旧パラを検証する58
第六号6
強い人読むべからず集(二)佐井東松一朗・・・詰将棋の解き方のコツが書いてあるのですが、最後の部分は役に立つと思いますので抜粋します。
(前略)
【詰将棋の練達者はこうした「詰将棋の手筋」を沢山会得して知ってゐて、詰将棋に直面した時その手筋を当てはめて読むから早く解くことが出来るのだ。
それでは極く極く初心者である人が、「詰将棋の手筋(読みの好対象)」を早く会得する為にはどうしたら良いか。
それはなるべく易しい詰将棋をなるべく数多く、そして下手の考へ休むに似たりで仲々正解(筋)が判らないであらうから、考へないで先に正解を見てしまって、その形の中に含まれる詰将棋の手筋に慣れそして覚えてしまふことである。】
これと似たようなことは森下先生も仰っていて、納得出来ます。
主要古図式一覧表−昭和二十五年五月十九日夜稿成 松井雪山編・・・当時解っていた古図式の著作者・書名・発行年等が書いてあり、松井氏らしく不完全の指摘と補正案も載せています。
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提唱 詰将棋連盟を結成せよ 橘二叟
詰将棋はアマチュアの手に委ねられるべきものとは私の多年に亘る持論である。その理由を要約すれば次の三項となる。
一、 詰将棋は指将棋から独立した別個の芸術である。
二、 詰将棋は棋士にとって余技にすぎない存在である。
三、 詰将棋を現在の状態に迄守り且つ育てた功績の大半はアマチュアにある。
以下順を追って簡単に論旨を述べてみる。なほこの文中では詰将棋を「詰」、指将棋を「指」、アマチュアを「棋客」と記す。
詰と指とは全く別個なものに考えるべき性質のものであって、指は相手と勝敗を争う一種の頭脳的スポーツだから芸術とはいひ難い。詰を実戦に役立つからと奨励するのは本来誤った詭弁である。指では詰みに至らぬうちに勝敗を決するのが大部分で、一手早く寄せの形にもって行けばOK。詰手筋はいやしくも将棋を指す者の必修すべき一連のテクニックの中に抱合され、とりたて強調するのはおかしなものと思う。実戦に役立つのはむしろ必至の研究であり、詰は相手に必至や詰めろをかける場合に自分に即詰の有無を見極める上に重要である。無理に危険を冒してまで即詰を狙うのは自分の玉に一手すきのかかっている時以外には無益である。
棋士の生命は対局にある。詰の研究に力を入れる必要もないし、詰の作図に没頭するのは却ってマイナスになる以上、棋士が詰を重要視しないのは当然である。ただ近頃の将棋熱とライズものばやりの波にのって新聞雑誌が強要し、棋誌が地方読者をつないでゆく政策上必要なので、棋士が小遣いひとりのアルバイトに作図してゐるのが現状である。人気棋士はその煩にたえかねて門下生や下級棋士に製作や修理を命じ、製品は相当の値段で取引されてゐるのに下職の方へはホンの煙草銭かコーヒー代しか渡されてゐないのが多い。しかも注文は実戦形で駒数も詰手数も少ないほど可といふので種切れになり勝だし、濫作の結果は焼き直しや不完全が続出し、本誌の御愛嬌ルームは大入り満員の盛況である。ラジオ出題の例をひいても昨年十二月の高柳作は不詰であり本年三月の木村出題は早詰であつた。
これにひきかへ真に頭の下がる思いのするのは詰棋客のいちぢるしい迄の躍進ぶりであらう。コツコツと一手一手虱つぶしに調べあげては解答を送り、十数回か数十回目にやつと正解者氏名にわが名前を発見して雀踊りする初心振りから成長してゆき、古今の詰棋書は申すに及ばず各紙各誌の出題を見逃さず、しかも余詰早詰の指摘から焼き直しの看破に至る迄、押しも押されぬ詰の鬼と成り果てたヴェテランの数はすでに千を以てかぞへるに及んでゐると思ふ。更に病膏盲に入って作図に凝り出したら大変。投稿又投稿倦むを知らず、推敲に検討に寝食を忘れ、念願かなつて活字に組まれてもすべてこれを無償。たまに安物のメダルかバッジ、さては金を出して買う人もなき棋士の写真が送られて来る位なもの。折角張り切って投稿したのに肝心の掲載雑誌が発行不能にあつて暗に葬られる。いくら待ってゐてもお取り上げにならぬので他誌へ再投稿すれば両誌でかち合って発表となりお叱りをうける。或は病床で作図に熱中しては主治医にたしなめられ、或は勤先で解図に寸暇を盗んでは課長に睨まれる。かくして詰の伝統は守られ今日の隆盛に迄育てられて来たのである。
