旧パラを検証する102
第十号8
「鳥指し」四宮金吾の事ども 鳴門棋人
四宮金吾は巷間「鳥指し戦法」の創業者として棋史上有名である。然しながら、阿波徳島の生れ、天保七年棋聖天野宗歩との事以外は、一さい解かれざる謎として残されて来た。現在まで将棋誌上に発表された文章―勿論筆者の目に触れた範囲で―を参考のためピックアップしてみたい。
(1)「将棋研究」昭和二十一年七、八月合併号に太期喬也氏が、興味深く小説風に「鳥指物語、無段名人」の題目で次の様にかかれてゐる。
『・・・天保七年七月二十五日、留次郎(後の天野宗歩)と金吾は、あらためて盤に相対した。七六歩・・・八四歩・・・「あつ」留次郎は思はず声をのんだ。かつて、左香落で下手が角道を開けず、いきなり飛車先を突き出す将棋を彼は知らなかつた。我流の田舎将棋・・・と思つたのもつかの間・・・「おつ!」流石の留次郎も敵の指し口に飲まれるより仕方なかつた。金吾は角道を飽く迄開けず、五筋を突き、左銀を右上へ右上へと繰上げて来る。丁度小鳥を狙つて突き出される鳥竿の如く、斜めに走る鋭鋒は、到底なまやさしい手では防ぎ切れない迫力があるのだ。留次郎は全く敵の術中に陥った。未知の戦法・・・これこそ、金吾が、鳥刺しから思ひ付き、多年研鑚を重ねて体得した「鳥刺し」と名乗る独特の新戦法であつた。・・・』
(2)「将棋評論」昭和二十四年九月号に緑ヶ丘棋人(永沢時雄氏)は「鳥刺雑感」の中で次の様に述べてゐる。
『かの棋聖宗歩が二十一才の青年五段として各地を修行に廻った際、天保七年七月二十五日、四国の徳島で四の宮金吾に左香を引いて戦った。この時四の宮の用いたのが鳥刺である。流石の天野も生れて始めての戦形にぶつつかり、中盤までは鳥刺の鋭鋒に成すところを知らなかったが悪戦苦闘の裡にも鳥刺の弱点が九筋にあることを看破し、そこを衝いて漸く辛勝している。天野のこの慧眼に四の宮は長嘆息して、天下の廣大を知り、かゝる名手もあるものかなと深く自らを省て恥入り、天野推挙による五段を辞して生涯無段で終わったと傳えられてゐる・・・。』
(3)昭和二十五年三月十五日付「将棋新聞」に於て将棋の考証家として棋界に並びなき存在たる建部和歌夫先生は「古棋の世界」「鳥刺し」考の中で次の様に書かれてゐる。
『鳥刺しは。従来四宮金吾の考案したものとなつているのですが、これは明かに誤りで、この戦法は、恐らく彼が生れる以前からあつたものだと思います。今、四宮金吾の生年月日について、私にはなんの調査も出来ていませんが、天野留次郎(宗歩)との対局にはじめて用いたといわれる天保七年(一八三六年)に四宮の年齢を六十才の老人としても安永三年(一七七七年)の生れになりますから、四宮金吾創案説は殆ど成立しないのです。何故でしょうか。「鳥指し」は、安永七、八年の頃から既に実戦に用いられていたからで、こうなりますと、四宮が安永三年生れだとして、安永七、八年にはまだ五、六才の幼児、仮りにもう十年の年長者と数えましても十五、六才の少年に過ぎないからです・・・。』
(4)「将棋ニュース」昭和二十五年四月初旬号に於て、更に建部八段は「再び鳥指しに就いて」と次の様に述べられた。
『「鳥指し」が四宮金吾の創案でないことは既に説明しましたが(註、三月十五日付将棋新聞の記事を指す)、四宮金吾が幕末から或は明治まで生きていたかも知れない文献を見ましたから、こゝに追加的意見を書いて見ます。慶応四年、渡瀬荘次郎らによつて編まれた「大日本将棋有名集」というのがありますが、この番附の西の関脇に「阿州四之宮金吾」と出ているのです。これから考えますと私が前に「天保七年仮りに四宮の年齢を六十才として」と書いたのは少々老年に見過ぎたことになります。理由は、天保七年に六十才なら慶応四年(明治元年)には九十二才になるからで、天保七年にはまだそんな老年ではなかつたと見るべきで、したがって「鳥指し」が文献にあらわれた安永七年には当然生れていなかつたことになり、こゝにはつきりと、「鳥指し」の発案者と四宮金吾の間にはなんの関係もないと言い切れるのです。・・・』
