旧パラを検証する99(天野宗歩の大小詰将棋について)
第十号5
今回は旧パラの記事を発端として、天野宗歩の大小詰将棋について検証してみたい。
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棋聖宗歩の「大小詰物」・利光清之
五月十三日、それは棋聖といはれる天野宗歩の祥月命日である。将棋ファンでこの人の名前を知らぬ人はあるまい。又この人ほど小説に書かれた棋士はないし、先年ラジオ小説にまで連続放送された倉島竹二郎氏の長編小説「将棋太平記」にもこの宗歩が活躍していて、大映かどこかで、木村名人が特別出演して映画化されるといつた噂が新聞に出た程であつた。この宗歩は将棋始まって以来の不世出の大天才と讃美せられ、在野棋士(家元に対する)であつた為に段位は七段に止まったが実力は十一段と云われている。その著の「将棋精選」三巻は不滅の定跡宝典とたたえられ又其の手合集である「将棋手鑑」も後世の棋士の尊崇し措からざるところのものである。
初代名人の大橋宗桂が時の幕府に詰将棋百番を献上し(有名な「根元宗桂将棋秘傳抄」の原本)て以来、歴代の名人は幕府に百局の詰物図式を献上する慣はせがあつたが、九代名人の大橋宗英と十代名人の伊藤宗看には献上図式が一局もなく、そして棋聖と云われるこの宗歩にも詰将棋の作品は一局も傳はって居らず、「棋界の不思議」とされていた。
ところが昭和十六年六月、読売新聞に長い間名観戦記とうたはれ且将棋故実の深い研究家として幾多の名著を出している、菅谷北斗星氏の熱心な調査によつて宗歩の詰将棋が奇しくも宗歩の後裔である天野熊雄氏宅より発見さられたのであつた。北斗星氏は当時の感激を「私は驚喜の余り思はず握りしめている指がぶるぶるとふるえ出すほどでした。」と読売紙上に綴っていた。これがその問題の詰将棋である。
ここで一寸天野宗歩について紹介してみよう。宗歩は文化十三年(西暦一八一六年)十一月江戸本郷菊坂に生れ、六才の時家元十一代大橋宗桂の門に入っている。入門後いよいよ天禀の才を発揮して十五才にして既に三段を允可されている家元の封建制にあきたらなかつた宗歩は十七才の頃、江戸を出で関西諸国の遊歴の旅に登り、弘化二年三十才の折、再び江戸に帰って来ている。有名な米村利兵衛、大橋柳雪、鳥刺しの四宮金吾との戦いはこの諸国巡遊の間の出来事である。
この詰将棋は「嘉永五壬子歳」とあるから、宗歩三十七才の年の作品であり、この年の十一月には初めて「御城将棋」に初勤し、大橋宗眠七段と対局している。宗歩吐血の敗局として小説などで有名なのは此の一局のことである。
さて問題の詰将棋の詰手順であるが、当時も随分棋界に反響を呼び起し研究されたが、遂に「不詰」の結論に到達してしまつた。以下研究してみよう。
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以下、不詰手順の研究結果が載っています。
ここで、天野宗歩の大小詰将棋について時系列で主なものを載せてみたい。
@昭和十六年六月二日付読売新聞に棋聖天野宗歩の詰将棋発見、解けぬ奇抜さ花田八段も驚嘆という菅谷北斗星の記事が出る。(天野熊雄氏宅の仏壇の裏から発見された。)・・・大小詰物の意味は不明だった。
A上記の記事を見た昭和十八年長谷部言人氏(当時は東大人類学教授。医博。大小暦の研究は余技)が、その著書「大小暦」(昭和十八年宝雲舎発行)で言及するも将棋界では気が付かなかった。・・・大小詰将棋が大小暦を表した物であることを初めて明らかにした。
B棋聖宗歩の「大小詰物」・利光清之(旧パラ・昭和26年1月号)にて、研究内容を発表し、不詰であることを記載。・・・利光清之は越智信義氏のペンネーム。内容からいって親交のあった北村研一氏が詰手順解明に協力したのではないかと思われる。この時も大小詰物の意味は不明扱いだった。
C将棋陣太鼓・菅谷北斗星著・要書房刊(昭和27年7月発行)より・天野宗歩について・・・天野宗歩の大小詰物を発見した経緯を記載したもの。(同じ本が「将棋の知識」というタイトルで昭和30年7月に學風書院からも出版されている)
