日本という国は、当たり前のことを言っただけでも問題になることが時々ある。↓
国歌に不起立教員 知事「辞めるしかない」 埼玉
「憲法で保障された思想信条の自由を侵害する」といった批判が出ることは必至やろう。
だけど、日本の将来を担う人間を教育する立場の人間にとって、もっと言えば公務員という身分であるのなら、こんなことは当たり前やと思う。
卒業式シーズンになると、いつもこの手のニュースが出てくる。
ただ、この問題の性質が悪いのは、国歌斉唱をするかしないかというのが出世のための材料となっており、出世のためだけに歌っている輩も多いということ。
ちなみに校長や教頭は仕事ができるからなれるわけではない。日教組に入っていないといけなかったり、とりあえず国歌斉唱をしているかどうかなど、目立たないように主張しないように生きてきた人間がなるもんなんや。
ついでやから、今日は未婚子供なしの僕が考える教育について書こう。
よく「教育が日本をだめにした」という言葉を聞く。
”ゆとり教育”がその犯人とされるのなら、僕は大賛成や。
学習内容を大幅に削減するなどというのは、愚の骨頂でしかなかったということは僕の世代を含めて、歴史がしっかりと証明したやろう。
ところが、その犯人は個性を大切にしてない教育やなんて言われたら、僕は首をかしげてしまう。
学校はあくまで学習するところである。
個性を伸ばすだとか協調性を身につけるだとかは付随的に偶然付いてくる特典でしかない。
日本人として最低限身につけておかないといけないというものを訓練して身につける場である。
身につけるべきものには、当然愛国心もある。右翼と言われようと危険思想やと言われようと、どうでもいい。これから日本の将来を担う世代が日本を愛せないという未来は見たくない。
そういう意味で、国旗掲揚、国歌斉唱で起立できないような教師はやめるべきやと思う。
そしてあとは、読み・書き・そろばんや。
頭の柔らかいうちに頭に入れるべきやと思う。それが将来何の役に立つかとかはどうでもええ。そんな大人じみた考え方は百害あって一利ない。
やると言ったらやる。社会には理不尽がつきものであって、それに耐える体力も当然必要となる。
「ロボットを作るつもりか」「子供の限りない個性や可能性を壊す気が」なんていう声が聞こえそうや。
わざわざ人間をロボットにしなくても、ロボットに期待される能力や役割は既に本物のロボットが担っているし、これからその分野は広がっていくやろう。
個性や可能性なんてのは別に子供に限った話ではない。大人の鏡である子供の無個性を嘆くまえに、我々大人がどれほど個性的な生活ができているのか、またそういう人間をどれだけ許容できているのかを考えた方がええ。
そもそも個性なんてのはわざわざ社会がシステムとして伸ばしてあげれるような土壌を作る必要なんてなく、それは親や地域の大人が携わるべきやし、遅かれ早かれいずれ出てくるやろう。そもそも本来は個性のない人間なんていないはずや。
いい個性も悪い個性もあるし、そんな個性の伸びは肉体の成長以上にナイーブで、そのスピードもタイミングも人それぞれやろう。
小学生のころからその才能が開花する人もいれば、年寄りになってから日の目を見る人もおるし、死後になってから再評価される人だっている。
自前のアンテナを持ち、それを張り続けることを怠らなければ大丈夫やろう。
学校はあくまで公のための場であり、そこは本当の意味での日本人を育てる場や。
そういう意味で、国旗掲揚や国歌斉唱のときに起立できないとか、自国の歴史を正しく教えられないとか単に知識がないなどという、思想や能力において指導力不足だとかいう人間は、教育に携わるべきではないと思う。

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