旧パラを検証する142
第十二号 2
棋界春秋 盤側三十年(一) 中島 富治
未見の一棋友、鶴田諸兄君のよこした一通の書簡に、くしくも心惹かれて、本誌に筆を執ることになつた。彼の超人的な努力に傾倒し、なみならぬ情熱に心を打たれたからである。さて、どんなものを書いたらよいか。
最近の将棋の隆昌は真にめざましい。正に黄金時代の近きを思はせるものがある。誰か二十年、否、十年前に、この隆昌の要因を知ることは今後の沈衰や頓挫を未然に防ぐ所存である。この意味から、ここ三十年余りの棋界の推移変遷についても書いて見たい。この長年月に亘る推移の陰には幾多の秘められた事実がある。棋界の秘史とか、秘話とか言ひ得るもので、多くのファンの興味をそそるものなるのみならず、後人の参考に資する処多大であろうかと思われるから、之も差し支えない限り書いて見ようかと思ふ。又此間に活躍した棋士やその他の人々の功罪なども面白かろう。無論、その時々の棋界の重要な出来事、重要な対局の批判など、多くの人がはばかって、わざと触れぬがちな、問題は、進んで縦横に之を議論するであろう。
書いて見たいことは甚だ多いが、どうしても書かねばならぬことは多い。棋界の中枢を成す専門棋界の運営の当否など之である。中でも、段位の制度と、順位戦の機構は、焦眉の改革をせまられて居る問題であつて、現在のような乱雑な、無方針な状態に放任されるべきではない。
以上の外に、往年「将棋日本」誌上に書いた「つれづれ」のような、柔かい、肩のこらぬ、興味本位のものも、時々書いて見たい。
こうならべて見ると、書きたいことは甚だ多い。月一回では、三年も四年もかかるであろう。幸に健康は保っては居るが、既に六十五歳。いつまで筆が執れるか、心もとない次第ではあるが、後人に残す意味で書ける丈、書いて見よう。
書く前に、ことわっておきたいことは、私は率直を尚ぶたちで、お世辞や遠慮は大の不得手である。近頃、将棋の評論は数多いが、多くは、悧巧な、さわりのよい、無難至極のものである。無難ではあつても、日向水のようなものでは、面白くもなんともあるまい。面白いか否かは別として、このようなものに、何の意義があろうか。折角書く以上は、何等か意義のあるものでなければならない。自然、風当たりの強い処も出来ようが、之は已むを得ぬ処である。私は、こよなく将棋を愛し、棋界を愛する何事も、棋界のためにするものと、あきらめて貰いたい。ただ私は片言隻語と雖も空しくはない。凡て根拠に基いて書くのであつて、いささかの虚飾も作為もないつもりである。不満のある向は、公然と抗議して貰いたい。一々根拠を示して、之に答へるであろう。
三十五年間接して来た棋界の表裏から果してどんなものが飛び出すか。或は、口裏にもなく、泰山鳴動して鼠一匹、枯れ草をかむような、つまらぬものであるかも知れぬ。
本誌は詰将棋愛好家の牙城であり、パラダイスであるから、私の書くものは、少し縁の遠いものにものになるやの恐れもあるが、詰棋に興味と愛着を持つほどの人は、いづ
れも、将棋を愛し、棋界に関心を持たれる筈と、勝手にきめて、安心して書く。
では、先づ、焦眉の急を要する、段位制度と順位戦の機構の改革の問題からはじめよう。少し堅苦しいが、しばらく、しんぼうして読んで貰いたい。
段位制度と順位戦の機構の改革(一)
禍難厄災は幸運安穏の裡にきざし、衰退は隆盛のうちに芽ばえる。今、棋界は前代未聞の隆昌を告げて居るが、この隆昌は果していつまでも続いて、黄金時代を現出するのであろうか。時勢の変転、今日の如く急なるはなく、真に今日を以て明日を測り難い世情である。この時勢に対処して、棋界の隆運を維持し、更に一層の発展向上を期待するためには、棋界の中心を成す専門棋界の運営に不断の留意を拂い、時勢の流れに追随して遅れざることを念としなければならぬは言ふまでもない。現在に酔い痴れて、将来に思ひをいたさざるようでは、棋界の前途は暗い。
