例えば大阪府民は横山ノックを知事にしたことがあり、大阪府民=愚民論というのが一定の説得力を持ったわけであるが。
で、俺もまたなんであんなヘイトスピーチの一発芸しかない、倫理も正義もない、いじめっ子がそのまま大人になったような薄気味の悪い狒狒爺に投票する奴がそんなに多いのか、東京というのは田吾作の巣窟かよ、と思ったわけで、ここで東京都民=愚民論が台頭するのはある意味、当然の流れであるような気もするのだが、そおゆうことゆうててもあんまり意味ないのであって、狒狒爺が支持されてしまう構造というものを分析せんといかんのである。
俺らのようにしょっちゅうインターネットやってると、ネットウヨの方々と遭遇する機会も多く、その人々は当然にも狒狒爺支持であり、ああなるほど、狒狒爺はこういう人たちに支持されて再選されているのか、と思いがちなのであるが、よく考えればそんなはずはないのである。どう考えても、彼らもまた「痛々しいマイノリティ」であるのであって、彼らの奇矯なヘイトスピーチで280万票も集まるわけもない。
80年代までのオードソックスな分析では、選挙の帰趨を決定付けるのは「利益誘導」であった。利益誘導がなければ立ち行かない地方部では、利益誘導のパイプを一元的に握る自民党の圧倒的な強さがあり、それに対して、そういった利益構造から切断された「上京者」が多い都市部においては、「労働者階級の利益を代表する」と考えられた、労働組合中心型政党、あるいは既存の共同体を離脱し、新たな共同体を立ち上げるということを指向する新宗教政党が強い、という分析が一般的であった。
で、この十数年の間、呼号された「構造改革」とは、このうちの自民党型利益誘導と、労働組合の既得権を破壊する運動であったわけだ。
それは日本全土の「都市化」、いや、実態としてはまったく都市化は進んでいないのだが、選挙民の自己認識としての都市化が進んだ、という流れのなかにあるものだ。
この要因としては、メディアの発展、離れた土地にいながら東京の選挙をわが事のように考えなければならないようなレベルで、コミュニケーションの手段が増大し、「田舎に住んでいる」ということがそれほど決定的なことでは無くなってきたという事はひとつあるだろう。
またひとつには、誰もがあらゆる利益構造から切断されてしまったということ。
今や、大金持ちも、労働力を搾取して利益を得るという形ではなく、投資信託などを買って、よくわからない構造で沸いて出るお金を得ているというような、奇妙な構造のなかにいる。
そういう中で、今や我々の誰もが都市住民であり、田吾作であるという奇妙な構造となっている。
矛盾が集中して現れているのは、例えば民主党だろう。あの党のわけのわからなさは、この奇妙な構造の反映である。
で、残存したのが、「新たな共同体を形成していく」という方向性の創価学会である。創価学会の異常な強さは、「構造改革」では破壊されなかった結果である。共産党の、階級政党からイデオロギーカルト型政党への転換も、この構造に対応しようとして出てきたものである。
んで、その利益構造から切断された人々が、「無党派層」と呼ばれているわけだ。
選挙の宣伝として「無党派層を代表する」というようなことがやたらと呼号されるわけであるが、元来、この「無党派層」を新たな共同体として立ち上げていく展望も、「無党派層に共通する利益を代表する」事も事実上不可能である以上、これは幻影であるしかない。
狒狒爺への支持は、この層を捕まえたことに由来する。
んでだな、この層をどうやって捕まえたか?
へんてこな「リーダーシップがある」というような幻影や、その話法(話法がどれだけ大きな意味を持つかということは、小泉が示したとおり)、雰囲気の醸成の技術、そういう話はもろもろすでに他で指摘されている。
学校における、「いじめの政治」という話を、誰だったかがしていた。いじめをやる側は、その標的を見つけ、そこに力関係を形成していく、そのなかで教室全体の力関係が、その構造に対してどのような位置取りをしていくのかで形成されていく。
つまり、多くの人々が、「いじめる側に回る技術」を教育されている、という状態が、こういう惨状を生んでいるのではないか?
これまでは大人になることで、「大人の判断」というものが生まれ、それが解決してきたことというのはたくさんあるわけだが、その「大人になる」ということが機能していないのではないか。
というようなことを考えてみたので書いておく。
なんか破綻した文章だが、おいおい考える。

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