D古図式全書(第一巻)・鶴田諸兄・日野秀男編・昭和37年8月全日本詰将棋連盟発行。諸氏の図として収録。詰手順の研究についてはBのコピーであるが、大小詰物を大小歴を表したものと、将棋界では初めて(?)記述した。・・・Eが最初に大小詰物が大小歴であることを最初に将棋界で紹介した記事だと思っていたのですが、実際はこちらが先でした。この部分の記載は鶴田主幹なのか、日野秀男氏なのか、あるいは別の方なのかは不明です。
E「大小詰物」考・橘二叟(詰パラ・昭和38年7月号)・・・大小歴について説明し、天野宗歩の大小詰物及び桑原君仲の将棋極妙に大小詰物が大小歴を示していることをを初めて説明した論考。とされていましたが、実際はDが最初でしょうか?余談ですが、全詰連発行の古図式全集やその元となった古図式同好会版の古図式全集は、不完全作を注釈無しで勝手に補正しており、将棋極妙の作品は大小歴を表さない修正図になっていると橘氏は憤慨して居られる。(日野秀男氏の補正か?)
F詰将棋教室・村山隆治著・金園社発行(昭和41年12月)
G知られざる詰将棋(2)・清水孝晏(近代将棋・昭和45年2月号)
H将棋・北原義治(昭和49年3月)
I続・詰むや詰まざるや・門脇芳雄編・平凡社発行(昭和53年7月)
J「日本将棋大系」別巻3「図式集」下巻・二上達也編・筑摩書房発行(昭和53年11月)
K将棋文化史・山本亨介著・筑摩書房発行(昭和55年12月)・・・将棋文化史は何回か改訂されており、最終版の昭和55年発行のもののみに大小詰物についての記述あり。
Lえい・将棋シリーズ8「天野宗歩の生涯」より「謎の図式 天野宗歩作・大小詰物・北原義治」・えい出版社発行(昭和53年3月)
M名作詰将棋・二上達也・福田稔著・有紀書房発行(昭和54年)
N古図式研究「大小詰物」・磯田征一(詰棋めいと第1号・昭和59年6月)・・・それまでの大小詰将棋について解り易く解説した論考。その中に天野宗歩の大小詰物もある。
O古典詰将棋・青野照市著・光文社(平成5年4月)
P初形象形作品集「おくろう記」より【天野宗歩「大小詰物」の改作】・河内勲著・全日本詰将棋連盟書籍部発行(平成15年12月)
ここで、大小詰物発見のいきさつについてCを引用する。
将棋陣太鼓・菅谷北斗星著・要書房刊(昭和27年7月発行)より
天野宗歩について
五月十三日、私達にとって忘れることの出来ない宗歩忌です。宗歩先生は今から八十二年前の安政六巳未五月十三日に亡くなっているので、つまり五月十三日は祥月命日です。私は毎年この日宗歩先生の墓所である巣鴨の丸山本妙寺にお参りすることにしています。
今年もその積りでいたのですが、社務の都合で行きそびれていると、突然講談社土田喜三氏が訪ねて来られ、棋聖天野宗歩傳を書かないかと言うのです。そして書くなら何かの参考にと天野宗歩撰の「安政五年牛歳八月改」とある将棋番附と一冊の寫本を持参して呉れました。これは何かの奇縁でしょう。
番附の方は「日本将棋力鑑」となっており、天野宗歩撰の上に「御将棋所」と冠せてあります。だが、この番附は格別珍しいものではなく、私も他で見たことがあります。寫本の方ですが、これは天野先生の指将棋を記録したもので、何冊かあったものの中の一冊で、他は分散してしまってないとのことです。
でもこれ等の貴重品は一體どこから出たか?私にとつて寧ろその方が問題です。で、尋ねますと、理化学研究所に勤めている天野熊雄氏から出たと言う話でした。天野熊雄氏なら私も名前だけは前から知っています。一度訪ねた記憶さえあるのです。
それはまだ大崎熊雄八段在世当時、宗歩先生の遺族ということで、何か遺品や逸話が聴かれはしないかと、何でも昭和二三年の暑い八月中と思いますが、大崎氏と二人駒込の理研に訪ねてゆきました。だが、その時は生憎同氏は留守で、代わりに会った若い医学士の方から断食療法の話などを聴いて帰って来たのでした。
