2020/8/1
國森康弘 写真・文『写真と言葉で刻む 生老病死 そして生
――限りがあるから みんなでつなぐ』
(農山漁村文化協会刊・20.3.5・B5変型・162頁・本体2500円)
元「神戸新聞社」記者でフォトジャーナリストの著者は、「〇三年のイラク戦争を機に新聞社を辞め独立して、世界の紛争地や困窮地域を取材、国内では戦争体験者や野宿労働者、看取りや在宅医療などの撮影・取材を重ねてきた。そして、世界中の誰もが「あたたかい死」を迎えられるようにしたい、と強く願うようになった」(「あとがきにかえて」)と述べている。
そして、書名にある「生老病死」は、四つの苦悩を言いあらわした言葉になるわけだが、「そして生」へと繋げる著者の思いは、深い。もし、死が辛い苦しい「冷たい死」であるならば、できることなら、生を反照しうるような「あたたかい死」であるべきだと思う。
ベッドに横たわっている老女の手を握っている若い医師を写真は捉えている。ベッドの先の方でカーテンを握りしめながら立って、じっと見ている小さな男の子がいる(40P)。おおばあちゃんとひ孫の関係のようだ。
「ホスピス医に聞いたことがある。/家の力、家族の力はガンの痛みさえ和らげると。/その医師が施設型ホスピスに携わっていた時代には、約半数の人に医療用麻薬を常時注入する装置をつけていたが、在宅ホスピスに移行してからの一〇年余り、六〇〇人超のガン患者には一度も装置をつけることがなかった。」
もちろん、「家の力、家族の力」は、普遍的なものだといい切れないのが現在という場所だといっていい。だが著者の視線が捉える小さな男の子とおおばあちゃんとの間には確かに繋がっているといえるものが漂っている。それがひとつの生の力の源泉だといっていい。
高い場所(道路)に立っている男女二人の後姿、そして彼らは河川が様々なもので埋め尽くされているのを見ている(100P)。
「二〇一一年三月一一日、滋賀県を発ち、日本海側を走り、翌朝に福島にたどり着いた。写真家としてカメラは持っていた。しかし、撮影に集中することはできない。/一人でも息のある人、救助につなげられる人を見付けたいと思い、捜索隊がまだ入っていない場所も、なるべく歩いた。/だが、私が見つけられたのは、すでに冷たくなった、息を終えてしまった、人たちだった。」
そして、著者は「私は無力だった」とも述べている。自然災害と人間が作ってしまった凶器の危機的情況のなかで、どれだけのことができるのかと問うことは難しい。なにもしないよりは、なにかをしなければと考え、フクシマや、あるいは海外の内戦地へ歩を進めていく人たちをわたしはただ望見しているだけだから、言葉を重ねていくことはできない。それでも、なにかしらのことを述べるとするならば、視線だけは外したくないということだけだ。
「日雇い労働者の町」釜ヶ崎を捉えた一点の写真に釘づけされた。「日本の屋台骨を支え 捨てられた男たちの輪のなかに天使がいた」(127P)のだ。年老いた男たちに囲まれて少女が笑顔で混じっているのを見て、いろいろ想像してみる。いや、それは乱暴な視線になってしまうだけだ。少女の隣で半座りして、ワンカップを置きながらなにかを食べている男は優しい笑顔だ。男たちにとって少女は、やはり釜ヶ崎の地上に降り立った天使なのかもしれない。
「亡くなる幾日か前に、ひでさんは/花が開くような表情を浮かべた/その後まもなく危篤に/同じころ ひ孫の成美ちゃんも/意識不明で救急搬送された/進行性難病の脊髄小脳変性症を抱くひ孫//ひでさんは生前/成美ちゃんの身の回りの世話をしていたのだった//数日後 成美ちゃんは一命を取りとめた/同じころ ひでさんは安らかに旅路に就いた」
写真は、ひでさんの目を細めながら笑う顔を捉えている(43P)。いい顔だと率直に思う。そしてやさしい目をしている。ひでさんと成美ちゃんは、生から死へ、死から生へと円環しながらひとつの時間を共有していったといえるのかもしれない。
