旧パラを検証する121
第十号 百人一局集 12
第五十一番
東京都世田谷区奥沢町二の三七
無職 十七才
八級
熊沢 国男氏作

73銀、同桂、72金、同玉、63金、同玉、53飛成、72玉、73龍、81玉、83龍、82金、A73桂打、71玉、72歩、同金、81龍、62玉、51龍、63玉、53龍迄21手
Aで同龍、同玉、73金、71玉、83桂、81玉、82歩、92玉、91桂成、同玉、81歩成、同玉、83香、71玉、82香成、61玉、72成香迄29手の余詰あり
★ パラ昭和26年7月号【「百人一局集」について】に下記の記事あり。
☆ 本図は検討の不備から余詰を生じております。即ち十三手目七三桂の手で八二同龍以下です。(中略)
この余詰をなくするには八二歩打を消して八四歩又は八六歩を配置すればよろしい。何れにしても粗漏な事でした。
☆指摘
玉井定右エ門 津金貞夫 村野南外
★ 序の5手目迄は良いものの以下が酷い手順です。むしろ余詰順を作意にすべく、攻方75歩を配置した方が良いと思います。
熊沢氏は1950年〜1953年に9作発表作があります。発表先は旧パラ、近将、風ぐるまで、手数は9手から97手。中編が得意でしたが、1作だけ長編がありました。
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第五十二番
横浜市磯子区西根岸上町一二〇
土木業 三十八才
十三級 但昭和十七年二月初段免除貰いしことあり。
草柳 俊一郎氏作

65角、43角、同角成、同金、32角、22玉、43角成、13玉、23金、同玉、33馬、14玉、12龍、13金、同龍、同玉、23金、14玉、26桂、同と、24馬迄21手
☆作者曰く
本局が既に某誌に小生以外の氏名で発表されしとのこと驚きました。近代将棋の作品に横槍を呈して嫌われた以外は投稿経験皆無(パラは別)です。私は昭和17・9・27−昭和21・3・3の間北支に居りましたし、二十三年二十四年は外国生活でまことに投稿経験はありません。ただ戦時中だかに愚作がある雑誌に載ったのをみた事があるとの話を箱根の沢田秀三郎二段から聞いてほんとにしませんでしたが、この愚作の事でしょうか。これは尤も旧作で旧作六、七十記入したノートを神奈川県下の友人に貸して紛失されましたが、すでに八、九年前のことで、誰かのいたずら投書でしょうか。変なはなしもあつたものです。
☆とすると本作は草柳氏が盗難にかかつたものか?敢て本作を百人一局集に登載の所以。
★解り難い文章でこれを読んだだけでは普通の読
者は何のことか全く判らなかったのではないかと想像出来ます。先ず、どの雑誌に何時誰の名前で同一作が発表されていたのかが全く不明です。調べてみたところ、同じ図が将棋評論1947年4月号に「草柳修一郎」名義で掲載されていました。名義も草柳の名字が使われているし、昭和22年4月は上記の草柳氏のコメントでも日本に居たようですし、詰将棋が好きなら当時詰将棋に力を入れていた将棋評論を知らなかったことも考え難いと思うし、普通に(?)二重投稿して、指摘されたのを誤魔化しているとしか思えません。
詰将棋としては本作は良く出来ていると思います。簡素図式から、金を43に誘導する為の65角の合駒請求に始まり、以下も簡単ながら、金合を入れて龍を切っての収束で、好作の小品と言ってよいでしょう。
草柳氏は1939.4の将棋世界が初入選。その作品発表後は1950年〜1952年に旧パラのみに11作の発表があります。手数は7手〜51手中編の合駒が出てくる作品が多い作家でした。知名度や、この作品や第1回看寿賞の次選作等、当時注目される作品を発表しておられたので、もっと作品数が多いかと思っていました。
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第五十三番
京都市上京区室町丸太町角 松浦医院内
学生 二十五才
一級位 詰将棋学校小学校欄担当
田代 達生氏作

