旧パラを検証する96
第十号2
A級順位戦 大山九段を破る 自戦記 八段 板谷四郎
先手:板谷四郎 八段 後手:大山康晴 九段
▲7六歩△8四歩▲5六歩△8五歩▲5五歩△8六歩▲同歩△同飛▲7八金△3四歩▲5八飛△8二飛▲8七歩△5二金右▲4八銀△6二銀▲5七銀△4二銀▲5六銀△4四歩▲6六歩△6四歩▲9六歩△6三銀▲6八銀△4三銀▲6七銀上△4二玉▲6九玉△3二玉▲2六歩△1四歩▲2五歩△4二金上▲7九角△5四歩▲同歩△同銀右▲5五歩△4五銀▲2八飛△3三角▲5八金△7四歩▲4六歩△5六銀▲同銀△7五歩▲6七金右△7六歩▲同金△7二飛▲7五歩△8二飛▲7七金上△8五銀▲同金△同飛▲7六銀△8二飛▲7八玉△6三金▲4五歩△同歩▲同銀△4四歩▲5六銀△5四歩▲同歩△5五歩▲同銀△5六金▲4六銀△5四金▲5五歩△4五歩▲5四歩△4六歩▲2四歩△同歩▲2五歩△同歩▲4五銀△5五金▲4四歩△5四銀▲3四銀△4四角
▲2五飛△3三銀(1図)
A級順位戦なのですが、自戦記が4Pもあり、しかもいま一つ急所がよく解りません。そこで激指13に解析させたところ、ポイントが解ってきました。そこで以下は「」内を板谷八段の自戦記からの引用としました。
1図は先手若干有利なのですが、ここで板谷八段は
「(1)23飛成、31玉、43歩、同金、同銀、同銀(指し切り濃厚)(2)23飛成、31玉、33銀成、同金、22銀、同飛、41金、同玉、22龍(有望)(3)23飛成、31玉、33銀成、同桂、22銀、41玉、34金、32銀(優劣不明)(4)23銀成、31玉、22歩、13桂、21歩成、41玉(不利)」という読みの中で23金を選びましたが、激指の読みは23飛成、31玉、33銀成、同角、34金、32金、27龍、23歩、44歩以下有利とのこと。
1図は後手大山九段33銀迄の局面

▲2三金△3一玉▲3三金 A△同桂 ▲2二銀△4一玉▲3三銀引不成△同金
▲同銀成△同角▲2一飛成△3一歩▲5三歩△4三銀打▲3四桂△3二金
▲4二歩△5一玉▲2二金 B△1二銀 ▲同金△同香▲2二銀△4四角
▲4一歩成△6二玉▲4二と△5三玉▲3二と△同銀▲1二龍(2図)
Aで同桂が悪手で同金、同銀生、同桂なら後手有利だったようです。以下桂を手駒に足せて21飛成と出来ては先手有利になりました。でもここからの大山九段の受けは後年を思わせる手順で、容易に決め手を掴ませません。B12銀はCOMが読んでない意表の勝負手で、だんだんと訳の分からない局面になって行きます。
そして第2図で大山九段の敗着が出ます。
2図は先手板谷八段12龍迄の局面

△6六金 ▲同金△同角▲7七金△3九角成▲3一銀成△2九馬▲5九香
△5七歩▲同香△5六歩▲3二成銀△5七歩成▲2三龍△4三金▲4二銀
△同飛▲同成銀△5六馬▲6七歩△3四馬▲5二飛△4四玉▲4三成銀
△同馬▲2四龍にて147手で板谷八段の勝ち
ここで66金が自戦記には触れられていませんが、激指では敗着と指摘しています。ここでは43銀上とすれば31銀成が出来ないので難しかったようです。後の大山先生なら43銀上としていたと思いますが、若かったというところでしょうか?