「世界中の誰もが、自分の授かった命をまっとうし、人生の最後には大切な人と別れや感謝を交わしながら、次の世代にいのちをつないでゆく」と著者は述べていく。確かにそうなのだと、この写真集を見ながら思う。自分の生と、やがて訪れる死は、「次の世代にいのちをつないでゆく」のだと。
(「図書新聞」20.8.8号)

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2020/6/13
安立清史 著『超高齢社会の乗り越え方
――日本の介護福祉は成功か失敗か』
(弦書房刊・20.3.20・A5判・200頁・本体1800円)
思い起こせば、一九九七年に介護保険法が制定され、二〇〇〇年から公的介護保険がはじまり、新たに様々な介護・ケア施設がつくられていった時、施設自体の有様と従事者の仕事の内実に齟齬があり、高齢社会に向かっていく、この国の行方が不安視されたことを、わたしなら忘れることができない。その後の情況も、それほど改変されたとも思えず、むしろ悲惨な事件が多発しているといっていい。わたしは、初めに税収ありきで、高齢社会への設計・ビジョンといったものは、極端ないい方をするならば、空虚なものだったと思っている。その後、様々な改変を行われながらも、入所者たちへの配慮といった細やかなケアの仕組みはますます希薄になり、誰の為、何のための介護とケアなのかといいたい思いを抑えることができないでいる。
本書の著者は次のように述べていく。
「少子化や高齢化が、ここまで問題にされるのは、日本社会のあり方そのものにも問題がありそうです。」「「超高齢社会」という言葉は社会に「年齢差別」という毒を浸透させています。すでに社会の大半は「エイジズム(Ageism)」という差別感覚に知らぬ間に「感染」していると言っても過言ではありません。」「介護保険は「高齢社会における介護の社会化」が目標だった。(略)事業者は介護保険改正のたびに介護報酬の切り下げに振り回され、事務処理は煩雑になるばかりで制度は複雑怪奇となり、今や人間が理解できる範囲をこえたと言われるほどだ。」
社会学(厳密にいえば、共生社会学、福祉社会学)者である著者の見解は、さらに明快に展開されていく。「介護」とは、「「介護保険」という制度が作った言葉」であるとして、「宅老所よりあい」や「よりあいの森」を三〇年近く運営してきた村瀬孝生の著書を援用しながら著者は鮮鋭に言葉を紡いでいく。「利用者にあわせることをせずに、ケアプランや事業所の都合や計画に合わせて、利用者をケアしようとすることを」否定する。「「介護者という立場」からの介護」は、「上から目線で介護プランを利用者に押しつけていくものになりがちだ」から、「介護者にならない」。そして、「何もしない」ということだという。これは、「じっと見ること、いっしょにいること、なにかをするのでなく、利用者本人に沿うこと」だと述べていく。添うではなく、沿うということに大きな意味がある。そして、著者は次のようにわたしたちを誘っていく。
「相手の意向や状態をみずにつくられたプランを実施するのではなく、相手を具体的な人として見つめ、その日のその人の意向や状態に沿いながら対応していくこと。それは、介護の原点に立ち戻ることであり、そこから個々の人に沿ったケアが自ずと生まれてくるはずだ。」
その通りだと思う。介護施設は、病院とは違うのだ。例えば、認知症という病名を付して利用者を一括りにしてはならない。一人一人が違う「個」という有様であることを忘れてはならないからだ。
さらに、著者は、小竹雅子の著書に触れながら、介護保険の問題点を析出していく。「介護報酬の決め方」を、「複雑怪奇なものに」して、「事業者を混乱させ、介護職の離職を増大させ、制度の行く先を五里霧中にさせている」と断じていく。「全体を把握するのは中央のシステムだけ」だと著者は述べているが、それは、介護保険も税収のひとつだという考えが中央政府のなかではじめからあったからだといっていい。真摯な論述から離れてしまうかもしれないが、介護保険の収入がすべて介護関連に還元されるとは限らないということがわたしの思いにはある。