棋誌の編集者の腹を聞いて見るがよい。およそ詰ぐらひ厄介なものはない。出さなきゃ雑誌がなりたたぬ。投稿作図はよほど選をしないと不完全作を掴まされる。棋士の作品は安心して出せるが謝礼が要るし、うるさい鬼どもの横槍にも気を配らねばならぬ。前号A題は玉方五一銀脱落とかB題持駒に歩一枚追加とか、さも印刷の誤りの如く訂正する煩らはしさ。全く以て詰はうるさいものと偽らざる告白なのである。さればこそ近来棋誌にして詰欄担当者にヴェテラン棋客の名を見受ける傾向が増して来たのも当然。いよいよ以て詰はわれらのものと断言せざるを得ないのである。
詰の定義や規約の問題にしてもそうである。棋士はもともと詰に熱意を持ってゐないんだから、わざわざ好んでむづかしい条文を作って自分の作図を自縄自縛に陥れることもなからうし、臨機応変に駒余らず正解論や妙手論、さては最長手順論と小うるさい読者の質問を受け流してゐれば済ましてゐられたんだが、近頃は素人衆の方がズンと研究が進んで来てごまかしは一切きかなくなった。かくて詰は棋士の手から棋客の手に移されるべき時期が到来したのである。全国の詰ファンの諸君よ、先づ詰将棋連盟を結成して詰を育成して行かうではないか。同好の士はずべて同資格で加入しよう。アマもプロも。無理に権威づけようとして高段棋士を顧問になんかしてはいけない。ましては日本将棋連盟公認なんて以ての外。
先ずわれらの連盟で直ちに着手すべき事業は次の通りである。
(1) 詰の定義及び規約の制定。
(2) 詰の採点標準の規定。
(3) 詰の著作権の設定。
このうち(3)は特に説明を要すると思ふから次に詳述する。
第一に詰作家の氏名を登録しておく。作品は投稿と同時に連盟にも送付し著作権を設定する。掲載誌の選者は原稿受領後三ヶ月以内に発表せざる場合、又は採用通知発送後三ヶ月以内に掲載せざる場合に発表権を失ひ、作者は他誌自由投稿となる。既発表作品の転載の場合は作者名と掲載誌名を明記し、同時に連盟にも通告の事。無断転載や剽窃焼直しの場合に審査する機関も連盟に設ける。
以上は作者の名誉を守る為の私案であるが理想をいへば掲載誌はすべて連盟を通じて作品の提供を受け、謝礼の一部又は全部を連盟が受領して作品の検討整理の費用に当てたい。金品を目当てにせぬのがアマの本領であり、気品高い作図の生れる所以でもあるのだが、一方では経費を助ける点と作者の励みになる点も見逃し難い。
これ迄のべた所は私案の一端であつて、諸賢の御批判を切望するものであるが、私自身が今日に至るまで自己の作品に対して如何に処理して来たかを申添えておきたい。
もう十五六年前になるが、選手権による名人制が出来て棋士に月給制が施された頃、五段から上でないと人並みな生活が困難であつた。名人六百円、八段三百円、以下順次に少なくなって五段百円、四段五十円で三段以下無給。何しろ総理大臣の年俸が七千五百円、陸軍大臣が四千二百円だつた頃のことである。貧乏しても朗らかな下級棋士と比較的交遊の多かった私は、喫茶店行きの費用の足しにと、当時つれづれのすさびに作ってゐた小品を彼等に無償で提供したことがあった。これはDさん向きだ、これはTさん好みだ、こいつはS誌にもってこいだ、などと勝手なことをいひながら彼等はそれぞれ適当に捌いて来てはお茶をのみに行ったものだつた。ほどすぎてそれらの作品がそれぞれの大家の名で発表されるのを見て私は独りニヤニヤしてゐたものである。
ただ一つ飛行機型の作図だけは惜しくなって誰にも与えなかつたが、彼等の一人は無断でA紙に交渉して来て事後承諾を求めてきたので、著作権のみを保留して承知した。その結果A紙から記念品として私に陶硯を贈ってよこし、仲介者は若干の謝礼金を貰ったようである。この際棋士に著作権をいふものを銘記せしめたことは一つの収穫であつた。後年大成会が将兵慰問用に詰図集を編集した折、私の作図の転載方を乞うて来たからである。無論承知したが掲載本二部送付を条件としたのみである。しかし次の様な事実もある。