この1勝が大きくて板谷八段はA級残留。大山九段は名人挑戦を升田八段に譲る結果となり、後の将棋界にも大きな影響があったとも言えるでしょう。
ここで、当時の将棋界について振り返ってみましょう。この当時のA級は10名が定員で3名がB級と入れ替わるシステムでした。でもこの年(第五期順位戦)のA級は11名でした。それは坂口八段が復帰したからです。この復帰にはいきさつがあり、終戦後チェスの出来た坂口八段は進駐軍のチェス教室の顧問もしていました。そしてチェスのチャンピオンを目指すためA級棋士だった坂口八段は休場することになりましたが、この時の条件で将来将棋棋士に復帰するのが何時になってもその時はA級で復帰するというものでした。
今考えると、何故勝手にチェスに転向する棋士をそこまで優遇するのか不思議でしょうが、当時は戦争では負けても頭では負けて居ないという自負があったようです。ただ、今冷静に考えると、これも世界のことを知らないとしか言い様がないと思います。当時のトップクラスの大山・升田が挑戦するのならまだしも、坂口八段でもチャンピオンになれると思っていたとしたら、奢り以外の何物でも無いと思います。
また当時は長期の休場も認められていました。これは当時は終戦直後で、結核が国民病で長期療養をせざるを得ない場合も多数あったことが背景にあげられると思います。実際この第五期では松田辰雄八段が休場しています。
で、坂口允彦八段が復帰したため11名中4名降級、B級からは3名昇級で、A級降級は高島一岐代・大野源一・南口繁一八段が3勝7敗五十嵐豊一八段が1勝8敗1持将棋で降級。ちなみに板谷四郎八段は3勝6敗1時将棋で半勝差で辛くも残留でした。ちなみにこの当時は持将棋は指し直さずに引き分け扱いでした。珍しいことにこの期のA級順位戦は持将棋が2局も出ました。(坂口・板谷戦と升田・五十嵐戦)
ちなみにA級優勝は升田八段8勝1敗1持将棋2位は大山九段8勝2敗でした。またB級からA級の昇級は原田八段11勝1敗(A級復帰)松田茂行七段11勝1敗、荒巻七段8勝4敗(両者八段昇段)で斎藤八段と加藤博二七段は同じ8勝4敗で涙を飲みました。
ここで大山九段と書いていますが、これは第1期九段戦に優勝したことによります。当時は八段が最高段位で九段は名人ということになります。九段戦は後に十段戦を経て竜王戦になって行きます。当時、読売新聞はタイトル戦を主催しておらず、名人・A級棋士全員・B級選抜棋士(第1回は大山・丸田両七段、第2回は松田茂行七段)の非タイトル戦の全日本選手権選を主催していました。(第1回優勝は木村名人、第2回優勝は萩原八段)そして第3回からは名人が除かれて、A級B級全員参加になり第1期九段戦になりました。この第1期九段戦の決勝3番勝負は大山八段と板谷八段の間で行われ、大山八段が2連勝で初の九段位を獲得したのでした。ちなみに、トーナメントで大山ブロックには升田・塚田前名人が集まり、鬼ブロックでした。そしてその大山九段と木村名人との五番勝負が行われ「実力日本一」とされ大山新九段が3勝1敗で制勝したのでした。
九段戦は今考えるととても変則的で、次期はやはりA級B級全員参加でトーナメント優勝者(南口八段)が大山九段と五番勝負(3勝0敗で大山九段防衛)をし、その勝者が木村名人と実力日本一(3勝2敗で大山九段の勝ち)を決めるというものでした。
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さてついでですので、終戦後の将棋史について振り返ってみましょう。昭和21年に段位を排してA(14名)〜C級の第1期順位戦が始まりました。その結果塚田・大野・萩原八段が10勝3敗で並び決勝リーグ戦を行い。塚田2勝・大野1勝1敗・萩原2敗となり塚田正夫八段が木村名人に挑戦しました。戦後になって初めての名人戦は大幅に時間が短縮されました。戦前は持時間各15時間で3日間差掛け制に対して、今季は8時間1日指し切り制でした。今ならこの持時間なら当然2日間だったでしょうが、終戦直後とあって物資の不足等もあり1日だった側面もあったようです。その結果4勝2敗1持将棋1千日手で塚田八段が名人を奪取しました。
第2期順位戦はA級は8名、このため1期で14名だったA級棋士の内、坂口八段はチェスに転向、村上真一・渡辺東一・小泉兼吉・金易二郎・梶一郎・斎藤銀次郎・金子金五郎八段が降級し、B級からの昇級は升田幸三七段だけでした。で、第2期は先後2局の総当たりで、さらに従前はA級優勝者が挑戦者だったものを、フロックを避けるという理由でA級1位〜3位とB級優勝者で争うことになりました。これは、前年、升田七段が木村名人に3連勝し、B級順位戦で1位になった実績が認められたからですが、この升田の強さによる改正が悲劇を生むことになるのです。その結果A級は升田幸三新八段が11勝2敗のブッチギリで1位、2位は9勝5敗の大野源一八段、3位は同じく9勝5敗の花田長太郎八段、B級は大山康晴七段が11勝1敗で1位(2位は10勝2敗の丸田祐三七段)で、この4名で名人挑戦を争うことになりました。
