われわれ、演奏家は作曲家が創作した作品を演奏するのが仕事です。作曲家は自分の創作を楽譜という形に残します。自らの表現したいことを記します。楽譜は作曲家の命。ですから、われわれ、演奏家が楽譜を読み解くことこそ、作曲家の心に迫ることであり、作品の真の姿を表現することであります。
演奏家は楽譜に従わなければならない…のでありますが、時に「本当にその音なのですか?」と疑問に思うことがあります。天才といわれる作曲家だって人間であり、間違えることもあります。出版する段階で間違いが生じる場合もあります。実は、古い作曲家であればあるほど、出版されている楽譜にその可能性が多いのです。しかしながら、ここ十数年は、楽譜の研究と楽譜の見直しが進み、作曲家の意図に忠実な楽譜が出版されるようになりました。このような楽譜を「原典版」といいます。
例えば、これからシーズンを迎えるベートーヴェンの交響曲第9番、いわゆる『第九』。十数年前までは、『第九』を演奏する時、ブライトコップフ社の、現在では旧全集といわれる楽譜が主に使われました。と言うか、それしかなかったと言ってもいいでしょう。しかし、この楽譜には間違いが多いと言われてきました。そこで、十年ちょっと前に登場したのがベーレンライター社による原典版の楽譜です。これは衝撃を与えました。しかし、旧全集を出版したブライトコップフ社も数年前に原典版の楽譜を出版したのです(こちらは新全集と言われています)。面白いことに、どちらも作曲家に忠実な「原典版」とうたっていながら、違う箇所がいくつかあるということです。なぜこういうことが起こるのでしょうか。
ベートーヴェンの『第九』に関する資料は、彼自身の自筆譜も含めて、複数あります。これこそ作曲家の意図したものだ、これこそ原典だとする基準が出版社(編集者)によって違うということなのです。その判断を下す段階において、楽譜の編集者の解釈がどうしても入り込んでしまうのです。つまり、客観的に正しい楽譜は存在しないのです。
まだ生きている作曲家の作品であれば、疑問に思ったことをその作曲者に直接尋ねることができます。しかし、もうこの世には存在しない作曲家の作品であれば、それは無理な話です。最終的には、どの楽譜で演奏するか、あるいはどの音で演奏するかは演奏家に託されます。
12月16日(日)の「スコラ カントールム ナゴヤ第5回定期演奏会」で取り上げるJ.ハイドンの『テ・デウム』の楽譜も疑問が多い。ハイドンの『テ・デウム』は2つありますが、スコラが取り上げる『テ・デウム』はハイドンによる自筆譜が存在せず、信頼に足る資料もそう多くはありません。それ故、この『テ・デウム』の楽譜が出版されたのは1962年です。
この『テ・デウム』の編成はソリストを含む混声合唱とオーボエ2本、トランペット2本、ティンパニ、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、通奏低音(オルガン、チェロ、コントラバス)。僕がこの楽譜を読んだ時、オーボエとティンパニのパートに疑問を感じました。そういう時にどうするかといいますと、この楽譜がどういう資料を基に編集されたかということを調べます。楽譜には編集者の言葉が記されているものです。それを読むと、僕が使用している楽譜は3つの資料を基にしており、オーボエとティンパニのパートはそれぞれに違うことがわかりました。逆に、その他のパートには相違はなく、信頼できると言えるでしょう。
12月16日の演奏にあたり、僕の判断は、ハイドンの自筆譜に近いとされる資料から、オーボエのパートを完全に削除、ハイドンのティンパニの使い方を分析し、ティンパニの音を一部変更したり、削除したりしました。
僕がオーボエを削除したり、ティンパニの音を変更したり、削除したりしたからといって、その楽譜が悪いという訳ではありません。あくまでも、解釈の違いです。ハイドンの意図したものを表現したいという気持ちには違いはないのです。