音楽をやる人の殆どはコピーをするだろう。オリジナルはしない人もいるかもしれない。でも、コピーをせずにオリジナルをしてる人はいないと思う。
いたらすまん
アマチュアバンドでよく見かけるのが、ろくにコピーも出来ない状態のままオリジナル曲をしようとするバンド。
俺はありだと思う。
オリジナルの質はコピーの量に比例する。
人間と同じで、様々な人生経験を積んでる人間は人間性も深い。曲にも同じ事が言えると思う。
その一方で「コピーをし過ぎるとオリジナリティーが無くなる」という意見を耳にすることがある。
その意見は半分当たっていて、半分外れている。
音楽が生まれて以来、それこそ星の数程の曲が生み出されてきた。そんな現代において、完璧なオリジナリティーを求めるのは非常に困難だ。よっぽどの天才なら可能かもしれないけど、大体そんな才能の有るオリジネーターなら音楽なんて言う使い古されたジャンル自体に興味を示さないだろう。
人がオリジナルを作るのには多かれ少なかれ「人に聴いてもらいたい、そして出来れば気に入ってもらいたい」という欲があるはずだ。ならば個性を研くことも大切だけど、音楽のツボを探すのも同じぐらい重要なはず。
音楽のツボとは、人が曲を聴いたときに良さを感じれる、メロディーでありコードでありリズムであり詞であり、ようするに魅力全てだ。
そのツボの場所は偉大な先人達が、名盤と呼ばれるCD(レコード)に記してある。我々はそれを利用しない手は無い。
しかし、その名盤と呼ばれるCDからはツボの場所をそう易々と読み取ることは出来ない。曲をコピーして間違えずに演奏出来るように成った程度では足りないのだ。その曲を何千回も聴き、何千回もプレイしないと見えてこない物だから。
話を戻す。何故、そんな大事なコピーをすっとばしてオリジナルを作るのが正しいのか?
ここで間違えてはいけないのは、コピーからオルジナルに移行するのでは無く、お互い平行してやるのが良いと言う事。
さっきも説明したようにコピーすることはプレーヤーにとって大切な事、生涯コピーをし続けても良いと思う。
では何故、早い段階からオリジナルを作るのがいい事なのか?
”コピーをろくにしてない段階で作る曲はクソだ。そしてコピーを散々した後で作る始めての曲も等しくクソだ。” by クソゲーマー
何故だろう?
曲を演奏するのにはテクニックが必要だが、それと同様に作曲にもテクニックが必要になる。
作曲のテクニックと演奏のテクニックは全く別物。いくら演奏技術を上げても作曲技術は根本的には上がらない。
作曲技術を研くには、やはり実践するしかない。つまり曲を書くしかないのだ。
始めに作る曲はクソだ、それその物には何の価値も無い。だが、そのクソをひり出す行為には価値が有る。くる日もくる日も気張り続け、気付いたら出現していた巨大なクソの山、その中からクソ以上の価値を持つ曲が出来るのだ。
コピーばっかりしていて、オリジナルをさっぱりやっていなかった人間が、一発目から良いクソを出そうとすると問題が起こる。どんなにがんばっても、ケツの穴から覗くのは明らかなクソ、慌ててケツの穴を閉じるが、何度繰り返しても無価値なクソしか顔を出さない。当たり前の話だ。そんなクソはとっとと排出して流してしまえばいい。
絵描きが一枚目から名画を描ける訳が無い。どんなに有名な画家でも最初の頃に描いた絵など汚物以外の何物でも無いだろう。
クソをひり出す行為の中で二つ重要なことがある。一つは「
出したクソの色、臭い、形、量を確認する」もう一つは
「一度出しかけたクソは切らずに最後まで出せ」だ。
そのクソ自体に価値は無いが、そのクソが何故曲に成らずクソになってしまったのかが分かるかもしれない。そうすれば無価値なクソを出して後でもケツの拭きがいがあると言う物だ。
みんな恐れずにクソをどんどん出そう、そして他人に自分のクソを見して、その反応をみよう。鼻を摘んで逃げられたら、そのクソは水に流せば良い。
「クソと共に去りぬ」だ

0