5月5日は子供の日、祝日である。
「子供」に対する「大人」としての立場を意識してか、大手新聞各紙は「子供への接し方・あり方」について社説で語っているようだ。
だが、昨今の報道姿勢の体たらくを見るにつけ、それら「大人の言葉」はとても空虚に響く。何も報道の分野に限った話ではないが……
「こどもの日に―白鳥も君も同じ命なのに」(朝日新聞社説)
「こどもの日に―おじさん、おばさんの出番」(同上)
「こどもの日 目と目を合わせて話そう」(読売新聞社説)
「こどもの日 大人はもっとお節介になろう」(毎日新聞社説)
「こどもの日 鏡に「親像」映してみよう」(産経新聞社説)
個人的に酷いなと感じた順に並べてみた。
内容について個別に細かく触れることはしない。
リンクが残っている限りにおいて、そちらを参照されたい。
・朝日新聞
死刑廃止論の先鋒であるところの朝日が、先日の光市母子惨殺事件の死刑判決を踏まえて「命の尊さ」をアピールしているのではない事を願いたい。
もしそうであるとしたら、これほど醜悪なまでに「子供」と「生命」をダシにした論説はないからだ。
そうでないとしても、では「なぜ命は大切なのか」「それなのになぜ人間は他の動物を食べたり殺して生活しているのか」等をきちんと矛盾なく語れるのか。少なくとも私にはできない、そこには人間のエゴと矛盾を語らずして通れぬ壁があるからだ。
「命の尊さ」を語るということは、ある意味で人間のエゴに触れることでもある。それを無視して、通り一遍の「いのちだいじに」だけで話を済まそうとすれば、必ずや手痛いしっぺ返しを受けるだろう。
2番目にしても、いわゆる「おじさん、おばさん」世代の人間が例えば国会でやらかしている右往左往のお遊戯もどきを見て、子供が親の世代を頼ろうという気になるものかと思う。
後に触れる産経の社説と対極にあって、その意味では面白い。
・読売新聞
現代人のコミュニケーション能力不足をインターネットに責任転嫁する、活字メディアとしては極めて情けない論説。
直接顔を合わせていようがいまいが、その先に「同じ人間がいて、同じようにものを感じる」という事を教えるのは日頃接している親兄弟や先生・友人達である。媒体の差を「想像力」という人間独自の武器で乗り越えられるからこそ、今の情報化社会があるのだ。
福田首相は、先日の補選での応援演説で高齢者医療制度に触れ、負担増を正当化する言い訳に終始したそうである。結果、応援演説後にそれまで優勢だった自民候補の支持が急落、民主候補に敗北した。
十分な想像力を持たない人間は、直接会話してもろくな対話ができない。相手を慮る能力に欠けるからである。まずは何よりも、そこからではないのか?
・毎日新聞
こちらもネット批判型の論説。活字メディアとしてのプライドなど、シェア侵食に対する危機感の前にはかなぐり捨てるという事か。
読んでいて失笑を禁じ得なかったのは「小さくとも不正は看過しない、という「お節介」な姿勢」を見せよう、というくだり。
ならば報道機関がこぞって、4/26の長野トーチリレー(もはや「聖火」ではあり得ない)において「中国人の不法や暴力の数々」を警察・政府・マスメディアともども「看過」したのは何故か。同じアジア(といつもマスゴミは言う)の隣国チベットで、50年続く大虐殺を見て見ぬフリするのは何故か? 「お節介」な姿勢とやらはどうした?
口だけの「大人」になど、子供は信頼を寄せてはくれぬ。それだけの事である。
・産経新聞
別に私が右寄りだからというわけではないが、こちらの社説はまあマシなものではないかと思う。他社と違い、「子供を鏡として己を省みよ」と「大人に向けて提言」している点が好ましい。
今の世の中、まず何よりも「大人」の側こそがだらしない。政治も経済もマスコミも、模範となるどころか己の欲のために自己の権力を使って憚らぬ。これでは、子供達もそういう方向をよしとしてしまいかねぬ。
産経も前述の長野トーチリレーの件では多少なり同罪だが(フジTVに意見できる程の力が無いのかもしれないが……)、「まず大人が範を示せ」というのは筋論であり正論である。あとはそれをいかに実践するかではあるが。
自社に都合の良い「報道の自由」ばかりを行使するようになって久しいマスゴミ。
彼ら「欲望に忠実な大人」が、今後も「子供」達を汚し続けていくのだろう……何とも陰鬱な未来像である。
我々に出来る事は、「そういう大人はダメなんだ」という認識を少しでも広め、また自身が実践していくのみ。
万事に「是々非々」であれ!