45桂、同龍、65桂、同龍、63銀成、同龍、同角成、同玉、64飛、53玉、65桂、43玉、35桂、同龍、53桂成、同玉、54馬、42玉、41金、33玉、32馬迄21手
掲載図は51金が玉方の誤植あり。
持駒趣向の初形からリズム感のある手順が繰り出されます。龍を取りに行きたいのですが、45桂、65桂で2枚龍を逸らしてから63銀成で飛車を入手する序は面白い。63銀成に43玉、52角成で詰ますためです。以下も65桂〜35桂と全て5段目に桂を打ち局面打開するのです。最後に53桂成と成捨て、持駒の4桂全てが盤面から消えるのは見事です。
田代達生氏は1946年〜2000年に33作発表されました。主に詰パラが発表場所でした。7手〜75手までオールラウンドプレーヤーでした。また条件作も得意で創棋会の課題作の発表が記憶に残ります。
50年以上も詰将棋界で活躍された他にも、古棋書の収集家としても有名でした。
平成15年6月2日に78歳でお亡くなりになりました。
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第五十四番
愛媛県松山市新浜町二丁目一二二七
農業 三十五才
初段 本号より幼稚園担当
森 利男氏作

21馬、13玉、25桂、同銀、24金、同玉、35馬、33玉、53馬、イ36と、32飛、24玉、42馬、13玉、12馬、同香、24金、同歩、A31馬、23玉、22馬迄21手
イで34合は32飛、24玉、42馬、13玉、12馬、同香、31馬、24玉、35金、同合、同飛成迄21手合駒余り
Aで33飛成、23香、31馬の収束余詰あり。
実戦形の作品として纏まっていると思います。Aの乱れは当時は気にもされなかったようです。56とは不用だと思われます。
森氏は1942年〜1951年に8作発表作があります。発表先は将棋世界、将棋研究、将棋とチェス、王将(旧)、旧パラ、近代将棋です。手数は7手〜23手で易しい実戦形の短編の創作がメインの作家でした。
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第五十五番
青森県北津軽郡板柳町大町
無職 十八才
七級
成田 忠雄氏作

23香、同金、A14桂、同金、24香、同金、33銀生、同玉、43龍、22玉、32と、12玉、13歩、同桂、22と、同玉、31角成、同玉、33香、22玉、32龍迄21手詰
A同銀成、同玉、15桂、同香、14金、12玉、13香、同桂、同金、同玉、35角成、23玉、
24龍、12玉、15龍、21玉、22歩、同玉、13馬、11玉、12馬21手の余詰あり
★ パラ昭和26年7月号【「百人一局集」について】
に下記の記事あり。
☆ 本図も第四十一番と同様検討の結果作者との間に往復あり。最終決定図面が誤ったようであり、作者より持駒を桂香歩とし玉方三五とを成桂にせば初手二三歩以下作意順で完全との申入れがあり恐縮しました。発表図では勿論余詰があります。これも上京の罪。
☆指摘 草柳俊一郎 川崎弘
★ これも解り難い記事です。余詰順が示されておらず、A手順により余詰がありました。
修正案は初手23香→23歩になってしまうので、一寸原図よりは味が落ちますが、余詰筋が強力(初手32と等)な中では巧い修正案だと思います。
問題は、この記事の通りだと、何回か修正のやり取りがあったものの、最終図を載せずに余詰のある図面を掲載してしまったことで、罪が重いと思います。
金を12→23→14→24と誘導し、質駒にしてから33銀生と突っ込むのは巧い手順で、以下も31角成と角捨てが入っての清涼詰で、良く出来た好作だったのに、不運な連絡ミスでした。
成田氏は1949年〜1972年に17作発表して居られます。その内16作が1954年迄に発表された作品です。1972年の作品は「週刊ダイヤモンド昭和47年10月14日号・私の詰将棋」に掲載された作品です。
余談ですがこの企画は昭和47年に週刊ダイヤモンドに一年間、詰将棋パラダイスの会員の作品を作者のコメントとプロフィールを一緒に載せた企画で、週刊アイヤモンドの編集長から森田正司氏に持ち込まれた企画だったようです。週刊ダイヤモンドのような一流経済紙に1年間もパラの会員の作品が載ったなんて、今から考えると夢のような企画ですね。
戻って成田氏は7手〜33手の作品を週刊ダイヤモンド以外には、将棋とチェス、王将(新・旧)、近代将棋、旧パラ、に発表されました。
今見ても纏まりのある短・中編を発表して居られました。

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