旧パラを検証する82
第八号7
詰将棋作家列伝
一、住所 京都市中京区西ノ京南聖町七
二、職業 映画館整備(兼事務)係
三、氏名 大橋 虚士
四、年令(四十三才)
五、略歴
詰将棋に興味をおぼえたのは大道将棋からで小学校に通ふ頃、自分の住んでいた家の街路に夜店が出たもので、こわい顔のオッサンが出していた詰将棋(当時詰将棋といふ名称を知らず)香歩問題などを見てカンタンに詰むものと思って手を出しかけたい気持ちにさへなつた、一度はじめにどんな図式だったか記憶はないが、手を出して50銭取られた。
それから方々の夜店を廻り歩いた。
自分が手を出そうと思っていた時他の人がやつて香打を(離して)した時中合の桂をされたり再度の金合をされたりして詰まなくなつたのをみて自分が引掛かるのを危うく助かったと思わず喜んだ事もあり、誰もが同じであらうかと思ふが詰将棋といふものは、自分で独断で詰むとおもふと、絶対それより他手順がないかにきめて了ふそれがいけないので、引掛かる人は皆そ恐ろしい独断といふ魔がさすかだでせう。
方々廻り歩いて一つの図式をいつか正解順を覚え込んで了った図式を一つ紹介しませう。この図は、大道棋の書物には載っていません。
図面 (二十七手詰)

詰手順は書かずともお判りだと思います。作図に興味をおぼへたのはそれからずっと後からで、それまで数多くの詰将棋出題図と取り組んだ事、雑誌の図式です。キングの金易二郎氏の作図が仲々難しく研究問題として興味尽きないものでした。
講談倶楽部にも金氏の懸賞出題があり懸賞課題は比較的カンタンなものでした、博文館発行将棋世界、将棋日本、それからなつかしの将棋月報と詰将棋狂の過程は、古本集めなどと共に、益々度を越えてゆく様です。てつ夜して取組む日もあり、難解ものが解けた時位愉快なものはないと思います。(惜しくも書物は名古屋で焼失した事)作図に興味を覚えたのは二十五六才頃だつたでせうか。当時将棋世界創刊号発行さるる時読者作品募るとあり、愉快愉快早速、直ちに応募―第二号かに発表されたものが嵯岐俊一作です。
その図が発表処女作です。
ここで私の詰将棋作家としての過程の一つとして発表ペン名を列べてみませう。
六、処女作
図面 パラダイス九月号中学校(B)として発表されました。

嵯岐俊一、末松一枝(将棋世界)、攪沢康二(世界)、阿木原修三(将棋世界)、嵯岐俊一(将棋日本)、大橋香月(月報)、西川峯夫(月報)等々他諸誌に桂野高飛、香史等あり、誰もが同じでせう。始めて自分の作が活字化した時のうれしさ。
たしかその時の賞は博文館発行のジゴマの活劇ものの書物でした。
処女作の想ひ出として、その頃生きていた父に、発表前の作図を示して、解を求めた時、父はよう解き得なかった末私に解を求め『お前がゆくと魔術の様に詰む』と、この言葉が、私の脳裡から永久に去らないのです。
七、将来への希望
数多く作ろうなどとは考えずに一つの作品を最高度に盛り上げてゆくといふ、そしてその作品が鑑賞玩味の対照となってゆく事ができれば、それは芸術につながるものだと信ずる、ああ面白い手順だと解者を喜ばせる図式芸術が永遠ある如く詰将棋も永遠性を、と
手順とは回転であり、彼の天才ののこせし名作煙詰の手順の回転を私たちは学びたい。
同志と共に学び採らうではありませんか。
☆ ☆ ☆
群馬県館林局区内六郷村松原二二に住んで空壜商をやつているのが野口益雄で、年齢は二十五年十一月二十三日で二十才になります。小学校の頃から下らない小説を読むのが好きで、お蔭で学校の成績がどんどん下り、叱られたけれども止められず、やがて中学へ入ったのが戦争の最中。爆弾で危ないらしいので生まれて十四年間住みなれた東京の本所菊川町をあとに群馬へ疎開するといふありさまとなりました。当時既に父母亡く、心細き次第でした。おまけに小生は長男なので、、、。
貧乏なので本も買えず退屈なので祖父と将棋をよく指して、始めは四枚落が段々上達、終戦の頃には平手で勝ち越せる程度になりました。その頃は将棋世界と将棋研究を書店で見つけて、詰将棋の面白さに気がつきました。始めは捨駒の効果も判らなかったのが二十二年の四月になると、自分でも作りたくなり試作してみました。A図が第一号で、余詰があります。
A図