以上によつて将棋誌よりの引用を終るが、巷間傳へられる四宮金吾の鳥指し「鳥刺しとも両方が用いられてゐる。」戦法創案説は「建部考証」によつて見事覆された。
四宮の生年さへ分明すれば、この事は明瞭になると思ひ、建部先生のおすすめもあり、又一愛棋家として調査して見た。
四宮金吾が筆者の玄祖父に当ると言う事は幼年時代、祖父(吉野彌三郎、昭和十三年、七十九才にて没)から寝物語りによく聞かされた。祖父は幼にして両親を失ひ、外祖父たる金吾に養育されたらしい。印を指し、将棋を教へつゝ、阿波の南部地方へよく旅行した話も聞いたものだ。穴のあいた一文銭を紐に通して、肩にうちかけ、祖父金吾の後についてテクテク歩いて行く祖父の少年時代を追想する事はまことに微笑ましい。土佐の強手某と名を秘して指し、相手が駒を投じた途端、「貴方は撫養の四宮ではあるまいか。私がこんない指されるものは四宮以外にあるとは思われない。是非本名を明かされたい。」と言ってお互いに名を明し、酒をくみかわし、十年の知己の如く棋界の模様等語り合った話などいろいろ聞かされたが、もう遠い過去の事、ぼんやり記憶の彼方にかすれてゐる。
去る日、祖父の従妹に当る、吉田コイトさんが老齢ながら元気にして居られる事を知り、早速訪問して見た。この人も金吾の孫に当るだろうと思って・・・。以下筆者と彼女との対話の要点を書いて見よう。
「お達者ですね。アバアサンはたしか私のジイサンとイトコですよね。」
「さうです。もうみんな死んで私だけが残りましたよ」
「バアサン、生れは明治で・・・。」
「いゝえ、もつと前です。」
「バアサン、今年はいくつになるの」
「八十七ですがね。オ上の命で二つ若返って八十五ですよ」(満年齢の事を指す)
こゝで持参の国史年表を繰り、八十七媼は明治元年生れと分る。
「オバアサンと私のジイサンの彌三郎とはどんな風のイトコですか。」
「それはね、彌三さんの母親と私の父親とがキョウダイですよ。」
「それじゃ、オバアサンのオジイサンは何と言うの」
「・・・紀口亀藏・・・。いや紀口亀吉・・・ですよ」
「その人じゃオバアサンがいくつ頃の時に亡くなったの」「十三、四の頃・・・」
「お墓は」「斎田(鳴門市撫養町斎田)の西福寺の鐘つき堂の乾の方向でね。二年程前にお詣りしましたが、もうよう行かないんですよ。」
「ときにね、その亀吉と言う人は将棋はやらなかつたですか。」と問題の核心に触れて見た。
「将棋はね、日本で一、二の名人でしたよ」
一寸おかしくなつて來たが笑ひを殺して
「ほう、そんなに強かったの・・・」
「無論、四国では相手が無かったんですよ」
「そして撫養に住んでゐたの」
「いつも、ゴケチュウ(御家中か?)へばかり行ってね。月に一回か二回しか自分の屋敷へは帰って來なかった」
「屋敷はどこにあつたの・・・」
「山路でね。(撫養町斎田字山路)そこでジイサンが死んだ時は私は十三、四で、たしか夏コグチ(初夏の意)の様に思います。」
「ゴケチュウへばかり行ってゐたと言ふのはどんな事ですか。つまり阿波藩の武士なんかに将棋を教えてゐたの」
「そうなんでせう。将棋は碁と違って位が低いので、碁が強かったら、位は上なんだけどね」
昔の老人はやはり将棋は一段低いものと思ってゐつ様だ。
「色々、オバアサン有難う。又聞きにきますよ」
「昔をポツリポツリ思い出しました。こんな事聞いて呉れる人も無いので・・・。ほんとに古い話で・・・」
大体こんな内容の問答を繰返して、善は急げと早速亀吉の菩提寺西福寺を訪問して住職に会い、過去帳を見せて貰った。明治十年頃の紙魚の喰い荒した過去帳を繰って行くと、明治九年の所で、
【釈 覚 道
明治九丙子 五月十八日
斎 田 村
俗名 天羽亀吉 小亀
七十九才】