棋界運営の内容を成すものは、いろいろあるが、現在最も問題となって居るのは、段位制度と順位戦の機構である。之等は、なるほど、棋士に直接影響する大問題ではあるが、棋士だけの問題ではない。広く一般棋界の問題であつて、ファン大衆の問題である。言ふまでもなく、一般棋界は棋士のために存するものではない。逆に、一般棋界あつての棋士であつて、彼等の世界は一般棋界の一少部分に過ぎないのである。その棋士丈けのご都合や利害のために、ファン大衆が、興味のない将棋を見せられてはならぬのである。従つて、之等一重大問題の処理は、少数の棋士が勝手に朝令暮改すべき筋合いのものではなく、ファン大衆の要望に従つて処理せらるべきものである。にも係らず、現状は、之等一般棋界の最重要事が、棋士のみの団体である日本将棋連盟の一存によつて行われて居るのである。之等の諸制度はファン大衆のものである大きく言へば、天下の公器であつて、少数の棋士の私すべきものではない。ないが、ファン大衆の要望と言つても、之を的確に捕捉することは、実際問題として容易ではないから、その措置が相当に当を得るならば、将棋連盟が之に当たるは寧ろ便利であつて、批難すべきではあるまい。が、之の措置が当を得ることは、木に拠って魚を求めるよりも六つかしい。凡そ、他からチェックされることのない仕事が、とかく、マンネリズムに陥り勝ちならことは、何事によらず、避け難い世間の例である。況んや、職業の性質から、社会的視野の比較的狭小な棋士に於ておやである。最もいけないことは、それが、彼等の仲間同士の情実と利害に堕することである。事実之等重要な制度は、この情実のために、既に行き詰つて、心ある人士の関心の種となつて居るのである。例へば、段位の整理の問題の如きは、熱心なる多数のファンから投書があつたにも係らず、連盟の機関紙たる将棋世界上には殆ど掲記せられたこともなく、今では、ファンも諦めて仕舞ったようにさえ思はれる。幸にも、現在将棋連盟の幹部は渡辺、加藤、升田など、得難き、聡明な人士に恵まれて居る。彼等が現状に満足して居る筈もなく、之ではならぬことは、誰よりもよく知って居りながら情実が改革を断行せしめ得ないのである。今ほどファン大衆の強い声が棋界に要望せられる時はないのである。
之等諸制度に対する改革の意見はいろいろあるが、意見は紙上や口頭のみのものであつては意味を成さない。不可能を強いるものであつてはならない。現実的な、建設的なものでなくてはならない。以下号を逐つて、私案を述べて見よう。
読者の便宜のために、結論を先に掲げて置く。
(一)段位は之を廃止するか、存続するならば実力と一致させねばならぬ。実力と一致させるために移動するものとする即ち実力に応じて昇降せしむること。但し第一線の棋士のみに適用し、又第一線を退いた時は曾て有した最高の段位を冠用して差支えないこととする。
(二)名人戦の機構は大体に於て現行の通りで結構である。
(三)順位戦は左の如くにして、一層この意義を徹底的ならしめる。
(イ)現在の四級別をABCDEFの六級別とする。
(ロ)A級戦は名人挑戦者選出戦とし、真に名人と名人位を争ひ得る少数の実力者のリーグ戦とする。多くとも五名とし、先後二局宛対局させる。その結果、最下位の者一名にB級優勝者と決戦せしめ、負けたら之と交替させる。
(ハ)B級は七、八名とし、先後二局宛のリーグ戦を行ひ、前項に準じ、最下位の者二名にC級の優勝者二名と決戦させ、負けたら之と交替させる。
(ニ)C級は十名程度とし、一局宛のリーグ戦を行ひ、前項に準じ、最下位の者三名をD級優勝の三名と決戦させる。
(ホ)D級は十二名程度とし、凡べて前項の如くする。
(ヘ)E級は十四五名とし、各自十局乃至十二局対局、他は凡て前項の如くする。
(ト)F級は残りの現四段以上の棋士を之に当て、(十四五名となる)各自十局乃至十二局対局、決戦を行ふことなく、下位のものより、新に四段に昇進した棋士と交替させる。
(四)段位を存続する場合には、A級を九段、B級を八段、C級を七段、D級を六段、E級を五段、F級を四段とする。
(五)同一級に在りても、順位に従って物質的待遇に差異を付ける。
即ち段位は級に従つて昇降し、実力を標示することに改めるのである。非力な棋士、不勉強
な棋士、降り坂の棋士、にとつてはつらいことではあろうが、勝負の世界に住んで居る以上
已む得ないことである。つらいのも、しばしのことであつて、二三年もすれば、誰にも不満
のない、尋常当然のことになるであろう。
次号より之を詳述するが、詳述に先立つて、現在の棋界の構成の内容を表示して置くのが
ファンに取つて便利であろう。
(イ)棋士の員数とその段位
第一線 第二線(休場)小計
名人 一 一
九段 一 一
八段 一九 五 二四
七段 一六 一 一七
六段 一七 一 一八
五段 四 四
四段 八 八
計 六六 七 七三
之を見て、ファンは今更に八段、七段の氾濫と、五段、四段畑の淋しさに驚くであろう。
第一線だけで見ても、八段は全体の三分の一に近く、七段以上が遙に全員の半数を超えて居