本書では、本論を挟むように、「序」と「結」が置かれている。そして、どちらにも、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」という二つの物語作品を取り上げられている。「結」では、次のように著者が述べていることに、わたしもまた、同意したい。以下、引いてみよう。
「この世界に唯一の「正解」や「解決」はないかもしれない。でも、この世界には無数の「解」がある。小さいかもしれない。不十分かもしれないが、無数の解がある。それに拍手喝采してくれる人もいる。そう感じさせてくれるからだと思います。超高齢社会の福祉や介護や社会保障に、唯一の正しい道などありえません。そうした中で、通常の道とは逆の、とても困難な選択をしても、きっとそれを理解して「大当たり!」と大喜びしてくれる人がいるのだ。そう信じさせてくれるのです。」
わたしたちは、個々それぞれという多様性のなかにいるから、生き方もそれぞれみな違うのだ。それを一括りにしようと考えた時、様々な破綻がやってくるといっていい。だから「唯一の正しい道」という固定化した考え方は捨てるべきなのだ。
わたしもまた、「無数の「解」」を求めていくことにしよう。
(「図書新聞」20.6.13号)

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2019/9/14
堀 慶末 著『鎮魂歌 REQUIEM』
(インパクト出版会刊・19.5.25・四六判・256頁・本体1800円)
改元と天皇継承の前に執行されたとしか思えない、昨年の教祖麻原らオウム事件受刑者たちへの一斉処刑(死刑執行)は、許し難い暴挙だといっておきたい。不思議なのは、安倍政権の九条改悪や原発存続に反対という渦のなかから、死刑制度に反対という動きが、見えてこないということだ。凶悪犯罪をしたものには極刑を、という論理に正義があると思うのは錯誤だ。戦争や内戦の殺戮は、いかなる大義名分があるとしても、殺人以外の何ものでもないように、死刑執行もまた、国家による殺人であると認識すべきだと思う。吉本隆明は、「死刑制度には全然納得していない」と述べながら、「凶悪犯罪をやってしまったことが凶悪であるということと、その人間が凶悪だということはまるで違うことだと思います。(略)その場で凶悪になってしまうということは、誰しもあり得るわけですから、やったとたんに後悔しているということも、もちろんあり得るわけです。/その問題を人間的には解決していないのに、しゃにむに絞首刑にしなければいけないという感じがします」(『第二の敗戦期』)と語っている。
本書は、「現在上告審中で名古屋拘置所在監の死刑囚・堀慶末さんが、二〇一七年、第一三回「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金死刑囚表現展」に応募し、特別賞を受賞した作品」(深田卓「編集部より」)である。著者自身、手に染めた犯罪行為にたいし真摯に向きあいながら、被害者、遺族の気持ちに思いをよせ、「事件に関わることをできるかぎり書き綴って残そう」(「はじめに」)と考えて書き上げた渾身の手記だ。二部構成で、第一部「僕の罪」と題し、「生い立ち」を簡潔に記した後、関わった三つの事件を詳細に述べていく。そして、最後に終章として「現在の心境」を置いている。第二部は「煉獄の扉」と題して、シスターWからの来信十二通とシスターWへの発信の下書き一通、日記からの転載四篇、母への発信の下書き三通、次男への発信の下書き二通を収録している。「編集部より」に選考委員会の記録が掲載されていて、委員の何人かは、「手紙はすごくいい」と絶賛している。わたしは、第一部の記述に圧倒され、第二部に対しては幾らか留保したい思いがないではない。だから、以下、第一部のみを評の対象としていく。
