黒川一郎研究補遺13
黒川一郎研究及び今回の補遺について纏めておきます。
1.詰将棋の被りについて
@「黒川一郎研究54」「黒川一郎研究104」
104は54の改作。54は風ぐるま1954年10月号で104は詰パラ1956年10月号。風ぐるまは活版雑誌で、その後詰パラに改作図を載せるというのは不味いと思うのですが、今でもそういこうことを気にしない作家の方も居られますので、人によるといったところでしょう。
A落花は「黒川一郎研究41」「黒川一郎研究100」「黒川一郎研究117」3回も載せていますが、研究内容は微妙に異なっています。特筆すべきは100に載っている原図で、一般に流布してる図面と異なっており、その図は117にあるように1959年1月発表です。原図は1954年3月発表で、その後第3号局は1954年8月王将発表の植田尚宏氏作です。ですから、2号局の図面は今後は100にある原図を載せるべきではないでしょうか?改作図でも良いのなら、1954年3月発表の奥薗幸雄氏の作品を誰かが修正したら、2号局になる可能性もあるかもしれませんから。
2.最後の発表作について
「黒川一郎研究190」で載せた図は岡田敏氏が王将に昭和29年(1954年)9月に発表された図でした。研究を書いた時点では詰パラ1990年1月号は所持していませんでした。ただ、当時この記事を書いた時、この作品と同じような作品が岡田敏氏の作品にあったという記憶はありました。ですが、T−BASEには黒川一郎氏の作品で登録されていたので、偶然の一致かと思っていました。(全く同じ図とは思っておらず、同じ作意の似た配置の作品だと思っていました。)
研究の削除も考えましたが、T−BASEのデータが誤っている以上、今後も最後の発表作だと思う方が居るかもしれませんので、あえてこの記事を残し加筆することとしました。
結局最終発表作は「黒川一郎研究189」の近代将棋1982年1月の発表作となります。
3.将棋浪曼集で未発表とされていた作品について
「黒川一郎研究52」の「戻橋」将棋浪曼集第二十二番は未発表となっていましたが、今回調査委した結果、黒潮第20号 1962(昭和37)年8月10日発表作の改良作であることが解りました。黒潮はガリ版雑誌でしたが、同じガリ版誌の詰棋界発表作は浪曼集に出典として書かれていますので、何故未発表扱いとしてのか不明です。
原図は下記の通り。

黒潮 第20号 1962(昭和37)年8月10日号発表 天狗道場 16 「能天棋」名義で発表。
32銀、42玉、41銀成、同玉、51と、同玉、52銀、62玉、61銀成、同玉、71と、同玉、72銀、82玉、81銀成、同玉、91歩成、71玉、81と、61玉、71と、51玉、61と、41玉、51と、31玉、41と、21玉、32角、12玉、23角成、同玉、24歩、32玉、92飛成、33玉、22龍、同玉、23金、21玉、13桂迄41手詰
原図の方が銀打・銀成捨の趣向が1サイクル多いので、優ると思うのですが、何故か改作されています。改作図が優る点は66馬の不動駒が無いこと位だと思います。浪漫派としても原図が良いと思いますが、改作のアドバイスを北原義治さんあたりがしたのではないかと推測しています。
4.終わりに
やはり黒川一郎氏は私にとっては、大好きな作家のひとりだということを再認識しました。駒と遊ぶ感触のある温もりのある作家は、もう今後現れないような気がします。

1