る。しかも毎年、八段は全体の三分の一に近く、七段以上が遙に全員の半数を超えて居る。
しかも毎年、八段三名七段が二名宛増加する現制である。あと三年もすれば、八段は全体の
四割となり、七段以上が全体の七割を超えるであろう。将棋そのものの性質よりして、段位
の配列は名人一人を頂点とし、四段の員数を底辺とする三角形となるのが正常であつて、こ
うであつてはじめて、棋界に安定感があるであろう。現状を図形にすれば、驚くべき畸形を
呈するであろう。かかる畸形児が、よく、このはげしい時世の荒浪を凌いで行かれるかどう
か、識者を待たずとも明らかであろう。
(ロ)第一線棋士の級別
関東 関西 計
名人 一 一
A級 六 六 一二
B級 二〇(内八段七) 四(八段一) 二四
C級 八 九 一七
D級 六 六 一二
計 四一 二五 六六
(地域別は師匠の所属地域に依る)
ファンは独りB級の著しく多人数なるに驚き且つその理由を知るに苦しむであろう。理
由も何もない。情実情弊然からしめたものに過ぎないのである。誰が見ても、B級は須らく
折半して、更に一階級を作るべきものなりとするであろう。
関東関西の地域別は、改革に関係はないが、ファンに取つて一つの興味であろう。従来関
西側は棋士も少なく関東側に比べて、著しく見劣りしたものであつたが、最近急激に発展向
上を示して来た東西の実力均衡して、対抗接戦を展開することは、棋界の隆昌発展に欠くべ
からざる要件であつて、私も連盟に在つた頃、終始微力を尽した処であつたが、少し薬がき
き過ぎたか、最近俊敏大野の外に、升田、大山、松田(辰)、高島、南口等の台頭によつて、
俄然形成一変、名人位こそ、塚田、木村の善戦にはばまれて獲得し得なかつたが、終始東軍
を圧倒し、東軍は長夜安逸の夢破れ、今更に唖然として、もののあわれを身にしみて味はつ
て居る。が、之は上位丈けのことで、B級に於ては之の数も寥々しかも好成績の者もなく、
僅かにことし突入する若冠灘に期待をかける外はないあわれな有様である。中堅棋士に欠
乏して居る西軍の青年棋士の奮起が要望される。C級、D級(C乙組)に於ては拮抗して居
るが、之は自慢にはならぬ。D級には、両軍とも素人に負けそうなのが幾人か居る。今練成
会に居る小供達が四段になつて参加すれば苦もなく素通りでまかり通るであろう。
思はず、余談に走つたが、この四月からの新年度には、連盟も流石に多少の改革は断行す
るであろうが、果してどこまで期待し得るが、ファンの注視を要する処である。
老匠逝く
木見さんが死んだ。この上もなく惜しい、この上もなく淋しい。升田と大山は「師匠の目
の玉の黒いうちに」と、名人位獲得をあせつて居た。村上、大野以下、弟子達も皆同じ思い
であつたであろう。年に不足はないとしても、今少し、ホンの少し、生かして置きたかつた。
本人も、どれほどか、升田と大山に期待して居たであろう。
木見さんには、戦争のおかげで、七年あまりも会ふ機会なしに終つた。終戦直後、なつか
しがつて、手紙をよこした。寂しい手紙であつた。三度戦災にあつたその上に最愛の夫人に
先立たれて、あじきない朝夕をおくつて居た。夫人は世にも稀な賢婦人であつた。この夫人
なくして、立つて行ける木見さんではなかつた。
大阪に行くたびに、よく一緒に飲んだ。夫人と三人で、方々の小料理屋やかき船に出かけ
たことが思ひ出される。
木見さんの将棋は、晩年振るはなかつたが若い頃は強かつた。土居が五段で全国を漫遊し
て、風びした時、指し分けたのは木見さん一人であつた。東京に帰へつてから「木見さんは
強い」と、しきりにほめて居た。
が、木見さんのエライのは、将棋ではなかつた。人物であつた。温厚で、遠慮深かつたが、
内には烈しいものを持つて居た。弟子達も尊敬すると同時に畏れて居た。木見さんは、己を
空しうして他に尽くす人であつた。東京の棋士もずいぶん厄介になつた。大震災の時など特
にそうであつた。窮乏の中から、涙の出るような面倒を見た。
木見さんは永く不振の大阪棋界の孤塁を守つて、よくつとめた。関西棋界の今日あるは、
一にも二にも、彼のおかげである。彼はよく弟子の面倒を見た。升田、村上、中井以下、大
阪の棋士は大部分は、彼の指導と庇護を受けたものであつた。特に大野、升田、大山を育成
して今日あらしめた点に於て、彼は関根に次ぐ棋界の功労者、大恩人である。
あの温容、今は見るよしもない。寂しい限りである。草場の陰には、好きな酒もあるまい
