詰将棋全国大会私的な総括
先ず、最初に詰将棋全国大会に協力していただいたスタッフには、心より感謝いたしております。今回無事に開催出来ましたのも、詰工房の皆様のおかげと思っております。
今回の詰将棋全国大会において、懇親会でスタッフが一言づつ話す機会があり、その際に私は「二度と中心になってやりたくない。」という発言をしました。それは以下に述べる事情からです。直に現状が良くなるとも思えないし、良い知恵も直は出ないとは思いますが、参加される方にも少しはこの現状をご理解いただけたら、と思い筆を執る次第です。
今の詰将棋全国大会は中心となって運営を行う、ごく一部の生贄の上になりたっている。前回の詰将棋全国大会横浜大会委員長の駒谷氏に、前回の印象を何回か聞いても「精神的に辛かった。」「追い詰められた。」という答えしか返ってこない。私が地方の詰将棋会合に出席して全国大会の話しを聞いても、全国大会は一部の方の犠牲の上に成り立っているとしか思えなかった。しかもこの問題の根の深いところは、他のスタッフは「中心人物は大変なのだろうなあ。」くらいの認識しか持てないことである。そして、中心人物だった人は大抵は我慢してしまうので、そのまま過ぎてしまう。私はこの現状はとても良くないと思っている。このようなやり方では、行き詰まるのが目に見えているし、現に行き詰まって来ていると思う。
では、今回の詰将棋全国大会について、振り返ってみたいと思う。
元々今回の大会は、大井町のきゅりあんが第一候補だった。これは詰工房代表の金子氏がいつも使用している会場で、アクセスも良いからであった。しかしながら今回は既に予定が入っていて、別の会場探しを始めるところから、私と金子氏の苦難が始まった。
東京というところは、金さえあればどんな会場でもあるが、逆に金が無いとどうしよう無いところで、限られた金額の中では公共の会場以外は開催が難しいのである。私も色々探したが、金額が折り合わなかった。そういった中で、金子氏は公共施設の抽選に賭けることになった。
私は、詰工房の常連として、一度は中心的スタッフになって運営することが義務だと思っていたので、地元の色々な人と相談して地元でどうにかならないか、探してみることにした。そういった中で、金子氏は抽選に全て外れてしまったが、その時点では他のメンバーからは全く場所の提示は無かった。そうなれば、もう私が地元で開催するしかないと思い、地元開催の運営に没頭することになったのであった。
先ず、市から後援してもらって、会場を押さえることに専念した。今は昔と違い、ちゃんとした手続きを踏まないと、早めに会場を押さえることは出来ない世の中である。
市としてもこのような歴史のある、全国から人が来る催しには全面的に協力するとのことだったが、詰将棋全国大会は今までに後援したことが無いとのことで、(当たり前ですが、、、。)担当部署も途中で変わったりし、また関連市民団体もそれにともなって増えていった。それと同時に宴会場のホテルエルシーとも同時並行で交渉を行っていた。
これからが大変で、仕事中に電話がかかってきたり、休日も呼び出されたり、日曜に朝7時に電話でたたき起こされたりもした。私は仕事とプライベートは完全に分けてきただけに、これは精神的にかなり辛かった。
そして、地元開催するのであれば、町田市に在住している、アマ連会長の渋谷守生氏に祝辞を頼むしかないと思った。アマ連は全国大会に長年に亘って金銭の支援を行っているのに、全国大会には一度も関係者が呼ばれたことが無い。金だけ出させてしらんぷりというのは、今までも気になっていた。しかし渋谷守生氏は元東京都議会の議長にまでなられた方で、また将棋界に対する貢献も計り知れない方ですので、懇意にさせていただいてはいても、それなりの礼を尽くさねばならなかった。先ず手土産を持って事務所に行き、全国大会の祝辞をいただくようにお願いした。渋谷氏だけでなく、事務所の事務員にも礼を尽くすのは、このクラスの人が相手なら常識で、何回かは現状報告やお願いをすることになった。今年は選挙もあり、何分忙しい方なので、約束していても一時間位待って、要件は10分ということもあったが、それも仕方ないことである。誤解しないでいただきたいのは、渋谷氏は将棋界に多大な貢献をされておられるし、今回の大会でも趣味のことなので、本当に多大なご協力をいただき、私自身はとても感謝しているということだ。(なにしろ私が小学生の時からお世話になっているので、三十年はお世話になっている。)
