13日(月)から11月6日に本番を迎えるLOVELY HALL AUTUMN OPERA『コジ・ファン・トゥッテ』の稽古が始まりました。キャストは若い役を関西で活躍している僕と同世代の歌手が固め、老哲学者の役を先輩歌手が務め、このプロダクションを締めます(芸術監督と演出を兼任)。役の設定からみても良いキャスティングです。
『コジ・ファン・トゥッテ"Cosi fan tutte"』はW.A.モーツァルトの作。台本はロレンツオ・ダ・ポンテによるもので、同じ作者の台本による『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』とを合わせて「ダ・ポンテ三部作」と言われています。どれもが"Dramma giocoso"と記されています。訳すと、「楽しい劇」となります。喜劇的な内容ですから。その中で『コジ・ファン・トゥッテ』は上演される機会が少ないのではないでしょうか?
『コジ・ファン・トゥッテ』の邦題は『女はみんなこうしたもの』。舞台は18世紀のナポリ。士官のフェッランドは美人姉妹の妹ドラベッラと、同じく士官のグリエルモは姉のフィオルディリージと愛し合っています。互いに自らの恋人を自慢する二人。それを聞いた老哲学者ドン・アルフォンソは「女の貞節は危うきもの」と説きます。フェッランドとグリエルモは反論します。それなら彼らの恋人で試してみようということになり、大掛かりな芝居を打つことになりました。
フェッランドとグリエルモが国王の命令で戦場へ赴くことになったとドン・アルフォンソは恋人に伝えます。うろたえる恋人たち。若き士官たちは戦場へと旅立ちます。もちろんこれは芝居。軍艦までをも持ち出しての大芝居。
次に登場するのは姉妹に仕える女中デスピーナ。女中という仕事に辟易しながらも、世の中のことをよく知っている、機知に富んだ、頭のよい女性。恋人が戦場へ赴いたことを嘆いている姉妹に向かってデスピーナは「そんなことで」と呆れて、説きます。「男は彼らだけではありません。彼らが死んでも、他の男がすべて残ります。自由に恋しなさい。涙に暮れて無駄に時間を過ごすよりも、楽しんで過ごしましょう」。
そこへドン・アルフォンソが登場。彼はデスピーナに自分たちの企てに一役買ってほしいとお願いにやってきたのです。こういった面白いことが大好きなデスピーナは喜んで引き受けます。続いてへんてこな恰好をした男が入ってきます。彼らは戦場に行ったふりをして変装をしたフェッランドとグリエルモ。互いの恋人を誘惑しようというわけです。しかし、彼女たちは頑として揺るがない。喜ぶフェッランドとグリエルモ。ドン・アルフォンソは喜ぶのはまだ早いと彼らを諭します。
しかし、デスピーナの援護が加わると、フィオルディリージとドラベッラは揺るぎ始めます。ここぞとばかり猛アタックするフェッランドとグリエルモ。そしてついに、フェッランドはグリエルモの恋人フィオルディリージを、グリエルモはフェッランドの恋人ドラベッラを口説き落とします。しかし、いつの間にか口説き落とすことに喜びを感じていたこの二人は、自分の恋人が口説き落とされたことに怒り心頭。
そこに事を仕掛けたドン・アルフォンソが得意満面で登場。「怒るということはそれだけ彼女を愛しておる証。すべてを受け入れ、許し、彼女と結婚するのじゃ。女を責めてはならぬ。女はみんなこうしたもの」と持論を高らかに唱えます。一方、恋人たちは皆に祝福されて結婚するのでした。めでたし、めでたし。
話の筋は決して難しいものではありません(しばしば台本の不備が指摘されますが、僕はそう思いません)。一体何が上演の機会を少なくしているのでしょうか? 僕自身は、難しい筋でないにもかかわらず、大変機知に富んでいること、音楽の難しさからではないかと思います。
『コジ・ファン・トゥッテ』には登場人物が6人いますが、どの役も同等に扱われています。主役がいて、脇役が固めるというのが通常の劇ですが、『コジ・ファン・トゥッテ』では6人が同じ量を歌い、同等に重要です。そして、アンサンブルが多い。アリアもアンサンブルも多く、かなり難しい。モーツァルトはごまかしが効かないと言われますが(音楽のすべてがごまかしなんて効きませんが)、このオペラではいっそうのテクニックが要求されます。
一方で内容は機知に富んで面白いのですが、観る者にそれを伝えることに演技面でも相当なテクニックが必要です。
われわれのプロダクションはまだ始まったばかり。どう歌うか、どう歌いたいか、どのように役柄を作り、設定していくか、色々な意見が出ています。最大の目標は当日お越し頂いたお客様に「面白い!」と思って頂くこと。『コジ・ファン・トゥッテ』の世界、僕たちの思いが伝わること。これからもっともっと読み込まなくちゃ!(編曲しなきゃ!)