渡辺清、田中訥言、山本梅逸と江戸時代末期の尾張の画家たちを調べてきた。まだまだたくさんの画家たちがいるが、尾張の「山車」の「水引」の下絵の作者として名前が出てきた森高雅について調べてみた。
森高雅は、寛政3年(1791)名古屋鉄砲町(現在の大須観音の北西にあたる)に生まれた。大和絵・浮世絵師。通称は右門。初め玉僊と号し、別に蝦翁菊亭・素堂・三光堂・紫川亭等の号がある。伊藤圭介、沢田眉山と同じ寺子屋に学んだ。(圭介は高雅より12歳年少)。最初吉川一渓に画を学び、続いて中林竹洞に南画を学んだ。さらに後、牧墨僊に浮世絵と婦人画を学んで声価をあげた。
その後一家を開いて、専ら浮世絵婦人画を描いた。多くの門生が入門したが、門生に教える際に階級を設けた。始めて入門する者には、朱や紫色などの彩料を使用する事を禁じ、一定の修行を積むと朱の使用を許可した。さらに修行を積むと紫の使用を許可するという具合である。その昇級毎に免許料を課し、また画号の一字を譲って名を授与する時にも、定額の認可料を課したという。いわゆる家元制度を作って蓄財したようだ。その面では評判がよくない。
高雅は、天保5年(1835)、土佐光孚(とさみつたね)の門に入り、画風の改良に努めたが、俗調を脱することができなかったようだ。しかし晩年には土佐光貞 の門に入り、古土佐の遺風を慕い、有職故実の学も極め、大和絵を加味した風俗画に妙を発揮している。
天保12年(1842)に『尾張名所図会』前編7巻が成立し、天保15年(1845)に出版されているが、その挿図は森高雅と弟子の小田切春江が担当している。その内、35葉(全体の12%)は高雅が描いている。高雅の作品には、力作が多い。(なお『尾張名所図会』後編6巻は、明治13年(1880)、小田切春江が独力で完成させ出版している。)
高雅は、生涯に住居を何度か替え、鉄砲町、呉服町6丁目、横三蔵町本町東入る北側、さらに呉服町1丁目にも住み、元治元年(1864)74歳で没した。諡は釈法林。墓碑銘は「翁森高雅之墓」である。

『七美人踊り之図』

『美人舞之図』


「花鳥図屏風」熱田神宮宝物館蔵 春は、“梅樹と鶯”、“日の出と松樹上の双鶴”。秋は、“紅葉と神鶏”、“菊花と鶉”。

新出来町の「鹿子神車」の水引 孔雀の刺繍 森高雅下絵

筒井町の「湯取車」の水引 猩々緋に雲龍の刺繍 森高雅下絵

『尾張名所図会』森高雅が描いた「織田備後守犬追物を見る図」

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