

竜宮島のソロモンの人格化に伴う島の防衛機能低下のため、フェストゥムの脅威はいっそう重大なものになった。ヒロイン生駒祐未の父は「竜宮島の一部を切り離しダミーと見せかけフェストゥムを迎撃し、アルヴィスやソロモンへの敵の襲来の時間稼ぎをする作戦」”L計画”の立案を進めていた。一方、生徒会長である主人公将陵僚は義務養育を前に大人たちの世界へ向かう生徒たちの送別会を行っていた。そんな平穏な暮らしの中、祐未は父の死の間際にアルヴィスとL計画のことをそれとなく伝えられる。父のIDを使いアルヴィスに潜入する祐未。そこには僚や果林がいて、島の秘密やファフナーのことなどすべてを聞かされる。それから祐未と僚はL計画へ参加する決意を固めていく。L計画では次々に仲間の命が散っていった。計画は続き、祐未の父が残した脱出通路が開き計画が成功し隊員すべてが帰還するまであとわずかのところまで来た。しかし、フェストゥムに阻まれ脱出艇は消滅。残された僚と祐未は竜宮島が敵に察知されることを恐れ、深海へ向かった。
蒼穹のファフナーというこの作品。過去にやっていたテレビシリーズを見たときから、少し「神道」の要素が組み込まれているなと感じていました。 フェストゥムが人間と一体化する描写は、神道でいう”すべてのものの存在はそれぞれ相互に変換可能であり、それぞれ循環するものである”という考え方に通じるものがあったし、乙姫が島と一体化する場面は、人間と神と自然の同一価値感である、生き神信仰(徳川家康が死後東照大権現という神として祭られたことなど)と似ている。さらに、フェストゥムが島のあらゆる物の中に存在している描写は、”すべてのものの中に神が宿る”という考え方と酷似しているからです。鎌田東二氏の著作「神道とは何か」という本が好きな自分としてはこの辺ピンときました。この作品のテーマは「存在(命)の有り様。存在の価値」といったところでしょうか。前作では総士が最終的に至った存在の仕方に対して主人公一騎が答えを見出す直前までが描かれていました。
今作の主人公の僚は自分の存在の意味にこだわり、またはその意味つくりにあせっています。彼は自分以外の者のその答えは、他人に必要される、または他人と関わることで自分の存在の意味をなしているんだと思っているようです。しかし、自分にいたっては、同級生は次々と大人の社会へ行き、自分の前から次々と居なくなるため、他人との関わりの中で自分の存在を確認することできない。僚は翔子や一騎が他人と関わり合いになれることに嫉妬していた場面があったことからもそれが伺えます。だから、その存在の意味つくりを翔子や一騎とは違い、戦いの中で見出そうとしたのでしょう。しかし、その考えに傾倒してしまい死に急ぐきらいが冒頭の段階ではあったように感じられます。
L計画へ向けた準備段階のなかで、僚は祐未に自分の胸のうちを悟られる。「最初から帰れないと分かっているのなら志願を取り消すべきだ」。祐未の言葉は僚の胸に深く突き刺さります。生きる意味にこだわるあまり、自分の、本当はもっと長く生きたい素直な気持ちをどこかへ押しやっていたことに気づきます。計画の半ば、祐未の父が残した脱出艇が現れ、その定員数から祐未の父が自分も含めて全員で生還することを考えていたことが分かります。僚の言葉「欲しかったのは生きる場所だ。死に場所なんかじゃない。」僚は次第に余命いくばくも無かった祐未の父と自分を重ねていく。計画半ばで仲間達の死に直面し、死に対してリアルな恐怖感を体験して生への意志を徐々に築いていった今の僚にとって、死に近づいていた祐未の父の気持ちが手に取るようにわかってきたのでしょう。
最終的に、僚は自分の存在の意味よりも今存在していることそのものへ価値を見出していったように思えます。祐未が竜宮島まであと一歩のところまで来て帰ろうとした時、それを制止した僚。僚は、もしフェストゥムを竜宮島に侵入させてしまったら、死んでいった者たちの意味がなくなってしまうと思った。それは死んでいった仲間たちの生きた意味を尊重するということでもあったのだと思います。ある人間の生きる意味、存在の意味を他人が守り築くこともできることの証明でもあります。深海で同化現象のためこの世から消え去る祐未を見送ったあと、僚は音声データを残し、アルヴィス本部へ情報と伝言を残します。僚は生きている者たちに自分の存在の意味を託した。それは僚が本当は望んでいた他人との関わりなのでしょう。自分の存在の意味を自分ひとりで築きあげるのではなく、他人と共有することもできるのではないか。最後、僚はそう悟ったように感じられます。
―終―

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