著者は七五年四月、岐阜県で、「在日朝鮮人の父と日本人の母の第五子五男として生まれ」る。その後、名古屋に移るが、「小学校に入学する直前」に、両親が離婚。父の借金と浮気が原因だ。「やっとの思いで手に入れた家」を手放す。父は「幼なじみで親交のあった暴力団組長から盃を受けて組員となり、やがて自分の組まで持つようにな」る。中学を卒業後、定時制高校へ進学するも、一学期の途中で辞めてしまう。四兄の仕事を手伝いながら、やがて十八歳になる直前、三歳年長の女性と交際、妊娠したことで結婚する。二人の男子(在監中、手紙をやりとりするのが次男だ)の父になるが、他の女性と親しくなり離婚。その後も、何人かの女性と交際していく。
碧南事件は、九八年六月に起こす。遊興費が嵩み、借金が増え、返済に窮して仲間と三人でパチンコ店に入り売上金を盗もうとし、店長の自宅で待機して店長から店の鍵を奪おうと計画する。しかし、自宅にいた店長の妻を仲間が殺してしまう。子ども二人は殺さなかったが、帰宅した店長を三人で殺す。結局、鍵も手に入らず計画は頓挫した。
「必死に働くしか道はなかったのかもしれませんが、さし迫ってくる期日に冷静さを狂わされたようでした。そして、とにかく短期間で百数十万をつくらなければいけないという気持ちが犯罪に手を染める自分を想像させ、頭のなかで具体化していきました。」
百数十万の借金を返済するために、パチンコ店の売上金を盗むという気持ち≠ェ様々なことを醸成していき、冷静に思考することを遮断してしまったことになる。
守山事件は、〇六年七月に生起した。碧南事件の仲間の一人とともに、一人暮らしの六十九歳の女性宅に強盗に入り、傷害を負わせる。
この二つの事件が露呈しないまま、〇七年八月、「闇の職業安定所という、いわゆる闇サイトで知り合った」二人とともに起こした千種事件は、三十一歳の女性を深夜拉致し、「現金数万円とキャッシュカードなどを奪った上で、カードの暗証番号を訊きだして」から殺害するという悲惨な行為だ。しかも、結局、暗証番号が合わず引き出すことができなかった。この事件の主犯格の男は、一審で死刑判決を受けたが控訴せず、一五年六月、死刑が執行された。『鎮魂歌』の執筆は、そのことと大いに関係しているはずだ。
「遺棄したあと、神田が遺体に向かって手を合わせていたので、それを見て僕も手を合わせていましたが、神田は僕が声をかけるまで、数分間ずっと手を合わせたまま動きませんでした。(略)いま思うと、その数分のあいだ、神田は神田なりに、暴虐のかぎりを尽したような行為を反省し、あるいは後悔し、糸原さんにお詫びしていたのだと思います。」「車に乗せられ、自分は捕まったんだと理解すると、恐怖と絶望の深さに虚脱感を覚え、やがて不思議な安堵感に包まれました。」
吉本が「凶悪犯罪をやってしまったことが凶悪であるということと、その人間が凶悪だということはまるで違うことだと」述べることの深層が、ここには溢れている。深田卓たちが「一一年に行なった確定死刑囚アンケートに」、神田は、「私は人殺しですが鬼ではなく人間です。それだけは忘れないでください」と答えたという。
(「図書新聞」19.9.21号)

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2019/7/13
遠藤織枝・三枝令子・神村初美 著
『利用者の思いにこたえる 介護のことばづかい』
(大修館書店刊・19.3.1・四六判・144頁・本体1400円)
介護保険制度を導入して、新たに多くの介護施設が急造されてから二十年近い時間が経過したことになる。最初期の頃、知人が入所したため何度か訪ねていったことがある。介護する側の人たちが、入所している人たちに対して、幼児に話しかけるように接していたのを見て、驚いてしまったことをいまだに鮮烈に覚えている。長い時間を有する生活過程を歩んできた人たちにたいする敬愛を抱くことなく、見下しているかのような態度に見えて仕方がなかった。いまは、もうそんなことはないと思うが、接し方(つまり言葉の発し方)は、介護施設に限らず、どこでもどんな時でも大事なことであると思う。
