「沖縄から、列島(ヤマト)の〈現在〉を撃つ――『沖縄野次馬≠フ遺言』を読む」
所感雑感
わたしは、“日本”という呼称を避ける意味で、“この国”、“わが国”といういい方をしてきたのだが、なにか釈然としない思いから、“列島”と称するようにしている。もともと、国家とか国といった概念、カテゴリーに対して根柢的な疑義を抱き続けてきたから、地理的認識、つまり、俯瞰からの視線をとる時に、視えてくるものがあるはずだと考え、北海道から九州、そして、南西諸島群までを含むものとして、そのように捉えてみたかったのだ。
ところで、薩摩藩による簒奪に始まって、薩長政権によって擬装された近代天皇制支配(明治近代天皇制は万世一系ではなく、断絶しながらも、あり続けてきた係累を浮上させたものに過ぎない)、沖縄戦そして敗戦、米帝統治を経て、象徴という新たな擬装天皇制下に復帰するという琉球・沖縄のひとたちにとっては、本土(ヤマト)という捉え方で、天皇制国家との時間―空間における差異性を明確にしてきたといえる。“ヤマト”という視線は、当然のことながら、大和王権から擬装し続ける天皇制というものをバラドキシカルに見做していていることなのだが、琉球王朝という独自の王制の歴史を有する沖縄にとって、ヤマトの天皇(あるいは天皇の軍隊)は異貌の簒奪者でしかないということになるはずだ。
「風景としてのヤマト一高い富士山は、遠くから眺めるとほんとうにきれいな山である。(略)遠景のきれいな富士山でも、やはり下界のヤマト資本主義の不条理や、自民党政治の国民不在のゆがみ、腐敗などの社会体制とが、まったく無縁な存在ではありえないパノラマのごとき、この国の明暗二つの顔をそこに見る思いがしたからに他ならない。/あたかも、それは復帰後の沖縄においてよく言われてきた、『沖縄からヤマトの姿がよく見える』という、島社会マイノリティな自己主張の発想とも重なるものがあってか、地元では一種の流行語となって広く使われてきた。(略)あえてもう一度『沖縄からヤマトの姿がよく見える』との、沖縄サイドの視点を自己流に論ずるならば、それは戦後沖縄がいつまでたっても、米軍基地の根本解決策が見えないことへの県民のいらだちから、平和憲法下のヤマトに対する不満、不信が混在した感覚的心理から出た、ヤマト政府の異議申し立てだと理解している者だが、ただし私の場合は、三十年の東京生活の体験から、ヤマトの実情をも直接知ることができたのに加えて、逆にヤマトサイドから『沖縄の姿がよく見える』―立場の席にいた因果から、割合クールで両方に等距離において判断ができるかもしれない。」(「遠景としてのヤマト社会」―『人民の力』2001年1月1日)
十六年前に記された著者の文章だが、実態は、まったく変わっていないことに、あらためて驚く。その間、民主党政権の時期はあったが、この政権が崩壊したのは、まさしく官僚と官僚の背後に絶えず貼りついているアメリカ政府の力(その象徴が辺野古移設問題なのは明白だ)によるものだった。そのことが、露呈したことは唯一の成果というべきかもしれない。
わたしは、先の安保法制をめぐって、大きな抵抗と対抗的な渦動が生起したことを否定するつもりはないのだが、安保法制は憲法九条違反だ、立憲主義を否定するものだという論調には、与したくはない。ならば、敗戦後の沖縄の現実(それは、現在でもあるのだが)を、彼ら彼女らはどう考えているのかと問いたいからだ。憲法の上位概念にある日米安保条約とそれに付随する日米地位協定への疑義がまず前提だと、わたしは、真っ先に思う。日米安保条約がまるで空気のような状態に見做して、九条論議をするのは空無でしかない。著者が、「平和憲法下のヤマトに対する不満、不信」という時、日米安保条約並びに日米地位協定による圧制を沖縄にだけ押し付けているという暗喩だと、わたしは理解したといっていい。
長い時間に渡る著者の苦闘の表明が充満した本書に接して、あらためて、それらのことを強く感じたといえる。つまりの沖縄の〈現在〉とは、わたしたちひとりひとりの〈現在〉でなければいけないということだ。
本書のなかで、わたしが特に共鳴・共感したことにフォーカスしてみるならば、著者が見事に、敗戦後から近年までの日本共産党の有様について、その暗部を切開していることだ。
かつて、「上野広小路の交差点で日本共産党の宣伝カーが『小沢一郎はファシズムである』という幟を立て、盛んに宣伝活動をしているのを見た」と、吉本隆明が「わが『転向』」(『文藝春秋』94年1月号)という文章のなかで記していた。二十数年後のいま、小沢と日共のトップは蜜月時代を築いている。誰もが想起しえなかったことだが、わたしは、党是の改変と党名変更がないかぎり、日共に対して、信用はできないと思っている。
