朝、父方の実家がある岐阜県恵那市へ。今日は父方の祖父の七回忌法要がありました。父方の祖父がこの世を去ってからもう6年が経とうとしているんですね。父方の祖父については一度詳しくこのブログに書きました(2007/7/15付け「
中村貴志、実家へ帰る」参照)。父方の祖父が亡くなったのは2003年1月25日。それからの6年間は僕にとって激動の時でした。何もできない祖母のために僕の両親が実家に引っ込み、僕の人生初めての一人暮らしがスタート。オーディションに合格して、その年の9月に
大阪シンフォニカー交響楽団のいずみホール定期演奏会に出演し、関西での活動を開始。翌年3月に
関西歌劇団に客演して、オペラ・デビュー。4月には大阪国際フェスティバルで
井上道義指揮・演出によるプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』で初めてオペラの合唱指揮を担当。その後は歌手として大きな舞台に立たせて頂きましたし、超一流の指揮者の下で合唱指揮をたくさん担当させて頂きました。指揮者としてもオーケストラに合唱とたくさん振らせて頂きました。"
混声合唱団スコラ カントールム ナゴヤ"とは2度もドイツへ演奏旅行に行くことができ、かけがえのない経験をさせて頂きました。出身地、名古屋での初めての大きな仕事、
セントラル愛知交響楽団の「悠久の第九」の合唱指揮も担当させて頂いています。関西の僕の「恩人」、大阪シンフォニカー交響楽団とは「感動の第九」をはじめ、色々とやらせて頂いています。また、たくさんの仲間や素晴らしい音楽家と出会い、素晴らしい体験をたくさんすることができました。本当に本当に濃厚な6年でした。僕はいつも祖父が見守ってくれていると思っています。非常にタイトなスケジュールでしたが、絶対に七回忌法要に出たいと思いました。
10時に父方の実家に到着。わが妹家族は昨日から泊りがけで来ていました。今日は姪っ子にモテモテ(笑)。ふたりっきりで…その先は言えません(笑)。
親類一同集まって、11時から七回忌法要。良いのか悪いのかわかりませんが、法要中祖父のことをずっと思っていました。祖父との思い出。魚釣りに行ったり、山へ山菜を取りに行ったり、へぼ(クロスズメバチ)を取りに行ったり。祖父の作ってくれた美味しい料理。亡くなる3ヶ月前に僕のコンサートに来てくれたこと。僕は結構忙しかったのに、たまたま3日空いていた時にこの世を去っていったこと。この6年間のこと。「おじいちゃん、これからも見守ってください。」
せっかく親類が集まったのにゆっくりできず。昼食を急いで食べて、名古屋へ引き返しました。14時から
25日(日)本番のJ.S.バッハ『カンタータ147番』のオケ合わせでした。他のソリストはもうすでに何回か合わせていますが、僕は今日が初めて。テノールのアリアはいじめかというほど難しい。でも、なんとかなりそう(なんとかしなければいけないのですが(笑))。この1週間で詰めていけば、楽しめるところまでいきそうです。
それにしても、不思議に思うことがあります。僕はバッハを楽しむと書いたけど、当時はどうだったんだろう。バッハにとってカンタータを作曲することは仕事だったわけです。飯を食うための手段だったわけです。もちろん良い曲を書こうと思ってはいたでしょうが。そして、演奏する側も仕事です。僕も仕事ですが、僕はやりたくてバッハのカンタータを歌いますが、当時の演奏家にとってはある種押し付けられたものだったかもしれません。事実、バッハは演奏者の質の悪さをボヤいていました。上手いか下手かは別にして、現代の僕たちはバッハの作品を芸術として心を込めて演奏します。僕たちの演奏を聴いて、バッハ大先生はどう思うんだろう?
日が沈む前に名古屋の住処に帰ってきて、お一方レッスンした後、なぜか無性に
2月15日(日)本番のC.オルフ作曲『カルミナ・ブラーナ』のテノール・ソロを歌いたくなり、練習しだす。他にソプラノとバリトンのソロがあるのですが、テノール・ソロはたった1曲だけ、歌唱時間は2分もないでしょう。しかし、ハイDがあるのです。これが出るかどうか心配でしたが、いけそうです。方向性が定まりました。まぁ、キャラクター上、別にきれいに出す必要はないのですが。
もうそろそろ『カルミナ・ブラーナ』の勉強を始めようと思っています。もちろん僕自身が歌う曲は勉強してありますし、全体の大体の内容も把握しています。これから1曲1曲を詳しく勉強しようということです。僕は全体の演奏時間の60分のうち2分も歌いませんが、やはり僕は全体の一部。全体を引き立てるために、他の曲もしっかり勉強します。というのは表向きの理由で、たった2分で全てをかっさらってしまおうという魂胆です(笑)。