旧パラを検証する66
第七号3
詰将棋作家列傳 あるマニヤの記 北村研一(牛追菩薩)(東京)
できることなら、物ごごろつきそめた頃へ後戻りして、人生のやり直しをしたいと思ってゐるほどですから、経歴を語るといふ段になると、どうも氣が進みません。
としは漸く三十路に達しましたが、こゝ数年間を病んでゐて、來年あたりから先の方は途が通ってゐるものやら、ゐないものやら、定かではありません。しやうばいは−「病める公務員」です。「病める」の方も、しやうばいのうちに入るくらゐの病み方です。尤も、病むことは公務である筈はないので、その点、相すまなく思ってゐます。
将棋を覚えたのは八才の頃でしたが、マニヤになつたのは、あはれ、十九の春でありました。それまで心身すこぶる健やかで、スポーツ百般に親しんでゐたのですが、このとき病氣して一年ばかり療養したのが、将棋マニヤとなる因縁です。それ以來、ズッと進行性マニヤです。
三年あまり前に、病氣が再発して、自來引続き病床六尺を天地としてゐます。それで指将棋の方は、鑑賞だけで身自ら戦はすことが出來なくなり、作図一方になつた次第です。−戦争放棄といふあんばいです。
けれど、戦争中の無理がひどかつたので、再発した病状も相当にこぢれたものですから作図をするにも、障りにならないやうにコントロールしなければなりません。これが仲々の難事です。病氣は重いし作図症も重いし王手飛車のやうに困惑しています。どちらにも特効薬はありません。
掲出の図面は、初めて雑誌に載せられた拙作です。昭和十五、六年頃の将棋世界です。新年号でしたか。(管理人註:将棋世界昭和十七年一月号掲載)初めて活字になつた自分の作品を、日に何度取出しては眺めたことでせう。戸棚から切餅を取出して焼いて食った回数といづれぞ−。この図は、十四手目の玉方応手に依って二種の十七手詰手順を生じ、所謂「尾岐れ」となつて感心出來ない代物ですが、思ひ出の作品なので、そのまま捨てずに作品集に加へてあります。初期の作品は、当時は妙作と自ら考へてゐたものでも、後になつてみると、まるきり詰将棋の体をなしてゐないことがわかるやうになつて、捨てたものが沢山あります。誰でも、そんなものでせうか。
私は、今、体力が一番欲しい。四六時中、横になつてゐて、いはば身体が明いてゐるのに、詰将棋作図に割き得る時間といへば二十分が限度です。せめて一時間やれるだけの体力が欲しいものです。それと、電氣仕掛か何かで、仰臥してゐていともスムースに使用できる盤と駒とがないものかと切望してゐます。をかしな望みです。
石川啄木は、自らの歌を「悲しき玩具」と称したとやら。私に於ける詰将棋も亦然るが如くです。
詰将棋といふものに関して、及至、詰将棋といふものを通じて、いつの日にか、一つの「自覚」に達したいと希つてゐます。

12歩、同玉、24桂、同香、23金、11玉、22金上、同角、23桂、12玉、22金、同玉、44角、21玉、11角成、32玉、33銀成迄十七手詰
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何度読んでもグッと来る文章です。
北村研一氏はこの文章が載った約半年後の昭和26年5月28日に腸結核にて亡くなられます。享年30歳。
死の足音を間近に聞きながら、詰将棋に没頭する姿勢には鬼気迫るものがあります。死を間近に意識しながら、ここまで達観して、詰将棋に専念することは私には不可能だと思われ、本当に尊敬の念にたえません。
その結果が永遠の名作第一回看寿賞長編賞「槍襖」であり、北村氏はお亡くなりになりましたが、詰将棋がある限り「槍襖」語り継がれることでしょう。

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