久しぶりに愛知県岡崎市に訪れました。この地に降り立つのは3年半ぶり。
岡崎市民合唱団の第30回、そして創立35周年を記念する演奏会で客演指揮させて頂くことになりました。この団の指揮者を務めておられる兼松正直先生が今年1月に開催された
「名古屋大学グリーンハーモニー第45回記念定期演奏会」での僕の指揮をご覧になったことがきっかけです(兼松先生は名大グリーンハーモニーのOVなのです)。こういった形でご縁ができたのはうれしいですね。
僕が指揮させて頂くのはG.フォーレ作曲の『レクイエム』(『フォーレク』)。W.A.モーツァルトのとG.ヴェルディのと並んで「三大レクイエム」の一つ。『フォーレク』は
合唱指揮を1回しましたが、僕自身が指揮するのは今回が初めて。その機会を与えて下さったことを岡崎市民合唱団の皆様に感謝致します。
実を言いますと、僕はフォーレがそんなに好きではありませんでした。古典的でもなければ、革新的でもない。中途半端に思えて仕方ありませんでした。若い時はドビュッシーのような大胆さ、ラヴェルのような華麗さ、プーランクのような小意気さが受けるのです。しかし、年齢を重ねると、フォーレの微細さに良さを感じるようになりました。古典的でもなければ革新的でもないことこそフォーレの特長なのだと気付きました。今回『フォーレク』を指揮できることは大きな喜びです。
今日は僕の指導による『フォーレク』の初練習でした。これまでに練習されてきたので、基本的なことは問題なし。これからは『フォーレク』の魅力をいかに引き出していくかが重要となるでしょう。
『フォーレク』がモーツァルトやヴェルディの『レクイエム』と決定的に違うのは、レクイエムの中核とも言える続唱"Sequentia"が省略されていることです。『怒りの日"Dies irae"』から始まる部分は最後の審判に例え、死した者は煉獄において浄化のための試練を受ける模様が描かれています。これは生きる者へのある種の脅しであり、死への恐怖心を植え付け、キリスト教を熱心に信仰するよう仕向けたものと言えるでしょう。この部分はおどろおどろしく、モーツァルトとヴェルディの『レクイエム』では非常に劇的に作曲されています。しかし、フォーレはこの部分を作曲しなかった。フォーレはあくまでも永遠の安息"Requiem aeternam"が死者に与えられることに主眼を置いています。彼にとって死は恐怖や苦しみではなく、「永遠の至福の喜びに満ちた解放感」なのです。
今回は悲しみや苦しみ、恐怖に満ちた『レクイエム』ではなく、安らぎに満ち、終曲の『楽園へ "In Paradisum"』に向かって、まさに楽園に導かれて昇っていき、気持ちが解放されるような演奏にしたいと思っています。劇的でない分、細かいことを丁寧に表現して積み重ねて、全体を構築することが大事。声色、音量の設定、フレーズ、言葉。今日は最初から細かくやっていったので、2曲目の途中までしかできませんでしたが、そこまで追求していかなければなりませんし、岡崎市民合唱団はできると感じました。
本番は来年4月14日(日)。これから半年間、よろしくお願い申し上げます!