その後も天野氏のことは気にかかっていたのですが、大崎氏は面会したらしく、逢ってみたら宗歩先生のことは少しも知らないし遺品も家事に逢って焼失して何も残ってないとの話で、そのままになつて今日に及んだのです。建部氏にも私からこの話をした様に覚えてます。
私は土田氏に早速その日の中でも、直ぐに天野氏を訪ねたいと申しますと、一度電話して都合を訊いてから、と言うことになり、もつともなのでその日は別れました。が翌日、晩の六時頃代田町のお宅の方でお会いするとの電話があり、私と土田氏は渋谷駅で落ち合い、帝都電車を「池の上」まで乗ったのでした。
天野熊雄氏は「理研」の人事課長を勤めておられる温厚な立派な紳士です。応接間へ通されると、
「私は将棋の方は少しも知りませんので・・・。」
との挨拶でした。
「少々無遠慮に亘る質問も許して下さい」
と前置きして、いろいろ突っ込んでお尋ねしました。非常に珍しい有意義な発見が色々あります。
その時私は、
「宗歩先生に関するものなら、どんなつまらないと思われるものでも、どうぞ残らず見せて下さい。」
とお頼みすると、
「こんな紙片があるんですが。」
と取り出されたのが、古ぼけた紙に記された問題の天野宗歩先生の詰将棋なのです。おお、宗歩の詰将棋!如何にその瞬間私の目が耀き、胸の血汐がわくわくしたか御想像下さい。
(管理人註:図面省略)
(詰物説明)
一、用紙・・・日本紙 竪 約十五センチ 横 九センチ
一、盤面・・・竪 九センチ 横 八センチ
一、藍色刷
一、盤面の駒の中「金、玉、飛、金、金、桂、金」の七つの駒字は朱(つまり玉方の駒は朱)と「玉方之駒大」の文字「宗歩」の印は朱色。他の「詰方之駒小」及「銀、桂、龍馬、龍王、角、銀」の駒字、「平安、天野」「嘉永五壬子歳」「大小詰物」の字は藍刷り。
一、持駒は無し(図面中に書いてない)
さて、右の詰物を見て、第一の疑問は「大小詰物」とは何を意味するかです。正直のところ私には解りません。
でその道の研究者花田八段に見て貰ったら、斜に二列の駒列の中で、玉方が長く、詰め方が短いから「大小詰物」の名前はその辺から出たのではないかと言うのです。なる程そうであるかと思われます。
ところで私はこれ迄も随分詰物を探してみましたが、天野宗歩作とあるものを一つも見たことがありません。そこで早速、棋界の最長老である関根金次郎先生に電話して、「宗歩の詰物を御覧になつたことがありますか?」とお訊きしたら、「生涯に一度もなし、あれ程の人で詰物が一つもないとは不思議だネ」とのお話でした。
更に詰将棋の権威花田長太郎氏、塚田正夫氏、考證家の建部和歌夫氏に尋ねてみても、未だ曾て天野先生の作物を見たことも無ければ、あるとの話も聴いたこともないとの返事だつたのです。私の喜び方を御想像にお委せします。
だが、私はこれが天野先生の棋界に残された、たつた一つの詰物だとは思いません。詰物の用紙が出来ていたり、駒字の木判が用意されてある以上、必ずや他にも幾つか存在するものと思いますが、恐らくそれは関東方面にはなく、先生が永住された京都方面の関西地方にではないでしょうか。現にこの詰物の用紙にも、平安、天野宗歩と記されてあるのだから京都の筈です。
だが、嘉永五年壬子の歳は、天野先生三十七歳の時で、最初のお城将棋を勤めた記念すべき歳です。そしてこの年は彼宗歩は大半の月日を江戸に過ごしており、京都に滞留していたとすれば、春内の僅かな間のことでしよう。で、この詰物は、当然嘉永五年春の作図となります。
それから、これが詰物の眼目ですが、この作物は一体「詰むか?」と言うことです。生憎と花田、塚田諸氏共多忙で、落ち着いて研究している余裕がないので、未だ確答は得られませんが、花田氏は「詰むであろう」との観察だし、塚田氏は「面白い詰物だから、ゆつくり研究したい」との話でした。
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上記の文書で一つだけ突っ込みを。「平安」というのは地名ではなくて、当然、平安を願うという意味と考えるのが普通だと思う。そして本作は大小歴を表したものなので、年賀詰のようなものでしょうから、新年にあたって平安を願うといったところでしょう。
