「将来に起こる事を予測する事のできる超能力」というものをもった人、というとなかなかいないが、我々は別に超能力を持っていなくても、将来に起こるであろう事が予測できる場合がある。
例えば、「水戸黄門」を観ている場合、8時45分頃になれば角さんだか助さんだかか印籠を取り出して「控えおろう、このお方をどなたと心得る」と発言しているであろうという事が予測できる。
これは、我々自身の経験の蓄積によって、これから起こる事を類推しているわけである。「水戸黄門の結末が予測できない状態」は、ある意味、毎日が新鮮で楽しいと言えるだろうが、ある意味ではアホである。水戸黄門は毎回同じ結末に至る事による「様式美」を視聴者は楽しんでいるのであって、「ええっ!このジジイがえらい人だったのか!」と、悪代官と一緒になっていちいち驚いているようなのは、楽しみ方として間違っているのである。
んでだな。
もんのすごいバクゼンとした話をあえてするし、わかんない人はわかんなくていいし、むしろわかんない方が幸せだよというようなたぐいの話であるわけだが。
むかしむかし、左翼といえば社会党と共産党しかなかった頃、「この闘いが敗北したのは、社共の指導部が裏切ったからだ!」と言った人たちがおりました。「指導部の裏切りを暴露する」事によって、「真の労働者階級の正しい前衛党を作ろう」という事で、多くの人を組織する事に成功しました。
で、この「成功の経験」は、手順化されます。
1.社共総評と一緒に××闘争を闘う
2.××闘争が敗北する
3.「××闘争の敗北は、社共指導部の裏切りの結果だ」という総括を出す
4.「裏切りの責任」を突き付ける事により組織的に伸張する
この手順が、十年一日の如く、あるいはアホのひとつ覚えの如く、延々と繰り返される事になったのです。
で、ここで疑問が出てきます。どう転んでも、最終的にはまるで助さんが印籠を出すように、お決まりのパターンで指導部が裏切るのであれば、なにが悲しくてそんな裏切る奴と一緒に運動しなきゃならんのか、という問題です。
だけど、一緒に運動しなきゃ、「裏切りが弾劾できない」のであり、「もう最初から裏切るような奴なんかとは一緒にやらねーよ」みたいなのは「ハミダシ分子」と名付けて否定されます。(ハミダシ分子の正しい語源はここなのでありまする)
で、時代は一挙に50年ほど下ります。
今日に至るもなお、この人たちは「××指導部の裏切りを弾劾」というようなビラを撒いていたりするのでありました。
で、本稿はそういったアホのひとつ覚え的なあり方に対して、なにかモノを申すなどというような趣旨ではありません。アホはなかなか治らないのであり、50年間も治らなかったそれを治そうと試みるような義理も冒険心も無いのです。
問題は、50年間も、十年一日の如く撒かれてきた「ナントカ指導部を弾劾」というようなビラに対する反応であります。
大昔の、社共や総評がナントカ闘争に対して闘うような事があり、それがマジに世間的に受容され、で、幕引きが用意されるというような日々においては「指導部の裏切り」も一定の説得力がありました。然るに今日、そもそも闘うような「指導部」と見なしうるような主体がとっくの昔に売り切れになっているような状況においてはどういう事になるのか。「裏切り」もなにも、最初から闘っていないわけで、まあそれは極限的な裏切り状態である、と普通の日本語では読めるわけでありますが、それを弾劾する為には、ある程度闘っていてその上での裏切りでないと、いくら弾劾しても「そんなん最初からわかってる事やんか」というような塩梅で、弾劾する甲斐というものが全くないわけであります。
むしろ、「こんなけしからんビラが撒かれていた!」とかいって、「指導部」的部分が召還する為の理由を与えるためのものにしかならないのです。
だがしかし、ひとたび「手順化」されてしまったものを変更するのは、「新機軸の水戸黄門」を打ち出す事のように難しいのです。
で、イラク反戦運動の終息期に、ナニガシ派によって××指導部の裏切りを弾劾というようなビラが撒かれました。実際に未だにイラクではドンパチやっており自衛隊もイラクに行っているわけですが、すっかりすれてしまった私は、ナニガシ派の「指導部弾劾ビラ」を見る事によって「終息期」という季節を感じるのです。
長い前説を経て、ここからが本題です。
ナニガシ派のこのアホのひとつ覚えのビラが、会議で問題になりました。つまり、そんなわけのわからんビラで弾劾されてしまったところの人が、市民運動と労働運動の結節点となっているところの会議に、そのケツを持ち込むわけです。で、両方の当事者が不在のところで、これが問題になるという。そこで私は発言しました。
「ナニガシ派が運動の終息期になんかの指導部を弾劾するビラを撒くというのは、夏になったら暑くなり冬になったら雪が降るのと同じ、単なる風物詩ではないのか。そもそもそんなもんを会議で問題にするようなものなのか?単に『ああもうそんな季節なんですね』という話に過ぎないのではないか」。
それに対して、ある労働組合の古残活動家の説明はこうでした。
「こういうのは、運動の中で経験化していくというのは重要な事なのだ。ナニガシ派はそもそもこうなんだと言ってみても、結局のところは経験化されない。」
なるほどなあと深く納得したわけです。
やはり水戸黄門の様式美は、水戸黄門を何度も繰り返し見る事で受容されるのであって。
んで、なんというか。俺らも、「こんなんはあいつらいっつもやってる事やんけ」というのではなく、その事態をきちんと説明するような回路が必要なのであるなあ、というような事を考えたわけであります。
4トロ2次会
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アッテンボロー
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旗旗
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あたりで展開されている、「内ゲバ話」に関連して、思い起こした次第。

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