指す男だ。
今年の升田は難攻不落と思われた「大山」軍でさえ、簡単に蹴散らしてしまった。その升田も容易に勝ち切れない。しかも木村は、さかりを過ぎたウバ櫻であるとけんそんしている。し盛りは十三段と噂された木村。今でも十段ほど指す。升田が十三段になつたり実力以下になつたりするのは、体力に欠けるところがあるからである。全く惜しまれる次第だ。
序 章 の 二
木村が中終盤に無類の強味を発揮するものはなにも今に始った話ではない。
昭和十三年に先輩の「花田」を破って第一期の名人位に即いたときも、トギ澄した鎌のような花田の寄せを巧みに逃げきった木村である。
木村対花田は実に壮烈な争いで革新協会を代表して死闘したのが花田だ。
受けの名人木村の特徴を遺憾なく発揮して花田を破り、昭和十五年「土居」を破ってさらに第二期の名人になったときも、土居の攻勢を完全に受け切って勝っている。
十七年、「神田」の攻撃も木村の不死身のごとき渋い受け将棋を降し得なかった。以来二十二年に第七期の名人位を「塚田」に奪われるまで、木村がツカんで離さなかったしかもその木村が塚田を二十四年に打破名人位を奪い返ってして再び名人位に返り咲いた。失手われた選権を奪いかえすために、木村は臥薪嘗胆した。白髪の数を増し、額に三本じわをよせられた。木村の復活名人位が昭和二十五年第九期である。
塚田は第一期の名人戦で木村に敗けた花田の一番弟子だ。ついでに云うと「坂口」は山本樟郎七段と花田との、わけ?弟子である。
「荒巻」はA級に入った。「広津」もB級に昇格した。花田一門の総進軍だ。
木村は重量ある中終盤に読み勝った塚田の不振はいぶかしい。
塚田が花田より出て花田より鋭かった如く木村は関根に育てられたが、「氷は水より出て水より冷た」かった。
不死鳥木村は、読みが深く、攻めなら、受けなら、師匠の関根をしのいだのは驚異である。筆者も「関根」の人情に泣かされたことはあるが、読みの深さに魂消たことはない。関根最盛時の棋譜にも凄味は感じられない。
私は博文館の大橋進一社長の命で、かつて関根金次郎全集のため、その全棋譜を集成したことがあるが、その原稿は印刷されないで大橋社長の手もとにある。と言うのは最初の予定では、関根十三世名人全集がさきに出る筈であったのだが、途中から木村名人の全集を出すことに切りかえられた。これも矢張り博文館大橋進一氏の手で企画され、修業篇が出たのみで計画は中途挫折した。関根名人全集がさきに出なかったのは、用紙事情がわるかったり時局も悪すぎたりしたせいだ。博文館からは、木村全集の修業篇と土居の実戦録がつぎつぎと出版されたが、関根のそれは流産となった。
土居市太郎氏は関根の弟子と云うけれども早くから八段になり、後にあまたの門人を養成した。東京日々其他の将棋欄によって棋界に号令した土居の雄姿は天晴れ関根の総領弟子たるに恥ずかしくないものがあった。
土居一門の「金子」もA級の松田茂行はじめよい弟子を育てているが今年の松田は期待されている。
「小泉兼吉」八段は後に改名して小泉雅信八段であり、小泉一門にもA級二年生が居て堂々名人位を狙っている。
宮本弓彦の二段は、将棋世界の最初の専門記者としてアマチュア化してときのおなさけ二段である。
木村名人は愛息義徳君について八段昇格確実と今から折紙を付けて居られる。但し学業を廃してやればの話だ。
「北楯修哉」八段は将棋世界一本鎗で大攻勢をとり、名人戦棋譜の独占では他誌を抜いた。(本誌は詰将棋専門誌故話は別)
「金高七段」はおっとりした性格で、読売八段戦で健闘している。
稲毛、小林両君は現在第一線を退いたが、梶八段あたりと同期生だった。
「渡辺」連盟会長は関根の血続きで、人の上に立つ人柄をうけついだ。下平氏も二上君も柄の良いところ師匠そっくり。
「五十嵐」は「加藤博二」七段となが年同居生活して共同研究に熱心である。樋口、細田の両氏は故人。就中、細田は大崎門下の林勝三郎、土居門下の近藤孝、溝呂木門下の中村貴男らと同じく惜しい若死だった。
塚田門下の宮坂幸夫初段、「萩原」門下の岩木勝彦三段、小堀門下の津村常吉三段等も将来ある若者として見のがせぬ。
関根、土居の一門に対抗出来るのは「大崎熊雄」八段の系統だ。溝呂木七段もこの系統の中に入れてもよさそうである。
平野七段は計数に長じた温和な人だが、「丸田祐三」八段が門下から傑出した。
平野氏は早くに第一線を退いて居られるが建部和歌夫八段と共に満州大成会の発展に奮闘努力をした人。余技の囲碁はかつて将棋界随一の強さだった。
「市川一郎」六段は、明朗な大きな声の講義の上手な人。「藤川」「鈴木」の両氏は物静かな感じのよい男。
準名人大崎の死はすこし早すぎた。大崎さんが居るともつと将棋界は明るいのだが−。土居大崎の合言葉だった時代が懐しい。
土居大崎の両名家も新聞将棋の発達に非常に大きな役割を果した。勢のおもむく処、時には関根土居大崎の三派が新聞将棋をわが手に争奪しあった事実はある。
さあれ、関根一門花田の死も早すぎた。
木村門下の「和田庄兵衛」六段の若死も棋界の損失だった。と同時に、木村さんの痛手だった。弟子運がわるかった。
功成り名遂げて休場するのはお目出たいが幽明境を異にして仕舞うほど残念なことはない。天分を充分に伸ばさないうちにツボミの花を散らしては、残念千万である。
「飯塚」門下「永沢勝雄」(天目子)五段と「島村増喜」四段や萩谷平五郎初段を出した。
溝呂木、飯塚は大崎八段に師事したと言うよりは、兄事したと言うべきか。
「石井」「山本樟」「宮松」の三氏は別格として軽視を許さない存在であった。
「佐瀬勇次」七段は新進だが著書もあり、努力家だ。「大和久」さんが中堅棋士だ。
「加藤治郎」八段は三象子として名人戦を解説するの外、ラジオの花形である。坂口八段は、山本門下として登録すべきかも知れない。彼は西洋将棋が巧みだ。
「富沢」七段は将棋評論同人の一人として異色ある文を書く。
加藤門下の「原田泰夫」八段はA級のバリバリである。原田の弟弟子に木川四段があり弟子に佐藤健吾三段がある。佐藤君は人物がよい。満州帰りのせいか、せせっこましくなくて、健吾さんは大人の風格が好感を抱かせる。大陸的な大まかな将棋に成長して頂きたい。
宮松七段は愛知県の産んだほがらかな棋士だった。面倒のよい人だった。早見え早指だったが、「京須」「橋爪」「佐藤」氏等は皆慎重そのものである。富久さんには最近会ったが、病気でお気の毒だった。石井門下の長谷川氏、山本門下の土山氏、溝呂木門下の都築氏等皆第一線を退かれている。
宮松さんの愛息は駒作り師として盛名のある宮松幹太郎氏である。
(以下次号)

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この当時の期待の棋士が解って面白いと思います。

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