昨日は名古屋で混声合唱団スコラ カントールム ナゴヤの指導。練習後、本当に雪が降るの?と思いましたが、しっかり降り、雪景色。
今日は夜に大阪府の河内長野市で仕事でしたので、移動できるか心配しましたが、杞憂に終わり、河内長野ラブリーホール合唱団の練習に伺えました。
F.シューベルトの『ミサ曲第6番』はじっくり練習でき、良い具合に仕上がったと思います。時A.ブルックナーの『テ・デウム』のほうは時間がなくて、問題点しか練習できませんでしたが、先週本番指揮者の寺岡清高さんがしっかりやって下さったお陰で形になりつつあります。
あとはどこまで集中できるか、全身全霊でしっかり表現できるかです。そして、健康第一!
全聾の作曲家、「現代のベートーヴェン」として一躍時の人となった佐村河内守氏。今度は自作としていた代表作のほとんどがゴーストライターによって作られていたことが明るみになって、世間を賑わしています。
僕はこの騒動に接して昨年起きたホテル等の食材偽装問題を連想しました。発表していることと事実が違った。悪いのは絶対に偽装した側であると僕は考えます。享受する側が自分で判断しなければならないという意見も出ます。しかし、その大半が知識も経験もない人たち。そういった人たちが何で判断して享受するかといえば、提供している側が発表していることなのです。だからこそ嘘、偽りはいけない。提供する側は大きな責任を持ち、享受する側との信頼関係を築き、それを裏切ってはいけないのです。
佐村河内氏の場合はゴーストライターが告発しなかったら、専門家でさえわからなかったこと。彼を推した音楽家も、彼を取材したテレビ局や出版社も、彼の作品を売り出したレコード会社も、彼の作品のコンサートを企画し、開催したプロモーターも見抜けなかった。佐村河内氏が自身を売り出すために自ら嘘、偽りを並べ立て、奇跡の作曲家として世間の注目を浴びるまでになった。しかし、音楽に一途なゴーストライターは良心の呵責から遂には告発に踏み切り、今回の騒動となったのでした。
それに伴う佐村河内氏の著作の絶版、彼のCDの出荷や音楽の配信、コンサートの中止は、嘘で塗り固められたキャッチコピーで売り出されたため、致し方ないでしょう。ただ、偽装がなければ、売れること、またそれに乗っかって金儲けすることは決して悪いことではありません。
作曲家に限っていえば、西洋音楽史に燦然と輝く大作曲家の大半が売れたいと思って、「これぞ自分の最高傑作だ!」という作品を努力して生み出し、自ら演奏したり、売り込んで演奏してもらったりして、最終的には楽譜の出版までこぎ着けました。もちろん西洋音楽史に残る芸術作品となったのには、時代が移り変わっても多くの人たちに受け入れられる普遍性があったからですが、根本にそういうことがなければ、作品は残らないのです。
さて、僕が佐村河内守氏を知ったのはメディアが大々的に取り上げる以前、『交響曲第1番HIROSHIMA』のCDの発売前でした。ある著名作曲家が自身のホームページで彼を自叙伝とともに紹介したのを見たのがきっかけ。本屋でその著書を見つけて立ち読みし(立ち読みですみません)、興味を持ちました。しばらく経った2011年、自叙伝の題名にもなった『交響曲第1番HIROSHIMA』のCDが発売されることとなり、そのプロモーション動画を見ました。「おぉ!なかなか良いなぁ!」と思い、買いました。ワクワクしながら再生して、しばらく聴きましたが、「つまらん」と途中で聴くのを止めてしまいました。それからそのCDは一度も聴いていません。佐村河内氏のゴーストライターには申し訳ありませんが、僕には冗長で良い作品とは思いませんでした。それ以後、佐村河内氏への興味をなくし、その後の熱狂的な売れ方に接して、クラシック音楽でもこんなに売れるんだと驚嘆はしたものの、彼の作品に振り向くことはありませんでした。
一方でこれだけCDが売れ、クラシック音楽、しかも交響曲という分野で全国ツアーが組まれ、その他の作品の演奏会も相当数あり、しかもクラシック音楽の作曲家として信じられないようなメディアでの取り上げ方もされ、佐村河内氏による作曲とされた作品を享受させた方は非常に多く、感動し、称賛されたことでしょう。その方々はこの騒動に接し、どのような反応をされるのでしょうか? 「だまされた! 嘘に塗り固められた曲なんて駄目だ!」とお怒りになる方、「佐村河内氏は全然駄目だけれど、作品自体は良いじゃないか」と思われる方、千差万別でしょう。それで良いと僕は思います。音楽なんて絶対的なものではありません。演奏する者、聴く者それぞれの感覚で判断すればいいことなのです。「作品自体は素晴らしい」と思って演奏する、あるいは「作品自体は素晴らしい」から聴きたいという方が大勢いて再び演奏される。それが繰り返されて、頻繁に演奏されるようになり、時代を越えて残っていく。佐村河内氏の作として発表された作品もそういった過程を経て残っていけば、名曲となり得るかもしれません。
この騒動でW.A.モーツァルト作曲の『レクイエム』KV626(通称『モツレク』)も思い浮かびました。「三大レクイエム」の一つと並び称され、名曲中の名曲である『モツレク』は、モーツァルトがある伯爵のゴーストライターとして作曲したものです。この伯爵はアマチュア音楽家でしたが、当時の著名な作曲家に高額な報酬を払って作品を書いてもらって、それを自作として発表、演奏していました。伯爵は自分の妻の逝去に接し、『レクイエム』を捧げることを思いつき、モーツァルトに依頼した次第。しかし、当のモーツァルトが『レクイエム』の作曲途中で亡くなってしまいました。慌てたのは高額な報酬を受け取れると期待していたモーツァルトの妻、コンスタンツェ。彼の弟子であった、F.X.ジュスマイヤーに補完させ、依頼主に渡し、報酬を受け取りました。
ここで終われば、この曲が『モツレク』としてこの世に残ることはあり得ません。なんと、モーツァルト(とジュスマイヤー)がゴーストライターとして作曲したこの曲をコンスタンツェは亡き夫の作品として出版してしまったのです(伯爵が初演する前にモーツァルト家側が初演してしまったという説もあります)。彼女はこの曲の筆写譜を手元に置いていたのです。これは明らかに契約違反。ゴーストライティングを依頼した伯爵は猛抗議したものの、結局はモーツァルトの作とされ、落ち着きました(実際にモーツァルト自身による未完のスコアが残っています)。さらに金儲けを企んだコンスタンツェの勝ち。『モツレク』は泥沼の過程を経ましたが、「演奏したい」あるいは「聴きたい」という人が多かったゆえに残り、名曲として現在に至るまで演奏され続けています。作品の価値を決めるのは演奏者であり、聴衆であると改めて思います。