旧パラを検証する143
第十二号 3
名人戦だより・宮本弓彦・・・木村・升田名人戦の逸話
関西棋界の親、木見八段を悼む・日出島勝芳・・・木見八段の功績と坂田・木見戦の紹介
かたき討、大道五目破り・荒法師・・・荒法師(荒谷光一氏)の大道五目破りの記事
初心者の知識欲・内山精一・・・王将と玉将の根拠についての考察
詰棋の鬼・鈴木芳己・・・プロの詰将棋の余詰指摘。
虎の巻か猫の巻か・香玉三十六桂・・・香玉三十六桂氏(古関三雄氏)による土居八段の詰将棋の余詰指摘。
へぼのたわごと・金桂狂児・・・自作川柳と詰将棋の紹介
砂糖と塩・西口工・・・実戦の終盤とそれを基にした詰将棋紹介
詰手順について・相馬夢龍・・・妙手説と長手順説についての私見
巨匠花田八段を偲ぶ・佐々木哲二(越智信義氏のペンネーム)・・・
一世の名匠花田長太郎八段が、昭和二十三年三月二十八日なくなられてより、はや四年となつた。
明治大正棋界の不振から、今日の棋界の隆盛を築き上ぐるには、関根、土居、大崎、木見、金、花田、木村、金子などの名棋士の努力によるところが多かったが、就中「寄せの花田」と謳われて独自の棋界をほこり、多くの花田新定跡を出して、近代将棋術の上に果した彼の功績は、将棋史上大書されるべきものである。
思い出の棋譜を二、三撰んで、ありし日の名匠を偲ぶことにする又別掲の詰将棋は、彼が少年時代に、明治四十四年発行の「将棋雑誌」に投稿した「アイウエオ詰」と、死の五日前に作って弟子の塚田前名人に手渡した「辞世の一局」である。
尚昭和十八年二月、当時の将棋大成会に「九段昇進の規定」が設定され、この九段昇進規定され、この九段昇進規定の一つ即ち『大成会直営昇降段棋戦規約八段にして二ヶ年通算十九勝五敗以上の成績を収めたる者は九段とす』に対し、花田氏は昭和十八年七勝五敗、昭和十九年十一連勝計十八勝五敗の好成績を挙げ、残りの一局対坂口八段戦が大いに期待されたが、戦時中の空襲騒ぎに紛れてか、そのまま打ち切りとなってしまったらしい?のは、全く同氏の為にも棋界の為にも残念な事であった。
大正九年三月
角香交 六段 花田長太郎
角落番 三段 木村 義雄
62銀、76歩、54歩、56歩、64歩、66歩、72金、78銀、84歩、58金右、53銀、67金、42玉、26歩、32玉、48銀、74歩、25歩、73金、77銀、62飛、79角、65歩、同歩、同飛、66歩、61飛、68玉、64金、78玉、42金、36歩、44歩、24歩、同歩、同角、23歩、68角、43金、46歩、55歩、同歩、同金、56歩、54金引、47銀、73桂、88玉、34歩、78金、85歩、37桂、33桂、16歩、94歩、15歩、22銀、58飛、64金、55歩、65歩、同歩、同桂、66銀にて第一図

75歩、56銀、57歩、28飛、35歩、47銀、76歩、同金、75歩、85金、36歩、同銀、35歩、47銀、24歩、A74歩、25桂、同桂、同歩、B73歩成、76桂、98玉、88歩、C79角、89歩成、同玉、77桂打、98玉、69桂成、25飛、58歩成、同銀、79成桂、同金、34金、29飛、38角、69飛、56角成、67銀、46馬、68歩、57桂成、同銀、同馬、26桂、25金、59飛、58歩、同飛、同馬、同銀、77銀、96歩、95歩、同歩、74金迄121手で花田氏勝
☆ ★ ☆
昭和五年十一月
平手 八段 土居市太郎
先 八段 花田長太郎
26歩、84歩、25歩、85歩、78金、32金、48銀、62銀、69玉、41玉、76歩、86歩、同歩、同飛、24歩、同歩、同飛、23歩、26飛、82飛、87歩、34歩、56歩、54歩、16歩、14歩、58金、53銀、57銀、44歩、36歩、42銀上、68銀上、43銀、46歩、52金、96歩、94歩、37桂、74歩、35歩、同歩、45歩、同歩、22角成、同金、24歩、34銀、55歩、44角、23歩成、25歩、54歩、26歩、53歩成、同金、22と、同飛、71角、52歩、54歩、同金、44角成、同金、66角、33角、25銀、43金、33角成、同金、66角、25銀、同桂、同飛、33角成、同桂、34銀、36角、59銀、65桂にて第二図

