旧パラを検証する69
第七号6
詰将棋コント3題 佐藤 源助・・・詰将棋を絡めたコント。(佐藤氏の詰将棋も掲載)
パラダイス川柳 形幅 清・・・将棋川柳
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大道棋大道五目遍歴二十年(6) 大道棋人
天津の夏は物凄く暑い。北京を京都とすれば天津は大阪の如き存在である。商工業の中心で海に近く市内に水運の便があり、街の動きは眼まぐるしい。外国租界は掃除もよく行き届き建物も立派で全く気持がよい。日本租界も汚くはないが何となく埃っぽい。
我々蒙疆避難民は天津の日本人小学校、武徳殿、貨物廠等に分散収容せられた。
塘沽に航空母艦が来ているとか、駆逐艦で運んで呉れるなどと云う希望的観測はミジンにケシ飛んで、裸の避難者として苦難の収容所生活が始まったわけである。
収容所の生活については数々の報告が出版されているから、その詳細について語るの繁は避ける。只我々は満州に於ける邦人の遭遇した如き残酷無残な目には会わなかった。
その理由は明白である。満州にはソ連軍が進駐して来たからであり、華北にはアメリカ軍が来たからである。共産主義者は幾多欺瞞に満ちた宣伝をやっているが、この眼で見、この身体でソ連の暴虐を経験して来た人々には厚顔無恥悪魔にも劣る畜生の集りが彼等である事は明々白々であろう。
我々は自由アメリカの庇護の下に天津の集団生活をはじめた。
困った事は金のない事であった。敗戦直後一時的の現象で華人が物の投売をした時は、街に品物が氾濫して値段も下がった。何処にかくれて居たかと思われる程品物が現れた。
味の素、バイエルのアスピリン、アメリカ製のサッカリン等々。煙草なぞも英米系の高級品−スリーキャスル、ルビークヰン、前門、パイレート等安価に入手出来た。しかし我々は金を多く所持せざるが故に、ただ指をくわえて見るばかり。間もなくその一時的現象も消えて、物価は逆騰をはじめた。
内地にかえる事を唯一の希望として、毎日給食される粥を食べ、学校の板の間に毛布を延べて寝起きしているうらぶれた生活。仕事は何もない。時々当番で炊事に出たり、薪を集めに行ったり、、、。単調な生活が続く。だるいような時間、暇がある。そんな時必然的に思い出すのは将棋の事だ。
あの本さえあったら退屈しないだろうにな−と考えると、急に放置して来た棋書に未練が出て来る。
共産軍が占領した街−張家口へもう一度舞戻って取りに行こうかしら、、、。中国人には全然必要のない棋書。恐らくかまどの焚き付け位に使われて了うであろう所の棋書の運命を考えて、しみじみ敗戦の口惜しさがこみ上げて来る。
その中誰かが紙の将棋盤を作った。偶然駒だけは黄楊のを一組袋に入れたのがあった。女房の機転を絶賛しつつ、紙の盤に黄楊の駒−うつらぬが−で相手を求めた。
好きなものはみんな集って来る。強い者で飛落。大抵は二枚落か四枚落。それでも将棋を指している間は、浮世の苦労を忘れ、フッと内地に居るような錯覚を起こさせてくれる。
ハッと気がつけば茲はお国を何百里の華北の地である。内地へは一体何時かえれるのかしら、、、。
仲ばあきらめかけた頃、十月の二十日であつた。突如命令あり。満一才に達しない乳児のある家族は近く引揚第一船が内地から来る故第一便で皈国させると云う。
嬉しかった。帰れるぞ。敗戦の祖国へ。如何なる苦難が待っていようとも、兎に角皈らねばならぬ。待つ父母の顔も浮かんで来る。平和日本には将棋も復興するであろう。何もかも夢の如く、過去の苦労も内地皈還の一声で消し飛んだ。
十月二十五日乗船。間違いなくこれで皈れる。出船のドラ。塘沽埠頭を船は離れる。
さらば大陸よ。永久にさよーなら。再び来る日のありやなしや。船は波を切って一路なつかしの祖国へ急いだ。 (つづく)
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