戦後出版された某棋士の詰物百番の中に私の未発表旧作を発見して呆れたのである。これは確かに私が引き伸ばして大作をものしようと思ったので、彼等の一人が是非にといふのを拒絶した作品なのだ。恐らく小遣い銭に窮して無断で売付けたものと思われる。小品は往々にして暗合があり得るものだが、これは断じて暗合ではない。著作権設定の必要を痛感するのは以上の如きわけがあつたからでもある。
なほこの一文ではアマとプロの作品価値について比較することを避けたが、これは稿を改めて論ずるつもりである。
最後に棋士と詰について八世名人大橋宗英の次の様な有名な逸話を記して結びとしたい。
その昔、将棋所を預かる名人は代々その名人位継承を共に、時の将軍家に詰物を献上する慣例があつた。ところがただ一人就位しても献上はおろか後世に一局も詰物を残さなかった名人があつた。或人が怪しんでそのわけをきいたら、「詰物は君仲づれにだつて作れるからなア」と答え、なほ懇望されて即席に一握り詰を作って見せたが、なかなかに気品のある傑作であつたといふ。当時詰物では桑原君仲は並ぶものなき名手と称せられたが棋級は四段に止まってゐた。
この話しは決して詰を軽侮するものではなく、棋士にとつて対局が生命であり、詰は余技に過ぎぬものであること、指と詰は別個なものであること、詰の世界では棋士と棋客の差別のないこと、むしろ詰はわれわれ棋客のものであること等私の主張を裏書するものと確信する。
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筆者の感情も入っていて、プロに対して厳しい書き方ですが、少し時代背景を説明しておきましょう。
江戸時代は献上図式があって、プロが詰将棋をリードしました。明治に入り将棋家が衰退すると、詰将棋も衰退しました。しかしながら、新聞が発行されるようになると、その紙上にプロの詰将棋に載るようになりましたが、大抵は昔の詰将棋の焼直しや盗作でした。大正時代後期に入り将棋月報が出来ると、アマの詰将棋が序々に進歩しました。昭和に入ると、多数の雑誌や新聞に高段者プロの詰将棋が載るようになり、アマや下級棋士が著名な先生の代作を行うようになったようです。
詰将棋パラダイスではプロの焼直しや盗作問題を取り上げましたが、殆ど無視されていました。
つい昭和40年〜50年代でも、プロは平気でアマの作品を盗作していて、NHK将棋講座の詰将棋に盗作したアマの作品を載せるなど、今では考えられないことが、ごく普通にありました。その当時出された、あるプロの作品集の可也の作品がアマの某氏の作品の焼直しだったので、某氏が抗議したところ、逆に恫喝されたり、といったこともありました。
今はそういったことも殆ど無くなり、私がお会いするプロの詰将棋好きの先生方は皆さん良い方です。詰将棋にアマもプロも無いということが、やっと根付いたのだからだと思います。
文中、Dさんは土居市太郎先生、Tさんは塚田正夫先生、S誌は将棋世界のことだと思われます。
「飛行機型の作図」というのは、昭和十三年九月六日に朝日新聞に載った「荒鷲」のことですが、そんな逸話があったのは、初めて知りました。
大橋宗英の逸話には後日談があって、その話を聞いた桑原君仲が同じ駒で、握り詰を作り大橋宗英の作品より遥に良い作品を作り、大橋宗英の面目が丸つぶれになったということです。その作品は将棋玉図の中にあるそうですが、どの詰将棋かまでは伝わっていないとのことです。まあこの手の話しは最初の逸話も含めて、全て眉唾の話しですけどね。
一つだけ突っ込みますと、橘氏が誤解していると思うのは、新聞や雑誌は質が良いから載せるのでは無く、プロの先生の作品だから載せるのであって、詰将棋連盟が作品を集約して、アマの作品を雑誌に割り振っても、雑誌や新聞側で拒否するはずです。
また、板谷四郎先生が詰将棋パラダイス顧問を務めていて、詰将棋の出題もしているのに、この書き方は結構失礼だとは思いますね。
実際に詰将棋連盟が設立されたのは、十二年後の昭和三十七年のことになります。

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