66銀、49飛、47歩、57銀、33銀成、58銀不成、79玉、22飛、43桂、68金、88玉、78金、同玉、67銀成、88玉、77桂成、同銀、同成銀、同桂、79角、同玉、59飛成、69桂、同龍、同玉、47角成、79玉迄107手で花田氏勝
☆ ★ ☆
昭和十一年十一月
八段 花田長太郎
(三人相談棋戦)
先 六段 坂口允彦、六段 塚田正夫、五段 建部和歌夫
26歩、84歩、25歩、32金、78金、85歩、48銀、62銀、24歩、同歩、同飛、23歩、26飛、34歩、76歩、86歩、同歩、同飛、87歩、82飛、69玉、54歩、56歩、53銀、58金、41玉、57銀、74歩、36歩、64銀、46銀、75歩、同歩、同銀、25飛、64銀、66歩、42銀、65歩、33桂、28飛、75銀、67金右、86歩、同歩、同銀、85歩、77歩にて第三図

同金上、同銀成、同金、73桂、86金、65桂、68銀打、45桂、22角成、57桂左不成、78玉、22金、74歩、69角、67玉、47角成、57銀引、同桂成、同銀、75歩、68桂、39銀、25飛、88歩、66角、89歩成、22角成、79と、B73歩成、55桂、66玉、48銀不成、同銀、同馬、57銀、64銀、55歩、65銀打、77玉、57馬、82と、76銀打迄90手で花田氏勝ち
☆ ★ ☆
(1)から(3)は明治四四年、花田氏十五才の時の作である。

(1)54銀、同玉、44金、55玉、64銀、56玉、23角成、イ65玉、85龍、64玉、A74龍、55玉、45馬迄13手詰

(2)43桂成、同龍、A62銀打、同龍、54銀引成、同龍、45桂、同龍、42銀、同龍引、54香迄 11手詰

(3)21桂成、同角、12飛成、同角、同香成、同玉、13銀、23玉、12角、32玉、A33桂成、同龍、22金、同龍、同銀成、同玉、24飛、32玉、23飛成、42玉、52馬、31玉、21角成迄23手詰

(4)52飛生、31玉、13角、イ同金、22銀、同銀、32歩、41玉、51と迄9手詰
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花田VS木村の角落を見ると、角落は微妙な手合だと思いますね。「名人木村義雄実戦集」にはAで26歩とすべきだったという感想があるが、とても本音で言ったとは思えない。COMで検討した結果、BやCで86角と角が逃げていれば下手が良かったようです。
次に詰将棋についてコメントします。
(1)イで47玉は57龍、38玉、48飛以下15手駒余らずの変長。今では不完全です。ま
たAで75龍、63玉、41馬、62玉、72龍の収束余詰あり。初形字になっているだけで、捨駒も無いので、今なら当選しない作品です。
(2)A45桂、同龍、62銀打、同龍、同銀生、同玉、64飛、51玉、53香、52桂、同角成、同角、63桂打、同銀、同桂、62玉、52香成、73玉、62角、82玉、71角成以下余詰
45桂〜42銀は良い手順です。
(3)Aで21角成、23玉、22馬、14玉、15金迄15手の早詰。24飛の限定打は好手だと思います。
(4)花田長太郎八段は昭和23年2月28日没。死の床で愛弟子の塚田正夫名人に筆記させたのが、この「辞世の局」と言われる詰将棋です。実際の図は不完全で塚田名人が補正したと言われていますが、塚田名人はどのように修正したか死ぬまで明らかにしませんでした。この図でもイで同桂、32銀、22玉、43銀成、42銀打、同飛、同銀、32飛、21玉、12銀迄13手歩余りの変長です。
変長を無くしてみたのが下図。