「(略)『いま、平和憲法を問う=日米開戦五十周年シンポによせて』を『琉球新報』(1991年12月4日)へ寄稿し(略)、三十四名の発起人による公開シンポジウムへの参加を呼びかけて、琉球新報社と共同で開催した。/そこで戦争体験だけでなく、民衆の加害者責任問題も提起したら、社会・共産党系の党員や労組員たちから『人民を加害者扱いするのは許せん』と、シンポ会場に参加しての討論でなく、個人をターゲットにした妨害行為のバッシングを受けた。しかし革新政党員らは目先の現象を捉えて批判するだけで、国家権力が民衆を総動員した無謀な侵略戦争が悲惨な結末の『敗戦』となった後、帝国政府と軍部戦犯組が国土荒廃の裏面で『敗戦』用語を封じ込めて、民衆が『終戦』の公用語で安堵するように洗脳工作普及で、天皇崇拝の依存病に感染させて保守勢力基盤温存の謀略に着手しながら、一九五〇年の朝鮮戦争に中谷坂太郎という若い海上保安職員を米軍支援の極秘任務で派遣して、死亡させている事実がある。/ところが、革新政党員らはこういう策謀を把握せず、民衆へ冷静に実相を判別できる情報伝達を疎かにして、単眼思考で当方を非難中傷して公開シンポを妨害するから、総選挙で有権者の多数が革新政党候補を選択支持するシステムを確保できずに、毎度惨敗して自民党長期政権の継続を許して、民意無視の悪政にズルズルと引き込まれて、今日の安倍ファシズム的政権誕生による危機状況へ追い込まれていることだ。」(「まえがき」)
「敗戦」を、「終戦」に書き換え、8月15日に天皇が登壇するセレモニーを見るにつけて、わたしもまた、毎年、憤りを覚えずにはいられないし、「民衆へ冷静に実相を判別できる情報伝達を疎かにして、単眼思考」で物語ろうとする擬似左翼たちには、いまさら、なにも期待していないといいたい。
徳田球一(1894〜1953)は、周知のように戦後再建された日本共産党の初代書記長であり、亡命先の北京で客死したわけだが、沖縄・名護の出身である。著者は、『徳田球一全集』の刊行に関わっている。ゾルゲ事件に連座して、獄死した、アメリカ共産党員でもあり画家でもあった宮城与徳(1903〜1943)もまた、名護の出身者であった。戦後、ソ連のスパイというレッテルを貼られ閑却されてきた宮城に関心を抱き、名誉回復の活動に関わっていく。やがて、宮城の元夫人の証言記録に接し、宮城の誠実な人柄を知り、さらなる思いをもって活動を進めていくことになる。
著者は、徳田、宮城の二人に沖縄という場所を出発点として、抵抗と対抗する生き方の旅をしたと捉え、彼らへの敬愛を率直に表明していく。それは同時に、自らの孤独の闘いを慰藉してくれる存在としてあるのではないだろうかと、わたしなら思わざるをえない。
「徳球が戦前・戦後の動乱期を通じて、人間にとっての極限状況の中で行く手に立ちはだかる国家権力へ、それでも屈せずに民衆救済、社会変革などをめざす開拓者として、戦前は治安維持法で逮捕されながらも非転向で獄中十八年間をがんばった。さらに出獄した戦後は、民衆の中において精力的に行動したのが理解され、それが強い支持の輪をひろげて、全国的にいつしか『徳球』『おやじ』などの愛称で尊敬を受けてきた。」(「『徳田球一』否定・党派の確執の民衆の見方」―『記念誌 徳田球一』所収、二〇〇三年三月刊)
「(略)宮城与徳を取り上げるということは、あの暗黒な軍国主義下においてあれだけ自分の信念をもって非戦平和のために、そしてインターナショナルなスケールの大きい軌跡を残した、その人の生きざまの発掘ということもあるんですが、同時に私は、日本における自由と民主主義の日常の機能回復の基本問題とも関連してとらえています。」(「宮城与徳とゾルゲ事件」―『宮城与徳遺作展 那覇展報告集』所収、一九九一年九月刊)
徳球も与徳も、理想主義者ゆえに歴史的時空間のなかで犠牲者になってしまったのだと、わたしは捉えている。戦後の日共の路線対立・権力闘争は、著者も指摘しているように、共産党が、そもそもスターリン・コミンテルンの肝いりで創立されたことからくる歪みだ。ゾルゲ事件は、与徳や秀実も非戦を目指しアジアの平和を希求したのは確かだと思われるが、結局、ソ連のスターリン政権に都合よく情報を吸い上げられただけだと、わたしなら理解する。
著者は、自らを、“野次馬”だと称しているが、本書を通して伝わってくることは、「世直し活動」という理想を希求し続けている著者の〈像〉だと、わたしはいいたい。
※大峰林一著『沖縄野次馬≠フ遺言―現実直視の追跡調査で記録―』(フォレスト刊・15.10.1・A5判・240頁・本体2200円)

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投稿者: munechika
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