
このたび新潮社より文庫版として発行された「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を購入しました。
連載時や単行本を通じて何度か通読していますが、手ごろなサイズでまた読ませていただきます。
もちろん木村政彦先生は「埋もれていた」と言われるような無名の人物では全くないのですが、評伝として賞を取り文庫化までされるのは、この作品が起こした奇跡を感じざるを得ません。

高校時代、木村先生は自分にとって健在する憧れの柔道家となりました。
きっかけは「わが柔道」。
数年後には「グレイシー柔術に勝った男」仕様として改訂されましたが、こちらの初版本こそが当時の柔道部員のバイブルでした。
序文で、登山家・植村直己氏の遭難に関して触れた一文「悔いはあるまい」は、自分の周りでちょっとした流行語になったものです。

さて、木村先生が亡くなられて20年以上が経ちました。
直接に試合や稽古をされた方々も、多くが鬼籍に入られたことと思います。
その中で母校柔道部OBの島津久厚先輩は、95歳の今も郷里宮崎でお元気に暮らしていらっしゃいます。
「生麦事件」などで知られる島津久光公の曾孫にあたられる先輩は、牛島辰熊先生に大変可愛がられた、いわば木村先生の弟弟子でもあります。
写真は2年前の一月、母校の寒稽古納会にてご一緒したときのものですが、この際には昔日の貴重なお話を伺う事が出来ました。
拓大において牛島先生と木村先生による、道場の外に転げ落ちながらも続く寝技乱取をご覧になったこと。
木村先生との乱取で下から返すことに成功し、「やった!」と思った次の瞬間には関節を取られていたこと。
後年、「俺は力道山に負けたからね!」と木村先生が豪快に語られていたこと、など。

島津先輩は、戦後の全日本柔道選手権大会で木村先生と激闘を展開した慶応大学卒・羽鳥輝久選手と学生時代にはライバル関係にありました。
写真左、木村先生の大外刈りを「クサビ」で凌いでいるのが羽鳥選手。
初対決では体落としで「技あり」を先取したものの、小内刈りで「技あり」を取り返されての引き分けであったそうです。
約80年の時を経て、「羽鳥には勝ちたかったな・・」と回想されていました。
また、部員不足で実現しなかったものの母校での高専大会出場も視野に入れて稽古され、後には木村先生らとともに「高専柔道技術研究会」の委員にも名を連ねておられます。
直接お会いしたことはありませんでしたが、木村政彦先生という存在からは、ざっと考えてもこんな風に思い出が溢れてまいります。
繰り返しますが「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」、改めて噛み締めてみたいと思っています。

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