ふたつの寓話があると思いねえ。
ひとつは、ある帝国主義植民者が、「なまけものの原住民」に、労働の美徳について説教たれるという話である。
「君たちはもっとマジメに働くという事をしなければならない。働かないからそんなのなのだ」
「マジメに働くとどういういいことがあるんだ?」
「生活が楽になる。週に一度は休みを取れるようになる」
「週に一度しか休めないのか?」
「もっとマジメに働くと、もっと休みも取れるようになるさ」
「もっとマジメに働くとどうなる?」
「もっと休みがとれて、ついにはあまり働かなくてもよいぐらい休みもとれる」
「・・・・・それって、いまとどう違うんだ?」
もう一つは寓話どころか、先日、ニュースで流れていた話だ。
「オレオレ詐欺」の元締めをやっていた人が捕まった。
この人は「統括社長」と名乗り、1000人の「社員」を抱え、100箇所以上の「店」と称する拠点を持ち、毎月1000万円のノルマを課し、グループごとに「売り上げ」を競わせ、3年で100億円を「売り上げ」ていた。
「勤労の美徳」についての話をしようとしているわけだ。
某所で、なんかあっさりと「怠け者はイクない!」みてえな話が同意されていて、「ええ?そんなんでいいの?」とちょっと衝撃を受けたのである。
俺自身、できれば「ああ、天井のあたりからバラバラっと、ゼニが降ってこないもんかななあ」とかいって寝て暮らしたいという希望を強く持つものであり、可能な限り、労働などというつらくて悲しい事はせずに済ませたい、という種類の人間である。俺が、明日の朝から、「ああ、もおええわ」とか突然言って、朝からビール飲んでケツ掻いている状態に「ならない」とは全く限らない。いやむしろ、なぜこれまでそうなっていないのかがよくわからない。
・・・・生々しい話はちょっとイヤなので、寓話に戻ろう。
前の話の方は、毎日平和に寝て暮らしているおっさんが、「マジメな労働」という事そのものについての疑問を突き付けてしまう、というオチだが、その突き付けられる奴も、そもそも植民地の奴をだまくらかして働かせて、自分はハナクソほじくって寝て暮らしたいからこそ、遠い植民地にいって必死でハッタリこいているわけである。このおっさんは、自分自身も信じてはいない「美徳」を、うまいことゆうて人にやらせようという腹なわけだな。
んで、後の方は、なんつーか、「労働のパロディ」なわけである。
「詐欺の営業電話」をせっせとかけるという労働。
しかし、我々は、名簿を見て、金を借りませんかとか広告出しませんかとか小豆の先物やりませんかとか未公開株買いませんかとかマンション買いませんかとか、そおゆう電話を延々とかけ続けるという「仕事」が存在している事を知っている。俺の職場にもすんげえ頻度で掛かってくるし、「ちょっと忙しいので」とか言って切っているうちはなんどでも同じところから掛かってくる。
そおゆう「営業の電話掛け労働」と、「オレオレ詐欺の電話掛け」とは、作業行程としてほとんど同じであるとゆう事は、容易に想像できる。
そして、「店事に競わせる」とか「ノルマを課して」とか「統括社長」とか、そおゆう様式って、本当に俺らのなじみの深いものだ。中途半端にでかい「サービス業」で働いた事のある人はホントにヒシヒシと「この感じ」はわかるだろう。
この「オレオレ詐欺会社」は、俺らの生産様式をまるまるパロディにしたものだ。
でな。
話があっちいったりこっちいったりするが、サヨク的な立場から出てくる「勤労の美徳」的な話って、労働価値説が基盤になっていると思うんよ。
「商品の価値」とは、その商品に加えられた労働の価値である。
マルクスさんの言い方では、例えば羊の刈った毛が1000円とする。
で、その毛でつくった背広が一万円だとする。
「なんで九千円も高くなっているや」というと、それは毛から背広にするまでテマヒマ掛かっているからだ。そのテマヒマの労働のぶんが、九千円なんや、という話である。
つづく

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