旧パラを検証する7
創刊号6
大道棋大道五目遍歴二十年 大道棋人
私は今年三十七歳である。将棋を覚えたのは七才の時である。棋歴三十年。短い方ではない。棋力は初段。七来の時の棋力を三十級とすれば、三十年で三十級昇級した事になる。一年一級宛確実に昇級した訳である。天才ではないが、凡才でもないと窃に自負している次第である。但しこれからはもう上る見込がない。平均昇級点は来年から年々低下してゆく、致し方もない。現在迄の昇級振りを以て自慰しているより仕方がない。五目並べの方は将棋より後から覚えたらしい。その辺自分でもハッキリしない。将棋程には興味は感じなかつたやうである。将棋熱は進行性のものに取り憑れたらしい。中学校に入るやますます進行し、授業中詰将棋を考へていて、名前を呼ばれたのが耳に入らず、恐い先生から叱られた位で熱の下る病気ではない。雑誌の懸賞詰将棋は毎号欠かさず応募。当時は沢山の雑誌に発表されていた。一寸思ひ出すだけでも、講談雑誌、講談倶楽部、朝日、文藝倶楽部その他将棋専門誌から、新聞等、眼に入るものはすべて逃さない。朝日は花田八段出題の相当むづかしいものが出ていた。一等百円といふ賞金であつた。当時の百円は今日の二三万円の価値は充分であつた。これは一辺も当ったことはない。講談雑誌のは一等五円二等三円三等一円であつた。この方は良く当選して、書留便をよく受取ったものである。講談倶楽部の特賞に将棋盤及駒、一般は銅メタルであつた。メタルだけは沢山貰った。文藝倶楽部のも大体講談雑誌並であり、時々書留の印鑑を押したものである。当時ハガキは一銭五厘100枚で一円五十銭である。ジャンジャン出したものである。勿論五目並べもあつた。高木樂山名人が出題していたものが多かった。高木名人も随分長い名人ではある。この方もよく応募したものである。問題は黒先手二目で四三の勝如何、と云ふものであつた。
中学二年の秋であつた。十四才の時である。秋の祭礼で鎮守の森は相当の人手である。お小遣にギザ(五十銭銀貨)を一枚貰った。当時の五十銭の通用価値は、三〇〇倍とみて今日の百五十円、四百倍とみれば二百円だが今日の二百円よりは使い途が多かった。そのギザを一枚大切に財布に蔵ひ込んで出掛けた訳である。境内の一隅で一だかりがしているので、何気なくのぞいてみると、それが大道五目並べであつた。二目で四三の勝を打ったものに敷島二個と連珠の本を一冊只で進呈するというふ。間違った場合は五十銭でその本を買わねばならぬ。原価五銭とはかからぬ本である。自分がそもそも大道五目を見たのはそれが初めてであつた。勿論サクラの存在に気の付く程頭は働かない。盛んに手を出して引っかかっている。それがサクラであつたがこちらは気が付かぬ。何て馬鹿な大人だらう位に考へて自分も熱心に考へいる。雑誌の五目並べの懸賞に応募して当選している位だから相当の自身がある、両四三の手を考へて白に乗り手のないらしい箇所を発見した。二十分位見ているものだが誰もその箇所には打たない正解らしい。敷島二個。勿論まだ煙草は吸わないが、親爺が喜ぶぢゃらう。本も欲しい。然し万一失敗したら、本日の小遣であり当日の全財産は煙となって了ふ。やろうかやるまいか。五目屋は盛んに客の気を引くやうな弁舌で、既に相当の鴨が引っかかっている。迷ひに迷っていると、五目屋のけい眼早くも自分の態度を見て取ったか、「学生さん一つどうです」と来た。心臓がドキドキと波打つ。えーいままよ。やつて了へ。読み筋通り第一石を打つた。敷島の黄色い箱がチラチラする。五目屋は「上手い」とか何とか云い乍ら止める。第二目で四三と打つた。「おぢさん、これで良いぢゃろう。」と云ふと、五目屋の奴め、「惜しい、惜しい。白はかう止めて四、学生さんの方は三。私の方が四。四と三では四も勝ぢゃ。惜しかった。正解を入れる人はおらんか。」嗚呼。祭りの小遣、私の全財産はかくて、私の財布から飛び去り、五目屋の財布の中に収まって了つた。泣くにも泣けぬ気持五銭ばかりの薄っぺらな本を一冊貰ってスゴスゴと家へ帰る淋しさ。
それからの私は、一ぺんに懲り懲りして了つたか。その逆であつた。五銭の本には大道五目の問題が十ばかり出ていた。何れも法則問題でない平問題ばかりであるが、これを唯一の教科書として一心不乱に研究した。
年がかわつて翌年の夏。街に夜店の出る頃となつた。光を求め、涼を求めて人が出る。この客を釣らんとして、大道五目屋も店を張つて居た。祭の時の五目屋とは違ふ男だ。その頃自分は平問題ならば絶対勝つ自信があつた。法則問題はまだその頃登場していなくて平問題の黒の乗り返しで勝つものを殆ど出題していた。法則問題などは自分としては夢にも知らない処のものであった。