52との紛れが無いし、何より13角の捨駒の味が原図に大きく劣るので、良い修正図とは言えませんが、、、。
花田長太郎は今では忘れられている名棋士なので、この機会に紹介しましょう。
花田長太郎は、明治30年、地蔵町1番地竹細工屋花田弥助の長男として生れる。小学校6年の頃に新聞の懸賞詰将棋に応募したことから将棋に興味を覚え、大正3年、函館商業学校(現函館商業高等学校)を中退して上京、関根金次郎13世名人の門下生となる。翌年大正4年2段を振り出しに毎年昇段して大正8年に6段、14年には28歳の若さで8段に昇る。5段当時、22人抜き、7段の時には関西の雄・阪田三吉翁に香平2番勝ちという偉業をとげる。理論に徹した鋭角的な棋風で寄せには定評があり、“序盤の金子金五郎”“中盤の木村義雄”“寄せの花田長太郎”と並び称せられた。
第1期名人戦に参加、弟弟子の木村義雄8段(14世名人)と名人を争い、敗れた。
太平洋戦争後も順位戦に参加するが第2期途中で病気欠場、再起することなく昭和23年死去した。昭和37年、追贈9段。
北海道の将棋の先駆者であるばかりか、門下生には坂口允彦9段(日高町出身)、塚田正夫名誉10段(6、7期名人)、荒巻三之8段、広津久雄8段がおり、“花田人脈”は将棋連盟内の一勢力となっている。
ここで、花田先生の代表的棋譜を掲載します。
昭和十一年八月十六日、十七日 名人戦決定特別リーグ戦(持ち時間各13時間)
先手:花田長太郎八段
後手:木村義八雄段
76歩、34歩、26歩、54歩、56歩、62銀、25歩、32金、48銀、84歩、78金、85歩、24歩、同歩、同飛、23歩、28飛、86歩、同歩、同飛、57銀、82飛、87歩、41玉、69玉、94歩、96歩、14歩、36歩、53銀、58金、52金、16歩、74歩、46歩、44歩、68銀上、42銀上、37桂、43銀、26飛、31玉、(第4図)
この局面で35歩〜45歩としたのが有名な花田定跡の手順です。

35歩、同歩、45歩、34銀、46銀、43金右、55歩、45歩、同銀、42銀、77角、45銀、同桂、(第5図)当時の感想戦等では、42銀では64銀とすべきとされています。77角が好手とされていますが、COMは15歩と端攻めを推奨しています。

