江戸時代後期から明治にかけて名古屋の画家たちを調べてきたが、最後に高力猿猴庵(えんこうあん)を取り上げて、ひとまず区切りをつけようと思う。
高力猿猴庵は、本名種信、幼名を八之助、長じての通称を新三という。著作にあたっては、本名のほか猿猴庵・艶好・吾遊叟・都鹿斎などの号を用いたが、猿猴庵が最も頻繁に用いられた。江戸初期から尾張徳川家に仕えた高力家の七代目にあたり宝暦6年(1756)南園町で生まれた。藩士としては、天明5年(1785)に父与左衛門種篤の知行300石を引き継ぎ馬廻組に配され、寛政4年(1807)に大番組に転属、文化4年(1807)に自ら出願して馬廻組に戻った。明和9年(1772)、17歳の時から没するまで、一生を著作活動に費やし、市井の出来事を綴った日記のほか、百種を越える絵入り本を遺した。また、藩の重臣や上級家臣、学識者たちと交流する一方、当時の本屋や貸本屋の依頼による著作活動も行った。猿猴庵最大の特色は、絵も文も共によくした、画家兼文筆家であったということである。天保2年(1831)76歳で没し、門前町総見寺に葬られた。
代表作は『尾張名陽図絵』、『尾張年中行事絵抄』、『熱田祭奠年中行事図絵』(名古屋市蓬左文庫所蔵)など。また現在、名古屋市博物館が、「博物館資料叢書」として「猿猴庵[えんこうあん]の本」をシリーズ化して刊行している。『画誌卯之花笠』、『絵本清洲川・続梵天錦』、『笠寺出現宝塔絵詞伝』、『御鍬祭真景図略』、『新卑姑射文庫』、『東街便覧図略』、『北斎大画即書細図・女謡曲採要集』、『御鍬祭真景図略』などが既刊の作品である。

アネハヅル 『姉羽鶴之図』 高力猿猴庵画自筆 国立国会図書館蔵
江戸時代にツルの類はそれほど珍しくなく、江戸でも目に触れることができたようである。ただ、このアネハヅルは稀な渡り鳥であったうえに、胸の長い羽毛や目のうしろに伸びる飾り羽などが美しく、たいへん珍重された。この個体は文政4年 (1821) 6月に尾張で捕獲され、9月に将軍家斉に献上されたものである。その時に、猿猴庵が記録した絵である。
*参考 国立国会図書館の「描かれた動物・植物−江戸時代の博物誌」は大変面白い。
http://www.ndl.go.jp/nature/cha3/index.html

名古屋市博物館が刊行した猿猴庵の『東街便覧図略』は、熱田(宮)から品川までの名所・名物を絵と文で綴ったものである。成立年代は寛政7年(1795)頃と考えられている。

『東街便覧図略』の内扉に、猿猴庵の描いた当時の民衆の姿を配している。


「池鯉鮒(ちりう)」の次の「牛田」の図。大豆煎茶屋の図。文中に「ちゃァまいと まめいりまいれ」という言葉が書かれている。


「赤坂駅」。遊女たちが「おとまりなさらんか」と呼びかけている。


「吉田宿」。「名物 合ほくち おろし 江戸や源右衛門」“ほくち”とは竹輪のことである。

「オーロラの図」 高力種信著 「猿猴庵随観図会」 1778年頃 国立国会図書館蔵

名古屋市博物館が刊行した『新卑姑射(しん ひごや)文庫』。『猿猴庵日記』で江戸時代後期の名古屋見世物事情を概括し、『新卑姑射文庫』で見世物小屋を追体験する企画本である(「卑姑射」とは「日小屋」とも書き、常設でなく仮設の小屋を意味する)。絵が実に楽しく、見世物そのものは材質やスケール、構成が具体的に判るように、また、それを見て楽しむ人々の姿、風俗、やりとりも描かれている。文章も洒落やユーモアたっぷりである。頁構成は実際の見世物を巡る様に展開され、当時の見世物の世界を具体的に知ることが出来る。

「見世物の会場」『新卑姑射文庫 初編』記載の籠細工見世物が行われた盛り場メッカ「七つ寺」境内の絵図。

猿猴庵が、この見世物小屋で最良、「生けるがごとし」と評する象の細工 。
葛飾北斎が、文化14年(1817)10月5日、西本願寺別院の境内で120畳敷大の大達磨絵を描いたイベントを記録した自筆本『北斎大画即書細図』。

北斎が名古屋滞在中に描いた「大達磨画」は現存しないが、猿猴庵が残した模写で当時の画の様子を知ることができる。

御園通りの南、南園町の高力家。その南に水谷家があるが、ここが、以前取り上げた伊藤圭介の師である水谷豊文の家である。
水谷豊文
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伊藤圭介
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