人の輪をかきわけて前に出て、問題を睨みつけること約二十分。漸く正解を発見した。「おぢさん、やるよ。」石を掴むと五目屋は、良き鴨なりと認めたるならん「今度こそいよいよやられたかナ」と自信たつぷり。自分は充分の確信を持って一石二石と打ち、白の四を乗り返して棒四を作ると、五目屋苦い顔をして「正解ぢゃ、正解ぢゃ。うまくやられた」と云って敷島二個と本一冊を呉れた。その時の嬉しさ。飛んでかえつて親爺に煙草を差し出した。喜んで貰へると思った処、案に相違してひどく怒られた「子供のくせに勝負事に手を出してはいかん。」とど鳴られた。尤も煙草は取り上げられて、親爺の鼻から煙になつて出て了つた。勝手なものだ。大人なんて。尤もその前年の秋祭礼で五十銭やられた事は誰にも話していない。話せば怒られるからだ。骨折つて叱られてりゃ世話はない。これで大道五目破りが終りとなれば、親爺の叱事も効果があつたわけだが、そんな事で止まらない。
煙草は母親の方へ提出する事にした。母親はやつぱり細いし、又おふくろは良きものと感じた。かくてあちらの縁日、こちらの祭礼と飛び廻って専ら煙草稼ぎをしたものであつた。
然し一度肝を冷やした事がある。それは中学五年生の夏であつた。
郷里から三里程離れた愛知県幡豆郡一色町に、有名な大提灯と祀る祭礼がある。ローソクの大きさが人間程もある化物みたいな大提灯が、社の境内に幾十となく建てられる。ローソクに火を点けるのが観物である。明治初年の頃、明治天皇が東遷の砌、道中のつれづれを慰める為、この大提灯を東海道筋迄持ち出して供覧した事もあると云ふ。兎に角その祭礼は近郷近在から大変の人出である。自分も出掛けた。その目的の一半は大提灯を見物することであり、他の一半は大道五目、大道詰将棋破りをすることであつた。後の一半の方が大部分であつたかも知れぬ。
それは扨説、当時は既に大道五目は所謂法則問題が登場していた。この法則問題の登場が大道五目並べをして「破り難きもの」「不可解なるもの」果ては「インチキ」ものと迄云わしめる難解なものとなつて了つた最大の原因であつた。筆者自身に於いても法則問題登場の頃は、いくら考へても正解が分らずインチキ問題ではないかと思ったものである。三三禁を逆用して勝つテクニックに想到する迄には、幾多の辛酸をなめたものである。そして遂に正解の鍵を三三禁逆用に思ひ到った時は、正直の処天にも昇る気持ちであつた。法則問題はこの合鍵さへ手に入れれば後は簡単である。ただこの合鍵の使い方が一般素人に呑み込み難く、其処に五目屋商売の成り立つ余地が充分ある訳である。何れにしても法則問題は大道五目屋の米櫃であり、誰が創作したのか分らないが、法則問題こそは大道商売の傑作の一つに数えられて良いと思ふ。この大道五目の法則問題を撃破する充分の確信ともう一つの大道詰将棋なら大抵のものは、こなし得るといふ自信(尤も大道棋の方はその頃既知問題と云へば、せいぜい香歩、銀、金合わせて二〇題位の自信しかなかつたのだが、、、。)の二つの確固たる信念(?)を持って勇躍して、一色の大提灯縁日に単身乗り込んだわけである。居るは居るは。大道詰将棋屋二軒、大道五目並べ五軒が、境内のあちこちに店を張って居る。天候に恵まれて大変の人手である。詰棋屋と五目屋から見たら大層な鴨が集ったと思った事であらう。然しこちらから見れば七羽(軒?)の鴨は近来の大猟である。今に見て居れ、一ト泡吹かしてくれん。まづは何は兎もあれ準備を致さんと、乗って行った自転車を預かり所に頼んで、どの鴨から征伐して呉れん?と内心ワクワク境内を物色したのであつた。見ん事七羽の鴨を退治して意気揚々と引き揚げれば寔に以て、目出度し目出度しであるが、どつこいそうは問屋が卸さない。茲で哀れや十八才の中学生が意外の危難に遭遇すると云ふ一幕となるのだが、その経緯は次号で詳しく物語る事と致しましやう。
(つヾく)
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いやあ、長い引用でしたねえ。でも結構重要なことが書かれていると思うし、鶴田主幹の文章(大道棋人は鶴田主幹のペンネーム)って次を読みたくなるんですよね。
で、内容についてですが、大正末期から昭和初期では、大道五目が大道詰将棋に優る位、流行っていたことが解りますね。確かに将棋より五目並べの方がルールは簡単ですよね。
そして、この頃は失敗しても1回いくらか支払って、本を買うというもので、問題に怪しいものはあったにしても、高額の請求は無さそうで、古き良き時代という感じがします。
あと冒頭ですが、昔は詰将棋って解答すると結構な賞金くれたみたいなんですよね、上記の賞金も今の価値に換算すると10万円以上になると思う。詰将棋解いて10万円呉れるなら(しかも新聞詰将棋レベルで)いくらでも応募しますよね。
あと、今の人は大道五目の法則問題を知らないと思いますが、簡単に説明するのは不可能なので、説明する機会があれば、図入りで説明しようと思います。

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