この局面で36銀としていれば互角というのがCOMの意見で、確かに66飛とされては不利なので、36銀が良かったように思えますが、当時は全く触れられていません。
34銀、66飛、45銀、63飛成、33角、61龍、22玉、24歩、同歩、23歩、同金、41龍、34銀、32銀、31桂、54歩、86歩、同歩、55歩、53歩成、同金、23銀成、同玉、32歩、22角、71龍、92飛、31歩成、同銀、54歩、同金、46桂、45銀、54桂、同銀、81龍、42飛、47歩、46歩、51龍、47歩成、54龍、58と、同玉、43金、74龍、56歩、25歩、77角成、24歩、32玉、77桂、36角、47歩、22歩、23銀、同歩、同歩成、41玉、71龍、61歩、同龍、51桂、52歩まで119手で先手の勝ち
兎に角、第1期名人戦の名人戦決定特別リーグ戦という大事な将棋で研究手順の花田定跡を披露したことで、棋史に残る棋譜となりました。
昭和十二年三月二十一日〜二十七日 (持ち時間30時間) 於、天竜寺
先手:花田長太郎八段
後手:阪田三吉
76歩、14歩、26歩、54歩、25歩、32金、24歩、同歩、同飛、52飛、28飛、23歩、56歩、34歩、48銀、44歩、57銀、42銀、68銀上、62銀、78金、53銀右、69玉、74歩、46歩、43銀、36歩、72金、58金、64歩、96歩、42飛、16歩、41飛、79玉、94歩、37桂、62玉、26飛、33角、47金、71玉、55歩、同歩、同角、51角、56金、33桂、35歩、54歩、66角、35歩、45歩、同歩、同桂、同桂、同金、44歩、35金、34歩、36金、63桂、35歩、65歩、77角、84歩、34歩、同銀、55歩、同歩、54歩、64銀、25金、45銀、35金、54銀、34金、56歩、同銀、57歩、59歩、58歩成、同歩、55歩、47銀、66歩、同歩、31飛、35歩、62角、23金、43金、22金、35飛、36歩、25歩、29飛、33飛、11金、45歩、25飛、46歩、21飛成、61歩、86角、75桂、25桂、34飛、38銀、85歩、77角、87桂成、同金、37歩、49銀、47歩成、82歩、同玉、61龍、71金、52龍、53金、22龍、42歩、84歩、44飛、33龍、72玉、65香、43飛、同龍、同歩、64香、同金、32飛、29飛、83桂、49飛成、88玉、61金、52銀、63銀、61銀成、同玉、33桂成、52銀打、42成桂、86香、同角、同歩、同金、45角、31飛成、72玉、59香、58と、71桂成、同角、83歩成、62玉、54歩、41桂、53金、同銀、41龍、78角成、同玉、68と、88玉まで169手で先手の勝ち
天竜寺の決戦の棋譜です。
名人戦は毎日新聞が創設して、棋界の話題を独占し、部数も伸ばした。一方ライバル紙の読売新聞は、名人を争う木村。花田両八段に名人を僭称してから公式戦に出ていない阪田三吉をぶつけて、話題を独占し、あわよくば阪田がどちらかに勝てば、名人戦の権威を貶めることが出来るという、新聞の代理戦争の面もありました。
木村八段は毎日新聞が反対した場合は、あえて指さなくても良いと思っていたようですが、負ける筈が無いと思っていたようです。一方花田八段は何としても阪田と指したいという感じだったようです。結果、木村・阪田戦は木村八段の圧勝で、途中から木村八段は原稿を書いていたりして余裕だったようです。阪田・花田戦は花田優勢で進みましたが、ミスを連発して、もつれた末に花田八段の勝となりました。阪田・花田戦が今一つマイナーなのは2戦目だっだこともありますが、阪田に善戦されてしまったから、あまり広めたくないということもあったのではないでしょうか?
昭和十二年十二月五日、六日 名人戦決定特別リーグ戦(持ち時間各13時間)
先手:木村義雄八段
後手:花田長太郎八段
76歩、34歩、26歩、54歩、56歩、62銀、25歩、32金、66歩、53銀、24歩、同歩、同飛、55歩、同歩、23歩、28飛、44銀、68銀、52飛、58飛、55銀、67銀、56歩、48銀、33桂、46歩、同銀、56飛、55銀、26飛、56歩、58歩、14歩、68金、13角、69玉、42銀、47銀、41玉、65歩、31玉、48金、54飛、46歩、35角、28飛、44角、78玉、64歩、45歩、71角、64歩、同銀、56銀右、55歩、47銀、44歩、66銀、45歩、65歩、53銀引、55銀、74飛、67金、22玉、56銀、94歩、57金上、95歩、36歩、54歩、66銀、94飛、37桂、44銀、46歩、同歩、45歩、55銀、同銀左、同歩、同銀、35歩、44銀、47歩成、同金、93角、34銀、66歩、同角、同角、同金、39角、23銀成、同金、同飛成、同玉、41角、32銀、24歩、同玉、32角成、28飛、25歩まで105手で先手の勝ち
第1期名人が決定した棋譜です。
この将棋に花田八段がもし勝っていれば、6番勝負を行っていたそうです。第1期名人戦の結果は次のとおり。
第1位 木村八段(特別リーグ戦、13勝2敗、普通戦、27勝7敗、平均点103.7)
第2位 花田八段(特別リーグ戦、13勝2敗、普通戦、12勝8敗、平均点95.6)
普通戦というのは、特別リーグ戦意外の対八段、七段戦を普通棋戦の得点とするという規定でした。特別リーグ戦では同じ13勝2敗なのに、普通戦の内容の差で木村八段が名人になったのですが、当たる相手や局数も違うのに点数に入るのは変な規定のような気もします。
次に代表的な詰将棋として「二六」を載せておきます。