ここで悲劇が起きます。花田長太郎八段が逝去されてしまったのです。しかし、亡くなる直前のこの強さ。後の大山名人が亡くなる直前にA級プレーオフに進出したことを彷彿させます。
その結果、大山七段の不戦勝となり、大野八段と3番勝負を行い、2勝1敗で大山七段が勝ち残りました。かくして決戦は升田八段との高野山での3番勝負となるのでした。後に高野山は寒くて持病のあった升田八段に不利で大山を勝たせたかった毎日新聞社の陰謀と升田先生は言うようになりますが、実際は両者同意をしていたようです。何故高野山だったかというと、対局を行うにあたって、当時としては豪勢な食事等でもてなしたようです。その際、人目に付く場所で行っては、食糧配給制で餓死者も出ている当時の社会情勢から望ましくないという判断があったようです。
そして、今回調べて初めて認識したのが、高野山の決戦といっても実際は対局場所が1箇所では無かったということでした。即ち第1局2月26日(高野山金剛峯寺)大山勝ち。第2局2月29日(高野山普門院)升田勝ち。第3局3月3日(高野山普門院)大山勝ち。ま高野山の中といえば中ではあるのですが、、、。で、第3局升田八段が歴史に残る頓死で大山七段が挑戦者になったのでした。この時の升田八段の「錯覚いけない、よく見るよろし。」という言葉は有名です。
第七期名人戦は四勝二敗一千日手で塚田正夫名人が名人位を防衛しました。
第3期順位戦はA級は10名に増員され、各一人1局づつの総当たり戦で下位3名がB級降級。その結果、A級1位は木村前名人(7勝2敗)第2位は松田辰雄八段(7勝2敗)第3位は大山八段(6勝2敗1持将棋)B級1位は五十嵐豊一七段(6勝1敗)。A級降級は土居市太郎・加藤治郎・萩原淳八段(2勝7敗)の3名でした。挑戦者決定第一次戦は五十嵐七段の先番で千日手になりましたが、何故か指し直しは先後交代せず、五十嵐七段が先手で五十嵐七段が大山八段を下しました。名人戦は千日手の場合、先後交代があるなど、この当時は場当たり的としかいいようがありません。挑戦者決定第二次戦は松田八段が勝ち、名人挑戦者決定戦は木村前名人と松田八段との三番勝負で争われ、2連勝で木村前名人が挑戦権を獲得しましたが、松田八段は第2局の時発熱状態で、投了と同時に病床の人となり、以後のA級順位戦は4年間全て休場し、肺結核のため亡くなったのでした。
第八期名人戦は又変更があり、この年は五番勝負になりました。そして塚田名人・木村前名人が譲らず、2勝2敗で対局が何と、皇居内の「済寧館」で行われ、木村前名人が勝ち名人復位の大偉業を達成しました。「済寧館」について説明しておくと、柔道と剣道の道場で、広さは三百畳もあり、あまりに広いので、柔道場の西北隅、玉座に近く十畳ほどに仕切って緋の毛氈を敷き詰め、それを東西北の三方を金屏風で囲って、対局室が設けられたそうです。そして設営・調度ずべてが宮内府の好意によるものというのは空前絶後でしょう。
そしてこの年の大きな出来事は、名人戦が毎日新聞から、朝日新聞に移ったことです。まあ、何時ものことで、棋士側は棋士が増えたりして費用が増えると、経費削減もせずに、新聞社に名人戦は価値があるから契約金を増やせという訳。ここで朝日に移ったものが、1976年に再び同じようなことで毎日新聞に戻り更に2006年毎日・朝日共催になるのも全て契約金の縺れです。で、この時名人戦が朝日新聞に移ったのですが、その結果、毎日新聞は王将戦を設立し、陣屋事件や、升田八段が大山名人に香落ちで勝つなど、歴史に残る対局が出て、誰も損をしなかったと言えるでしょう。一番得したのは棋戦が増えた将棋連盟でしょうけど。
第4期順位戦はA級は松田八段休場により9名で行われました。その結果1位は大山八段(6勝2敗)第2位は升田八段(6勝2敗)第3位は丸田祐三八段(5勝3敗)B級1位は高柳敏夫七段(7勝1敗)でした。そして挑戦者決定第1次戦は丸田八段が勝ち、第2次戦は升田八段が勝ち、第3次戦は2連勝で大山八段が挑戦権を獲得しました。
そして第9期名人戦ですが、またまた対局方法が変更されました。従前8時間1日から10時間2日制で、5番勝負から7番勝負に戻されました。当時の舌戦が面白いので再録します。木村名人「大山君は強いが、まだ若いところがある。」大山八段「名人はお年のせいか、中・終盤に凄みがなくなられた。」いや、舌戦というと木村・升田のゴミハエ論争等を思い浮かべますが、大山先生も凄いと思いました。で、この時も木村名人が4勝2敗で防衛しました。
で、冒頭の第5期名人戦も木村名人が4勝2敗で防衛し、翌第6期名人戦で大山九段が4勝1敗で名人を奪取するのです。こうしてみると木村名人は偉大ですね。若手の塚田に名人を奪われたのに、短時間戦を克服して名人に復帰し、大山・升田といった両天才を1度は跳ね除けたのです。
詰将棋に関して言えば、殆ど類作が多くて評価出来ないのですが、「第一期名人就位記念奉納詰将棋」を神前に奉納したのは意味あることでした。

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