本書は、「介護現場で働いている」人たちに向けて書かれた本だ。しかし、「ことばづかい」というものは、人と人が接するどんな場所でも誠実に使われるべきことである以上、親や自分自身が、どう接せられて好感を抱くことができるのかと考えながら、本書を手に取って読み通してもいいし、自分が介護する側になったとして、しっかり対等な視線で話しかけることができるだろうかと考えながら本書に接してもいいかもしれない。
介護する側と利用者(入所者)の間が、「心地よいことばづかいの行きかう場になってほしい」という思いから、共著者たちは「2015年から2016年にかけて、介護を受けている人とその家族にお願いしてアンケート調査をし」て、そこから、さまざまな「声を現場に届けなければならないと考え」、本書を著したと、「はじめに」で述べている。全体を5章に分けて、「敬意を表すことば」、「傷つくことばづかい、伝わらないことば」、「オノマトペを上手に使う」、「わかりやすく話し、わかりやすく書く」、「利用者の気持ちに寄り添うには」と題されて構成している。
「介護を受けるお年寄りの多くは、(略)何も訴えないけれども、何も思っていないわけではない。長く生き抜いてきたという自負、自尊心はあります。(略)年配の人にはていねいに話すのが基本です。」「要は、ことばづかいの問題ではなくて、心づかいの問題なのですね。」(三枝令子)、「足腰が弱って普通には歩けなくても、子どもではありません。波風の多い世間を80年も90年も生き抜いてきた人生の達人です。幼稚園児扱いなんてとんでもないことです。」(遠藤織枝)
自分たちは、親たちとは長年の付き合いで知っている間柄だから、つい厳しく接することはあっても、他者(介護する側)が、ぞんざいに扱ったり、子どものように扱うと、いやな気持ちになるのは当然だ。本人がどう感ずるかということ以前に、介護する側の人たちも大変な過重のなかで仕事をしていることを認めた上で、やはり、「年配の人にはていねいに話」してほしいし、「幼稚園児扱い」はして欲しくないと、家族の側が思っていることを理解すべきだと思う。
「オノマトペを上手に使う」とは、どういうことだろうと一瞬考えた。本書では、「はい、もぐもぐ……ごっくん!あー、ぺーしてください。ぺーです」という例示があって、「介護のオノマトペは、基本的に利用者の動作を促すために使う『ことばの道具』ととらえる」(神村初美)と述べている。確かに、あれこれ言葉を連ねてみても、伝わらない場合が多々ある。オノマトペは、「介護のコミュニケーション」を円滑にすることを可能にすると見做していいと思う。
「記録のことば」とは、介護記録に記される「ことば」のことである。そこで、例えば、「徘徊」といういい方が問題になっている。
「認知症の人自らの発言もあって、『徘徊』ということばを見直そうとする動きもあります。(略)たとえば、『ひとり歩き』とか『道に迷っている』という表現にしています。ある施設で『徘徊』を使わないと利用者の家族に説明したところ、『迷惑な存在ではなく、大事にしてもらえている安心感がある』という感想があったそうです。」(三枝)
そもそも認知症ということに対して、様々な偏見と思い込みがあり、「徘徊」はある意味、差別用語といってもいい。わたしは、次のような捉え方に全く同意したい。
「認知症になると何もわからなくなるということが言われます。そんなことはありません、人は認知症になっても、元の自分に戻る瞬間もあるし、以前と変わらない感覚、感情もあります。」「認知症のあるなしにかかわらず、ひとりの人間として相手を大切に思う、そういう姿勢がことばにも表れますし、ことばをかけられる人の気持ちを穏やかにします。」(三枝)
結局は、介護施設であれ、病院であれ、そこに集まる人たちに上下関係といった目に見える懸隔があるのではなく、対等な関係があることを忘れてはならないのだ。
(「図書新聞」19.7.20号)

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2019/5/18
石山春平 著『ボンちゃんは82歳、元気だよ!