73銀生、イ54玉、A43銀生、55玉、44銀、同桂、57飛、同と、47桂、同と、56歩、同桂、66金上、同角、67桂迄15手
イ同玉は51馬、62香、65桂、83玉、81龍、82香、61馬、74玉、73金、84玉、82龍、同角、87香、86歩、96桂、93玉、83馬迄19手の変長
Aで57飛、同と、43銀生、55玉、47桂、同と、44銀、同と、66金寄、同角、56歩、65玉、63龍、64歩、76金打迄17手の余詰
Aで66桂、55玉、44銀、同と、65金、同玉、63龍、64金、76金打、55玉、64銀生、同桂、65金打迄15手の余詰
初手73銀生は同玉の変化を含み難しい好手。更に43銀生〜44銀と3銀連続の追撃。特に44銀は後の打歩詰を打開する伏線手で最後も吊るし桂で好作です。ただ、Aの手順前後っぽい余詰やイの4手長は痛いところです。旨く修正出来れば、詰棋史の残る作品だと思います。
前述のとおり、花田先生は詰将棋を先に知って、指将棋の方が後だったという、珍しい経歴の持ち主。昭和4年大森書房刊「花田長太郎集」より略歴を引用してみます。
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懸賞の詰将棋が機縁(花田長太郎八段略歴) 菅谷北斗星記
私は明治三十年七月六日、北海道の函館に生れた。
幼い中は両親の下で、平々凡々な子供の生活を送って来たので、別にとり立てて云ふ程のことはない。かくて、小学校も一年から二年、二年から三年と正規の順序を踏んで進んで行く中に、それは尋常六年の十三歳の時であつた。函館の「函館毎日新聞」といふ新聞に、詰将棋の解答が懸賞で募集せらしめてゐて、誰が始めたともなくクラスの学友たちがそれに応募し始めて、小さな流行に来たした。好奇心の旺盛な少年時代のことだ、無論、私もその流行に感染して、いろいろ苦心をして作った解答をそれに応募して見た。だが、解答の発表を見ると、見事に私は落選してゐるのであつた。私は、自分の解答の一体何処が間違ってゐるのかと思って、発表せられた詰め手を調べて見ると、私の考へあど浅いもので「なる程、将棋といふものは深遠なものだ」といふことが、子供心にも深く感じられたのである。これが、抑も私をして、棋士の生涯を送らせる機縁となつたのである。
こんな風に、浅いながらも将棋の妙味といふものを味得した私は、それからといふもの、宛全将棋の熱に浮された病人のやうなもので、家にあつたものや、自分で買込んだ詰将棋の本を見ては盛んに研究をした。ただ滑稽なことには、最初の中は、詰将棋だけで、指将棋といふものを全然知らなかったことである。これは他の人達が将棋道に入った動機と大いに異なるものだと私は思ってゐる。
その中に、新聞に依って、将棋には詰将棋だけでなく、指将棋のあることを知ったが、詰将棋に魅了せられた私の小さな魂は、攻防の戦略を縦横に用いる、複雑窮りなき指将棋の興味に、どんなに魅惑せられたことか!実戦に、新聞将棋の研究に私は日もこれ足らざる有様であつた。
その頃から、私は東京の新聞に掲載せられた指将棋を見て、平手将棋には土居市太郎氏の指し方を、香落将棋には金易次郎氏の指し方を研究し、模倣して「平手は土居さん」「香落は金さん」と云う風に、両氏を「まだ見ぬ、知らざる師匠」として、秘に崇拝してゐた。一方では、又故人、天野宗歩の棋譜を調べて、大いに得る處があつた。
十五歳の時、父は私を実業に就かせるつもりで、函館商業学校に入学させた。だが、将棋に魂を奪われた私は、勤勉な学生だといふことは出来なかった。学課の時間なぞ、先生の講義を筆記するふりをしては、頻りに将棋の本を寫してゐるといふ有様で、十八歳の、多少人生のことに就いても考へるやうになつた頃には、私は「この興味尽きる處のない将棋や碁を知らない世間の人は、一体何を楽しみに生きてゐるのであらう」と、単純に思い込んだ程であつた。
かういふ次第で、私は一日も将棋を離れて生活することが出来ないので、最初は家族の者からもいろいろ訓戒を加へられたが、それ位のことで私の魂の底まで浸み込んだ将棋を、私から奪ってしま不ことは出来なかった。たうたう私の周囲が、私をして専門棋士としての修業をすることを許してくれたのは、あと一年で学校を卒業するといふ、私の十九歳の時であつた。私は函館商業を退学して、恩師柳浦翁から貰った関根金次郎先生への紹介状を懐にして、欣然として上京したのであつた。
上京後は、関根先生の門下として、専らその薫陶を受け、私は二段の段位で最初の新聞将棋を指したが、それが新聞紙上に発表せられた時の私の喜び!今迄はまるで雲の上のやうに遙かなものと思ってゐた東京の棋士生活に自分もたうたう入ることが出来たのだと思ふと、私は自然に心が高鳴って来るのを感じるのであつた。
かくて、二段の時には早く三段の時には早く四段になりたい−くいふ内心から衝き起って来る、輝かしい希望をもつて、専心研究錬磨した。さうしてその希望は徐々に実現せられて行って、三十三歳の今日に及んだが、その間には研究上のいろいろな苦心はあつたとしても、棋士としての自分は、比較的順調な経路を進むことが出来たものと云へやう。これは一つには関根先生及びその他の先輩諸氏の指導の賜であると、深く、感銘してゐる次第である。

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