が、やがて、手しおにかけて育てた弟子の一人が、将棋あつてはじめて、名人位を大阪に持
ち帰へるであろう。それも楽しみに、夫人と共に安息の一日一日を送つて貰ひたい。
冥福を祈る。
順位戦
順位戦は現在(三月一日)九割方終了した。名人戦挑戦は升田ときまつたが、その他の昇
級降級を決する鍵が、この残った僅少の対局にかけられて、微妙な動きを示して居る。次号
で、順位戦全体に渉る詳細な論評を試みたいと思って居る。
名人戦
既に開始の名人戦は天下待望の木村と升田との戦ときまつた。之れほど興味のある戦は
現棋界どこにも見ることは出来ない。棋界は湧きに湧くであろう。
木村、升田の名人戦は、その人気に於て木村、大山のそれに十倍するであろう。升田の人
気もさることながら、この二人が、性格に於ても、棋質棋風に於ても、全然対照的なること
がその主因であろう。おまけにこの二人は性格の相違から、余り懇親な間柄でないことが、
汎く棋界に知れわたつて居る。定めし鬼気盤上を覆ふであろうと言ふのが一般の予想でも
あり、期待でもある思へば罪な期待ではある。
さて結果はどうなるか、下馬評は既に盛んである。下馬評は、関東と関西では、自ら大差
があるであろうが、木村贔屓の多い東京でも、升田の勝と断ずるものが相当に多い。大阪で
は無論之れが圧倒的であろう。では私は之をどう見て居るか。
終戦後この二人は、席上対局や駒落将棋を除いて、たしか十局戦って、升田が二局勝ち越
して居る。が、この星の差以て強弱をきめるわけに行かぬ。問題はその将棋の内容である。
之に就て評論する紙面がないが、私は升田の優勝、しかも相当傾斜した戦績を残して勝つも
のと見て居る。要点は升田の速力が物を言ふと見て居るのである。懸念は升田の健康に在る
が、名人戦がはじまる三月二十日頃までには相当回復するであろう。いづれにせよ空戦の大
戦である。(三月一日記)
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将棋界のフイクサーだった中島富治氏の原稿を載せたのは凄いことだと思います。旧パ
ラは基本原稿料は無しですが、中島氏にだけは原稿料を支払っていたそうです。中島氏のこ
とを今の方は知らないでしょうから紹介しておきます。
中島富治(明治19〜昭和31)・・・鳥取生。東京高商(一橋大学の前身)卒。海軍入り主
計中佐で退役。高島屋飯田褐レ問。昭和6年〜12年将棋連盟顧問。新進棋士奨励会・実力
名人制の創設に参画。「将棋日本」「近代将棋」に評論を書く。「将棋随筆名作集」より
中島氏は戦前の政財界で有力者でした。履歴も凄いです。教科書にも出ているロンドン海
軍軍縮会議に海軍主計官として出席して活躍された方です。実力名人戦は中島氏が居なけ
れば実現しなかったと思われます。当時の棋士は博打打と変わらない存在だと思われてい
たのを、大新聞社が主催して名人戦が実行されたのは中島氏の仲介無くしてはあり得ませ
んでした。余談ですが、中島氏は関根名人の若い奥さんに着物等の贈り物攻勢をし、また、
多額の退職金を関根名人に用意して実力名人性が実現したことは、余り知られていない。関
根名人の大英断であることは間違いないですが、経済的に困窮していて、お金のために名人
の権利を売り渡したということは、後に当時毎日新聞の学芸部長だった阿部真之介氏も証
言している。余談ですが、阿部氏は実力名人戦に関して木村名人(当時八段)に根回しして
いた。他にも関根門下の兄弟子が居る中で、当時から政治力のあった木村名人に話を通して
おけば実現出来ると思っていたようです。また、奨励会も中島氏が中心となって作られたの
です、金銭面も中島氏等の民間人によって用意されたもので、棋士は金銭を出したりはして
いません。で、そういう功績で連盟の顧問になっていたのですが、そんなに恩があるにも関
わらず、外部の人に将棋連盟を牛耳られたことを快く思はなくなり、それが今もって重要な
ポストに外部の人間を入れていないことに繋がっている面もあります。
将棋も戦前に二段を貰っていて可成りの強豪でした。(1級と名乗っていましたが)
また「将棋日本」も発行していました。
中島氏の功績は現在意図的に将棋連盟の歴史には無かったことにされているように思え
ます。今回余談も多くなりましたが、中島氏の功績を載せておくべきだと思いました。

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