――あるハンセン病回復者の物語り』
(社会評論社刊・18.10.5・四六判・224頁・本体1700円)
ハンセン病、つまり、らい病患者たちは、感染するという理由で、かつては隔離され、コロニーのような場所での生活を長い間、強いられていた。それは日本の対応が諸外国に比べてみれば大きく立ち遅れたものであったからだ。そもそも、差別の構造が、あたかも共同体にとって必然のこととして在り続けてきたのは、天皇という貴種の存在が大きかったといえる。もちろん、貴種の存在性などというものは、幻想的なものでしかなく、差別ということ自体、人が人を差異化するための観念の所産でしかないのだ。
ハンセン病について焦点を絞ってみるならば、本書の巻末資料「ハンセン病隔離政策 日本と世界の比較」は的確に日本の後手、後手の施策を露呈させている。
一九三〇年、「国際連盟らい委員会(バンコク)開催 ハンセン病は、公衆衛生問題の一環として予防・治療すべきであり、ハンセン病患者の隔離は必要ではあるが唯一無二の方法ではないとした」。三一年、「癩予防法制定 ※これにより、日本中のすべてのハンセン病患者を、療養所に隔離できるようになる」。四三年、「アメリカでプロミンがハンセン病治療に有効と発表」。五三年、「国際らい学会(マドリード)で、治療薬の発展により感染の恐れのない患者の終生隔離を認めないことを確認」。同年、日本では新「らい予防法」制定、「癩予防法」を一部作り直したものだが、基本的にはなにも変わらず、隔離生活体制は持続。九六年になって、「らい予防法」は廃止。〇一年、ハンセン病違憲国賠訴訟勝利判決。
著者は、もちろん訴訟の原告の一人である。
著者・石山春平は三六年、静岡県に生まれる。四七年、小学六年生時に発病、自宅の納屋で五年間過ごし、神山復生病院で十五年間、「強制収容」というかたちの療養生活の後、六八年、社会復帰する。七〇年一月、結婚。
このように、簡潔に述べただけでは、著者・石山春平のことはなにもわからない。
「ああそうだ、くよくよしたり、辛いつらいって思っているけれど、こうなったら開き直ろうと。その時はうすうす、らい病って聞いていたからね。(略)長生きしてやろうと思ったの。僕が長生きすることは、石を投げたり、罵声を浴びせた人への復讐になる、みたいな気持ちもあったの。それで、(略)療養所に入るのを決意しました。」
「療養所で僕は『ボンちゃん』て言われて」いたという。「納屋に一人でいる時、父親が、可哀想だと思っ」て、『明星』や『平凡』をよく買ってくれたのだ。その時のものを療養所に持って来て読んでいた。やがて療養所の仲間が、「『平凡』ばかり読んでるからボンだ」と呼ぶようになったのだという。後に妻となる女性(三八年生まれ)とは療養所で知り合う。彼女は患者ではなく、賄い婦として働いていた。
「春平さんは、人懐っこい青年で、いつも首からカメラを下げて、そのカメラで写真を撮って、自分で現像して焼いて。それを全部独学でマスターしたと。それだけの信念を持っているひとなんだと思ったら、メロメロとなって、糸の切れた風船になりました。」(本書、[補]石山絹子の回想「神山復生病院を退所した青年と連れ添って」)
ボンちゃんと仲間に呼ばれていた著者。カメラを独学でマスターしたことを「信念を持っているひと」と認めた女性。その二人が出立して、始まった生活は、「社会復帰」といった画一的なことではなく、あらたな暮らしの始まりであり、二人の再生ということになる。そして、子ども三人に恵まれながらも、苦闘は続いていく。
わたしが、なによりも本書の中で強く印象に残ったのは、著者と父との最後の往還をめぐってのことだ。父親の葬儀に行きながら、妻と一緒に旅館で待機していたという。知らない弔問客に会わせられないということだ。そして、淡々と回想していく。
「療養所には年に一〜二回やって来た。川崎で所帯を持って暮らし始めた時にも来てくれた。あの時、兄貴に内緒で二百万持ってきたの。昭和五〇(一九七五年)に亡くなったから、前の年の四九年かな。(略)『お前も一人前になったから、とにかく、身体だけは気をつけて、夫婦仲良くやれ』って言って、『お前はいい嫁もらって、俺は嬉しい』って言ったよ。」
もちろん、当事者本人は、辛いのは当然だが、家族親族も同じように辛苦の中に置かれる。ハンセン病が、いわれのない観念で在り続けたことの宿運は、もう無化させなければならないと思う。
(「図書新聞」19.5.25号)

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