例えば我々が考える、今回の都知事選挙の争点は、「ファシストの支配を終わらせる」ということである。だがしかし、当然にも、他の人々にとってはそうではない、というようなことも起こる。
では、「他の人々」は何をこの選挙戦の焦点、「獲得目標」として設定しているのか?
日本共産党のこの間の動きは、「理解しがたい奇怪な行動」として見なされている。
普通にはこの日本共産党の行動の根拠は2種類しかないとしか思われないだろう。
1.日本共産党は選挙という制度のしくみを理解していない
2.日本共産党は石原慎太郎の再選を望んでいる
なぜ、あえて現職の再選という最悪の事態を招きかねない分裂行動に出ているのか。なぜ、正面の敵ではない浅野候補を主敵であるかのような言動にでているのか。そして、当選の可能性がまったく存在しないにもかかわらず、なぜ、独自候補での選挙戦をおこなうのか?
都知事選挙で言えば、前回の選挙では共産党候補者は34万票。その前は66万票。石原慎太郎は300万票とっているのだ。
つーかそもそも、社共共闘が崩壊した70年代後半以降、日本共産党は、ほとんどすべての選挙に候補者を出すということをしている。
2005年の総選挙では、没収された供託金が約7億3100万円、当選者9名。
(
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/takahasiopera.htm による)
なにが悲しくて、こんなわけのわからないことをしているのだろうか?
われわれは、普通は「選挙に立候補する」ということは、「議員になる」「首長になる」ということを目的としている、と考えている。しかし、世の中には、「政治宣伝のために選挙を利用する」という考え方がある。
例えば「日本愛酢党」というのが92年に出たが、これは「酢が体によいことを宣伝するために出た」のである。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6451/92sangiin_hirei/seiken/aisu.html
愛酢党はともかく、選挙に立候補することで、宣伝カーを使う、ポスターを貼る、ビラをまくといった宣伝ができる、これがために選挙にでるという事がある。
そしてもうひとつ、選挙を経るということが、「組織固め」につながる。
運動員を動かすことで、そしてその運動員が人々に接触することで、組織が組織として機能するようになる。この組織を稼動する状態を維持するということのために、選挙という儀式を「目的」として設定する。
で、この宣伝、組織固めの運動の、「本番」は、例えば今回で言えば、今年の7月の参議院選挙である。東京で言えば、東京は4人区、そのうち3人は自民党公明党民主党が押さえる。4人目を共産党が、社民党だの国民新党だの自民党の二人目だのと争うことになる。
つまりは、今回の都知事選挙は、日本共産党にとっては、「予行演習」として位置づいているのである。
この選挙が、日本共産党という都内で数十万票をもつ大組織によって予行演習として位置づけられるということが、どれだけわが国の民主主義にとって危機的な結果をもたらすかということは自明のことである。然るに、日本共産党は、ファシストを止めることよりも、自らの組織を延命させることを選択した。
これは歴史によって裁かれることだろう。
とりあえず日本共産党は「国民が主人公」という民衆を欺くコピーは今すぐに廃棄し、「党組織が主人公」に書き換えるべきであろう。
追記
全く不勉強なことで申し訳ない。
参議院選挙の東京は5人区となり、そして川田龍平が無所属で立候補する事を表明しており、そして日本共産党は「川田隆平批判」をもう始めているのだそうだ。
手回しがいいといえばいいような気もするが、そもそも薬害エイズの時に川田さんを御神輿にしていたのは、日本共産党の諸君が中心になっていたわけであり、それがなぜこういうことになってしまうのかというマジメな反省会をする方が先ではないのかと強く思うものである。

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