と言うのが目に留まった。八十七媼の言ふのはこの人だ。筆者の祖父吉野彌三郎の祖父である。天羽亀吉であつて四宮金吾ではない。一寸まよつた。「明治九年七十九才にて死去」より年表で見ると亀吉の生れは寛政十年(一七九八年)、宗歩と金吾の対局のあつた天保七年には三十九才であつた筈だ。
筆者には天羽亀吉と四宮金吾が同一人ぢゃないかと推論した。その理由は(1)天羽亀吉はその孫が日本一の将棋名人だと言って居る程、将棋が強かった。しかも四宮金吾と同時代である。四宮金吾は「撫養の亀」と言われてゐるが、同じ狭い撫養から同じ時代に四宮金吾と天羽亀吉と二人強者が出たとは考へられない。しかも天羽亀吉は阿波藩へ行って将棋を教へた程の者だ。
(2)四宮は「撫養の亀」と言はれてゐるが、天羽の名は「亀吉」である。しかも過去帳を見ると俗名天羽亀吉、小亀と特に書いてあつて、こんな小亀なんてアダナを書いてあるのは他に見当らない。天羽亀吉が特殊な人物だつた事がうかがわれる。
(3)筆者の祖父彌三郎からは四宮金吾と言ふ名を聞いた様に思ふ。
以上により四宮金吾は寛政十年(一七九八年)に生れ、明治九年(一八七六年)、現在の鳴門市撫養町斎田山路に、七十九才を以て死去した。宗歩との対局は彼が三十九才の指し盛りの時であつたと結論したい。筆者の調査が些かでも、棋史の研究上裨益する所あれば望外の幸である。
勿論四宮金吾と天羽亀吉が同一人物であるとの確証は難しいが、根本的解決は他日の研究調査を待ちたい(二五・八・一三・稿)
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鳴門棋人は麻植長三郎氏の筆名。この文献は四宮金吾研究として、非常に重要なものです。 麻植氏は玄祖父が四宮金吾で、祖父も真剣士で、麻植氏も若い頃は真剣士として、ならした方らしい。(将棋天国に山形義雄アマ名人との真剣勝負について小説化されている。これが事実ならの話ですが)プロでもないのに、これはある意味凄いことです。
天野・四宮戦は有名で、私のHPでも棋譜を紹介しています。
(図は91手目天野宗歩72銀⇒73銀迄の局面)

激指14で検討してみたところ、従来決め手と思われていた91手目73銀は実は疑問手で、97香香、同角、同飛成、同桂、96歩と進めるべきで、92手目63とではなく66歩、99飛成、52と、同金、74歩、同銀、75歩と進めれば互角とのこと。しかし、97香成以下の手順は、働いている飛車と遊んでいる角の交換で、人間には指し難い手順です。一方66歩はいい手ですね。まあ、天野宗歩としては、相手の力量からして、73銀と指せば63とと指すと確信していたのでしょうね。73銀の局面で四宮金吾は長考したと伝えられていますが、勝負所と分っていたが、66歩を発見出来なかったというところでしょう。
ここで、後に将棋世界に清水考晏氏連載の「将棋史人名録」に載った内容を紹介します。
【斎谷亀次郎(さいたに・かめじろう)
寛政十年、徳島鳴門に生まれ、明治九年七十九歳で死去。小柄な人だったのだろう小亀が通称だった。なぜ、四宮金吾と名乗って天野宗歩と指したのか不明だが、天保七年七月二十五日の鳥刺しの左香落ちが彼を有名にした。しかし、彼を鳥刺し戦法の創案者とするのは誤りで、鳥刺しはすでに大橋宗英の時代に指されていたのである。】
斎谷の名字自体が本名ではないですが、出身が斎田村から取ったことは推測できますね。四宮金吾を名乗った経緯ですが、この当時は別名で指す人も沢山いたので、特に珍しいことではありません。当時の対局は賭け将棋が殆どなので、強豪同士の対決で、多額の掛け金が懸っていたのではないでしょうか?だから、将棋家の庇護が無い天羽氏は、四宮と名乗ったのではないか?とか妄想するのも、古典将棋を楽しみの一つでもあります。

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