「足利事件」で無罪が確定的となった菅家利和さんが釈放された6月4日、事件当時に捜査を陣頭指揮した元栃木県警幹部(75)のブログに批判コメントが殺到し、「炎上」状態になったという。
「謝罪すべきだ」「自白強要が最高最善の捜査なのか」「人の人生をメチャメチャにした責任を取れ」といったコメントが1000件以上殺到したらしい。
冤罪で17年間も拘留されたということは、あってはならんことではある。
賠償などに関してはこれから国が対応していくことになるんやろう。
こういうことが起こるから、推定無罪という裁判の原則をしっかりと守らないとあかんのやと思う。これで既に死刑が執行していたりもしたら…(東の足利事件、西の飯塚事件というのがある。これは同じDNA鑑定で既に死刑が執行されている。彼も最後まで無罪を主張していた)
ただ、炎上させるほどバッシングしている人たちには非常に違和感をもつ。
冤罪について、推定無罪について、頭ではなくもっと芯の部分で理解できているんやろうか。
聖書にこういう言葉がある。
「まず罪のないものから、その女に石を投げろ」
あまり好きな言葉でもないけれど、極端に残酷に個人攻撃へと走る日本の名もなき声の大合唱を見ていると、よくこの言葉を思い出す。
本人たちは正義の側に立っているつもりで、悪は抹殺すべきと思って言っているんやろうけれど、菅家さんが逮捕されたとき、DNA鑑定の技術がまだまだ未熟だったということを理解し、冤罪の危険性を感じていたんやろうか。
あるいは、この事件に限らず容疑者と逮捕された人を、常に「いやいや罪が確定したわけでもないし、捜査に不備があるかも知れんから」と、あたかも既に罪が確定した罪人として見ていないやろうか。
そうは思えない。
逮捕された→火のないところに煙はたたん→何かやっていたに違いない→こいつが犯人や→こんな罪を犯すなんて、厳刑が必要や
といった感じの思考回路の人がほとんどなんじゃないかと思う。
そうでないと、テレビや新聞などなどのいろんなメディアで、”容疑者”の段階から実名報道で顔まで出すという異常な現象が自然と行われるわけがない。
罪が確定したと思われていた事件ですら、こうやって冤罪が起こるんや。そうなれば容疑者として逮捕されたところで、本当にその人が犯人かどうかなんて全く分からないはずや。そして、濡れ衣が晴れたとしても既に実名報道がされた社会に、その人が戻る場があるのかどうか。
容疑者の実名報道は、推定無罪という基本理念を有名無実化する、所詮は大衆の野次馬根性を満足させるためだけという極めて無知でグロテスクで低俗で悪趣味な行為なんや。
容疑者として逮捕すれば、世間はその人を犯人と決めつけて個人バッシングで騒ぎだす。
慎重にしようと捜査や裁判が長引けば、世間は税金の無駄遣いと警察や裁判所、ひいては公務員という身分や制度をバッシングして騒ぎだす。
捜査でミスがあれば、関与した個人をバッシングで世間は騒ぎだす。
何と危険極まりない国なんやと思う。

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