中央線の朝の通勤時間帯で事故やトラブルが起きると、わずかな遅れでも電車の車内の混みようは相当なものになってくる。
ある日のこと、ちょっとした「信号機」の故障により電車が少し遅れた車内でのことである。
10両編成の車両は中間で連結しており、運転手がいない先頭車両がある。
この日はどの車両も、車内は通常の混み具合からして150%くらいの状態になっていた。
男も女も体がピッタリくっ付いてしまうのではないかと思うほど混んできた。
電車が揺れるたびに、しっかりとつり革や手摺に掴まっていないと人の重みで倒れてしまうような状況であった。
ひとりの女性が、運転席のすぐ後ろのコーナー付近に位置していた。
その女性を取り囲むように、一人のラフな格好をした男が手摺を掴んでいた。
その男は、自分の両手で手摺に掴まり、体全体をUの字にして男の体の中に女性をあたかも守るような格好で取り囲んでいた。
女性は、囲まれるような状態になり、身動きひとつできない状況であった。
満員状態を口実に、男が女性の背後に体をピリッタリ寄せてきたのである。
最初は確かに満員状態をカバーしてあげるようなつもりであったのだろう。
しかしながら、今のこの状態をいい事に、よからぬ行為にエスカレートしてきたのである。
やがて終着駅ひとつ手前の駅に到着した。乗客が一斉に降りはじめた。
そんな周りの状態に気付くことなくその男は女性を囲んだままにし、女性を身動き取れない状態にいつまでもしていた。
回りにいた他の乗客も、その状態がいかにも不自然のように思っていた。
和人は乗客が降りはじめて、始めてこの状態を目にしたのである。
女性は明らかにおびえていた。
声も出せないようで、顔は下を向いていた。
和人はその女性に近づき、声を掛けた。「あの、お知り合いなのですか?」
女性は声を出すこともできず、ただ顔を小さく横に振るだけであった。
和人はその男に声を掛けた。「知り合いじゃないようですね。」
男は無言のまま、女性を囲っていた両手を離し、和人をにらむように顔を向けた。
この隙に、女性はこの駅が降りる駅であったのか、急ぎ足で電車を降りていった。
和人はその男に言った。「痴漢みたいなことは止めろ!」
和人とその男は、数秒間にらみ合いが続いた。
和人はいつ異常事態が発生するかわからないため、いつでも緊急事態に対応できるようにと、常に身体を身軽にしているのである。
両手には荷物を持つことなくフリーにしておく。
メガネは危険なため一切懸けず、時計も重たい物をはめず軽いものにしている。
臨戦態勢は万全である。
そんな和人の姿勢に怖気付いたのか、やがて発射のベルがなり始めたとき、その男は急ぎ足でホームに降り、女性とは反対の方向に足早に歩いていった。
和人は、「朝から満員電車で、嫌なことをする奴がいるもんだ。」とつぶやいた。
甲野善紀の暮らしのなかの古武術活用法