某所の基調的な事を書こうとしたら、ヨッパらて書いたのでぐちょぐちょになってしまたので、こっちでリサイクルします。
グローバリゼーションの世の中と言われ続けて久しいわけでありますが。
80年代にアホなサヨク学生であった俺らがしていた議論というのはこういう具合です。
中心的な問題は「国家」であった。
多国籍企業がグローバルな展開を遂げていくなかで、国家というもんはどういう事になっていくのか?
資本は倫理なき怪物なのであって、日本という国の利益とその資本自身の利益のどっちが大事や、ゆうたら、その資本の出もとがどこの国であるとかに関わらず、きっぱりと「ワレの利益が大事です」というのが、新自由主義的な資本主義の世の中というものである。
で、天皇代替わりが89年にあり、天皇制の逆襲というような事態が生じました。
そこでは「天皇制=国家」という前提の元で、天皇制に帰依するような報道がなされ、「自粛ムード」というものが、まさに「ムード」として生成されるという事態に私たちは遭遇した。
「これはなんであるのか?」という問いであったわけです。
俺らの当時していた議論はこうです。
生まれた時から「ああ、私は日本人、おぎゃあおぎゃあ」とか思っている奴はいないわけで、それは成長する過程の中で、いろんな教育やイベントや諸々の文化的装置を通して「日本人」というアイデンティティを付与されて、「ああ日本に生まれてよかったなあ」とか言う人間が出来上がるわけで。
これを「ナショナルアイデンティティの付与」とゆいます。んで、こういうアイデンティティを国が政策としてせっせと付与するような装置をこさえ、そこでそういうイデオロギーを個人に注入する、これを「国家のイデオロギー攻撃」とゆいます。
で、このイデオロギー攻撃の最大のイデオロギー装置としての天皇制を復権させる事で、国家という枠組みの復権がはかられようとしているのではないか、というような事をゆうとった、80年代末であったわけです。
で、いまはどういう事になっているのか?
アルダンティ・ロイというインドの作家が紹介していた話ですが、インドの田舎に都会から活動家が行って、田舎のおっさんを「グローバリズムの世の中」という話でオルグしようとした。で、インドの百姓のおっさん、なかなか要領を得んわけですが、突如理解し、「あ、要するに東インド会社がまた帰ってくるのか?」とゆった。
「インドのおっさん、うまいこといいよるなあ」と感心したわけですが、実にインドの百姓のおっさんは事態の本質を言い当てていたのではないか?
9.11以後の、アメリカが好き放題に戦争を仕掛ける体制、これを俺は、「近代国家の終わり」どころではなく、まさにレーニンがいっていたような帝国主義の時代に逆戻りしたのではないのか、と見ました。しかし、事態はそれどころではなく、東インド会社が活躍していたような時代に逆戻りしたのではないのか?
かつては軍事力をもった軍勢が、世界中で跋扈して、自らの利益に従って戦争や略奪をしていたわけですが、その中で近代国家というもんが生まれ、で、戦争は「国家の専有物」となっていった。国家が行う戦争が正規戦であり、それ以外の主体が行う戦争は非正規戦であるとされ、周縁化されていった。
しかし、このイラクの戦争では、戦争企業が登場し、国家から発注を受けて戦争に従事していたりするのですな。また、ブッシュ政権の閣僚の多くが、戦争絡みの企業のエライさん出身であったりして、ブッシュ政権そのものを死の商人が担っているという状況ですらある。
こういうのって、我々が考えている近代国家の前提からは大きく逸脱するものであるわけです。
で、例えばフランスのシラク政権なんかは、「共和国」という事をゆって、近代国家の前提を取り戻そうとする動きをしている。教育なんかの非宗教化ということをいい、イスラム教徒のベールを禁じたりしているわけですが、一方でブッシュ政権とキビシク対峙し、一定、我々の目にはマトモに見える動きをしたわけです。
こういった状況下での、帝国主義本国有象無象たる俺らはどおゆう立ち振る舞いをしていったらええんかしらん、という問題を考えやなあかんのかなあ、と思う今日この頃。

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