では、遅ればせながら、天野宗歩の大小詰将棋を紹介する。

12銀成、14玉、13成銀、イ同玉、23金、14玉、24金、同成銀、B12飛、13歩、同飛成、同玉、C53龍、14玉、13龍、25玉、26歩、同玉、24龍、37玉、27龍、48玉、28龍、38歩、39銀、59玉、68銀、69玉、78銀、68玉、38龍、79玉、49龍、ロ68玉、58龍、79玉、A69龍、同桂成、46馬、88玉、87金、98玉、99歩、同玉、55馬、98玉、88馬迄47手
イ15玉で不詰
ロ同桂成、46馬以下作意順の43手を解答とする本も多いが、同桂成、46馬、88玉、55馬、97玉、87金、98玉、88馬迄41手歩余りの早詰みあり。
Aで59龍、69銀合、同龍、同桂成、46馬、88玉、89銀打、97玉、87金迄45手歩余り
47手詰が作意で、作者としてはAで59龍は合駒稼ぎの後、作意と同様に進み合駒余りの無駄手という心算だったのかもしれません。
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また、この作品については補正図も結構あげられていますが、(上述の番号記事には修正案だけの記事は省略しています。)不完全だったり、大小暦が成立しなかったりして、満足の行くものは一つもありません。また、68成銀を68銀にするのはGであげられていますが、
(イで15玉とした時は14金、同飛、同成銀、同玉、58角、25歩、同角、同玉、28飛、26歩、同飛、同玉、46龍、15玉、26金、14玉、15歩、13玉、23桂成、同玉、34馬、同玉、35金、23玉、43龍、33飛、34金、12玉、23銀、21玉、22銀成、同玉、33龍、11玉、12飛、同玉、23金、11玉、22金迄43手の変化になり、作意順が成立する。イで15玉以下16金、同玉、46龍、26桂、34馬、ハ25桂、同馬、同飛、17銀、同玉、37龍以下詰ますGの清水氏の手順はハで25歩合で不詰めと思われる。)Bで58角、36歩、同馬、同金、同角、25歩、12飛、13桂、25角、同成銀、15歩、同成銀、54龍、24金、13飛成、同玉、23金、同金、同桂成、同玉、35桂、12玉、23金、11玉、12歩、21玉、51龍、31歩、11歩成、同玉、31龍、21歩、22金迄41手の余詰があります。
又Cで23桂成、同成銀、同馬、同玉、46龍、甲45歩、同角、34歩、同角、同玉、35歩、24玉、25歩、33玉、34銀、32玉、43龍、21玉、32金、12玉、13歩、11玉、41龍迄35手の余詰もあります。この手順中、68が成銀なら、甲で67成銀と取って詰みません。
いずれにしろ、68が生銀だと2種類の余詰が成立してしまいます。
結論として、不完全で補正図も満足行くものは今現在無いようです。
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最後に、河内勲氏が、補正図では無く、見事な改作図を示しておられるので、ご紹介しておきます。
平成15年12月「おくろう記」より。(初出は、詰棋めいと31号)

12銀成、14玉、13成銀、同玉、23金、14玉、24金、同成香、12飛、イ13桂、同飛成、同玉、53飛成、14玉、13龍、25玉、17桂、26玉、24龍、37玉、46馬、同玉、49香、48歩、同香、同金、47歩、37玉、28金、36玉、25龍、47玉、27龍、46玉、57龍、35玉、55龍、24玉、44龍、15玉、A35龍、14玉、25龍、13玉、23馬迄 45手
A45龍でもよい非限定あり。
イで桂合になり、収束も全く異なる完全な別作品の改作図ですが、知られていないと思いご紹介してみました。

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