二三金 同龍 二一銀 二二玉 一二金 同龍 三二銀成迄七手詰
最終の手で一二銀成と龍を取り余詰。
三日後には一日に七題も作り、その中二題が発表されています。第八号と第十号の作がB図C図です。B図は初めて誌上に発表された思い出の図です。(但し作ってから丁度一年後発表)作り始めてから一年間はだんだん難しいものをと、努めましたが、力及ばず好作は少ないので転向しそれより現在まで難解性少なく軽快なものを狙っています。
根気よく努力しないので余詰が多いのが欠点です。これからは「余詰絶対になし」と云ひきれるものばかりを作りたいと思います。
解図にはあまり興味なく小品はとにかく、中篇は考える気になりません。
大道棋に手を出したのは二度だけで、うち一回は失敗しました。
本誌上に詰将棋小説みたいなものを三篇載せていただきました。あまり気に入った物はありませんが今後面白いのを書く様に努めますが小生の性質上、長いのは書けず近頃作る詰将棋と同じく短いのばかりです。
B図

一四桂 同銀 一二金 同香 二三飛 同銀 三三角 二一玉 一一金迄九手詰
C図

三二飛成 同玉 三三金 二一玉 三二金 同玉 四四桂 二一玉 三三桂 二二玉 一四桂迄十一手詰
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大橋 虚士氏は昭和初期〜昭和30年代に活躍された作家で、今みると手数が長いだけというものが多いのですが、昭和初期は手数が長いことが加点ポイントだった時代で、仕方の無い面もあります。
処女作の作意は23銀、同玉、14金、12玉、24桂、21玉、32桂成、同銀、同角成、同玉、44桂、42玉、31角成、同玉、32銀、42玉、43銀右成、31玉、32桂成迄19手詰ですが初手23金でも良いし、17手目どちらの銀が成っても良い等、今では許容できないキズです。
大橋氏の作品で私が好きな作品を紹介しましょう。詰将棋づくし第20番(初出:将棋月報昭和18年4月号)

71角、42玉、52桂成、同玉、63銀成、同角、62桂成、(打歩詰打開のため、角ではなく桂を成る。)53玉、61成桂、52玉、(この局面は7手目の74桂が61成桂に代わっているだけである。)62角成、42玉、46飛、45歩、同飛、同角、(合駒を稼いだが、依然として打歩状態。)51馬、(こう指せるのが61成桂にした効果。)53玉、54歩、(やっと打歩打開の糸口が現れる。)同角、62馬、42玉、43歩、同角、51馬、53玉、43銀成、同玉、52角、53玉、63角成、(最後も鮮やか。)同玉、62馬迄33手
これなんかは、時代を考えれば中篇名作選Uに選ばれても良かったような気がします。
次に野口氏の作品ですが、A図は21銀に対して同玉で変長になります。又、B図は初手12金も成立します。12金、同香、14桂の時11玉が同銀よりも長手数なので、余詰に近いと思います。
塚田名人もそうなのですが、塚田名人が作った作品が塚田流と呼ばれ、その作品群全体が価値があるもので、個々に感じの良い作品はありますが、代表作は何か?と言われると困ると思う。野口氏の作品もそうで、塚田賞を採った2作品や短編名作選に載った作品は野口氏の作品としては標準的な作品で、頭抜けて良い作品ということではありません。だから、野口氏の代表作というのも選ぶのが難しいのです、野口氏の作品も個々の作品ではなく、野口氏の作った作品群全体の価値だと思います。
とはいえ、余り知られていない好作を紹介しようと思います。昭和48年11月近代将棋・駒形駒之介名義で発表

13金、同玉、33飛成、同角、14歩、23玉、34角、同玉、35金、23玉、13金迄11手
14歩〜34角の感触が結構良いかと思います。

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