紆余曲折の末、会場は健康福祉会館に決定した。地元開催であるので、大会委員長は私が行うのが筋ではあったが、今回は対外的に私自身が可也動いているので、私が渉外で金子氏が大会委員長ということになった。
開催地が決定した詰工房の例会の席上、私は次のような決意表明を行った。「今回は朝から会場が使用できるため、交流タイムをもうけたい。また企画も参加者全員の解答競争は行わない。マニアだけでなく詰将棋がよく解らない人でも楽しめる企画を行いたい。」
そんな中で、詰将棋ダービーであれば、そういう趣旨に合うのではないかとのことで、取り入れることにした。また、例年行われている、「ひとりひとこと」であるが、元々企画が無くて時間稼ぎの意味もあったとのこと。私は「ひとりひとこと」を楽しみにしている人も居ることが解っていたし、やっても良いかと思いましたが、よく考えると150人参加した場合、一人30秒でも75分もかかってしまうし、そもそも詰将棋を知らない女性や子供が聞いて楽しいとはとても思えない。ということもあり、個人的には残念ではあったが、止めざるを得なかった。
まあ、その後も色々あったが、時間は一気に進んで、大会1〜2週間前くらい前に飛ぶ。
1〜2週間前ともなれば、なんらかの準備行為(配布物の印刷や製本や物品の買出し等)があっても良いはずだが、金子氏からは何も連絡が無かった。不審に思い金子氏にメールしたところ、木曜日(大会3日前)から仕事を休んで、エルシーに泊まりこんで準備をするとのこと。そうでもしないと終らないとのこと。そんな馬鹿なことがあるかと思った。早速出来る範囲で声をかけ、前日の土曜日には、駒谷氏、田中氏、馬屋原氏に来てもらい手伝うことになった。(金子氏は木曜から泊まっていましたが、、、。)特に馬屋原氏はわざわざ千葉から2日続けて来ることになるので、本当に頭が下がった。
結局これだけ動員しても午前11時から夜8時まで準備にかかった。これを何も言わなければ、金子氏が一人で行ったことになったはずだ。
さて、当日のことだが、私が一番懸念していたのは、懇親会の参加人数である。一人6000円で100人出席という予約をしたが、前回の横浜大会では懇親会の参加人数は75人だった。もし前回並の75人参加だった場合、6000×25=15万円の赤字になることが想定された。そこで私は大会当日に金額の書いていない祝儀袋をもっていった。もし赤字が出た場合、私が祝儀という形で穴を埋めるつもりだった。地元開催で赤字が出たからといって、見込みが甘かったので、補填してくれとは口が裂けても言えないと思った。誰かがスタッフは手弁当で参加していると書いていたが、私の場合は手金庫持参で参加していたわけだ。結局宴会は85人参加で、エルシーが融通を利かせてくれて、参加人数分のお金だけで良いと言ってくれたので、収支は黒字となって、事なきを得た。
大会中は当然楽しむことが出来ず、個人的には全く面白くない全国大会だった。大会終了後も、関係者各位に挨拶廻りを行い、礼状を何通も書いた。この後も市に対して、報告書を提出しなくてはならない。
前後しましたが、一つだけ良かったと思ったことは、今回女性や子供が15人も参加したことで、これは空前のことだった。今回の私のテーマでもあったので、そのテーマが達成されたのは、私のとしては大成功であった。
以上が今までの詰将棋全国大会の顛末である。ここに書いたことは実はごく一部で、書けないことも沢山ある。
私は苦労話というのは嫌いで、こういう苦労をしたと人にひけらかすような輩は大嫌いだ。だが、参加している人は余りにも内情を知らない。別にお客様だからそれはそれで構わないと思うのですが、こういうことがあるということは知っておいていただきたいと思いあえて筆を執りました。
そして今のような運営の仕方では、東京地区でも詰将棋全国大会が、開催出来なくなる可能性がある。例えば金子氏がいなくなったと仮定したら、可也の確率で難しくなるであろう。
文中大変失礼な表現もあったかと思いますが、平に御容赦をお願い申し上げます。問題提起しても、解決の道筋すら浮かびませんが、少しづつでも改善することを願って結びといたします。

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