2012/5/25 12:00
2012年5月21日だから、つい先日のことだ。
本州では129年ぶりとなる金環日食が話題になっていた日なので、
その日のことはよく記憶している方も多かろう。
その日は早朝から仕事で、僕は職場の仲間数人とともにクルマで
移動していた。仙台から目的地までは一時間半といったところか。
それほど苦になる距離ではないが、現場までには県境の峠を越え
なくてはならない。
クルマは市街地を離れ、深緑眩しい山間の国道を走っていた。
早朝の美しい自然の風景は、連日埃と騒音の中で汗を流している
男たちの心を潤し、会話も弾みながら僕らは移動を続けていた。
すでにクルマは緩やかな上り坂にある。もうすぐ県境の峠だ。
そこにはトンネルがあり、それをくぐれば目的地は近い。
その時だ。
若い仲間の一人が急に無口になり始めていたことに僕は気づいた。
いつも饒舌な彼が会話に混ざることもなく、目を開けたまま足もとに
視線を落し身動きもしない。
「××、大丈夫か?」
異変に気づいた数人が彼に声をかける。
彼は嘔吐していた。
宮城、県境、峠、トンネル。
この辺りの人間で察しのいい人ならば、そこがどこかはもう見当が
ついているだろう。今はあまり聞かれなくなったけれど、その場所に
まつわる、古い、ある奇怪な噂についても。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
じつはこの場所でもう一つ、こんな経験をしたことがある。
だいぶ昔のことだが、その時も僕はこの道を友人と走っていた。
彼は東北の人ではなかったから、ここでの怪奇な噂は知らなかった
ろうと思う。たしかに夜は不気味な所ではあるが、そこはまだ怖れを
知らない若者だ。夜ごとのドライブが、それだけで楽しくてしかたない、
そんな年頃が誰にでもあったと思う。
その友人が、こんなようなことを言った。
「気味悪ぃな、ここ」
「なんか、嫌な感じがする」
ついでに言っておけば、僕らはこの程度の暗闇をドライブするのは
慣れっこだったし、そもそも暗過ぎて風景もよく見えないから、怖い
なんていうことはむしろない。
ただ僕にとって興味深かったのは、ここがよからぬ噂のある所だと
いう何の先入観も持たない人が、そういうことを言ったということだ。
そういうこともあるんだな、と。
当時すでに僕にとって、ここは散々通ったことのある道で、もちろん
怪奇な体験など皆無だったから、僕は噂に触れることもなくクルマを
走らせ続けた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
話を戻そう。
運転していた仲間の機転で、道沿いの少さな空き地に停まった。
よく知っている場所なので、僕は道の脇を流れる沢に降り、清流で
タオルを濡らすと、これで顔や服を拭けと彼に渡した。
聞けば、前夜ろくに睡眠が摂れなかったそうだ。
蛇行の連続で気分を悪くしたのだろう。男たちは落ち着いていた。
アクシデントには慣れっこの、冷静を失わない頼もしい男たちだ。
もう大丈夫だろうと思って、僕は周囲を見渡した。
時折通るクルマさえ行き過ぎれば、せせらぎと小鳥のさえずりだけが
響く美しい自然がそこにはあった。
かつてここに奇妙な話が伝わっていたことなど、もう遠い記憶だ。
事実、誰もその話題に触れない。おそらく、知らないのだろう。
僕たちがクルマを停めたすぐ近くに、かつて、この場所で不遇の死を
遂げた人たちのの慰霊碑や墓があることも。
僕もそのことには触れず、仲間の体調が回復するのを待った。
かすかに、若い頃の深夜のドライブでの経験を思い出してはいたが。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
さて、久しぶりに小さな旅に出ようと思う。
今回は少し変わった旅だ。
めざす場所には、大昔、女の幽霊が出たいう。
怪談にはまだ少し早いが、たまにはこんな話もよかろう。
女はなぜ峠に立ったのか。
さらに言えば、なぜ今は姿を現さないのか。
男の幽霊ならごめんだが、彼女にその理由を僕は訊ねてみたい。
おかしなヤツだと思われるだろうが、僕はそれが知りたい。
お目当ての女の幽霊に会えるかどうか。
このおかしな旅に、しばらくみなさんにお付き合いいただこうと思う。

0
2012/5/22 13:21
最近気になっている何人かについて書こうと思う。
それは僕のごく身近にいる人たちだ。だから彼らを知らない人には読みづらい内容に
なるかもしれない。そのうえ長くもなるだろう。
身近であること、彼らも音楽を愛していること、そこへの僕の思い入れもあるからだ。
もしかすると、本人たちにも決して読みやすい内容にはならないかもしれない。
僕という人間の主観が支配するからだ。しかし、彼らを語る中で僕という人間も、より
鮮明になるだろう。もちろん、そこには怖れもある。それを押して書くことにどれだけの
意義があるかはわからないけれど、とにかく書いておこうと思う。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昔、仙台は激しい街だった。
街中をトラックが行き交い、街のあちこちで昼とも夜ともなく工事が続けられた。
全国から労働者が集まり、繁華街はそんな男たちで毎晩にぎわった。
古い時代が新しい時代に変わろうとする瞬間、そんな時代に彼らは生まれた。
言い換えれば、時代は新しい価値観を求めていただろうし、混乱もしていたと言える。
そんな時代に生まれた者の匂いは、今でも彼らから感じることができる。
彼らのうち、一人の男がいる。
ここでは名前を「地上の稲妻」にしておく。稲妻は僕のアニキだ。
だから、彼の父親は古い時代の古い価値観の象徴とも言えた。
これはしかたのないことだ。けれど、根本的にはここに一切があったと思う。
当然、父子の衝突はある。これはどこにでもあることだったが、僕ら新しい世代の子に
とってはとても大きなことだったし、みずから解決していく力もなかった。
稲妻は18才で家を出た。
その後、僕なりに稲妻の人生を見てきたつもりだ。
そこで、稲妻はたしかに閃光眩しい輝きを放っていた。
僕はそれをうらやましく思っていたし、アニキが出て行ったことで父親との対決は毎晩
僕がやらされることになったから、おっくうな毎日を過ごしていた。
ところで、稲妻が故郷に帰って来た。数十年ぶりに。
男が故郷に帰ることの意味は重い。
それを稲妻はよくわかっていただろうし、だからあまり顔色は冴えなかった。
その期間はけっこう長かったように思う。
結論から言えば、稲妻はみずから何かを求めた。それはやっぱり音楽だった。
放っておいても彼がそれを求めるのはわかっていたが、僕は心配もしていた。
無意味な出会いや空回りはアニキを疲弊させるだけだと思っていたから。
なぜならアニキは音楽と言うより、共感できる人間との出会いをこそ求めていたように
思うからだ。稲妻が光るには嵐を起こせる存在が必要だ。
が、それはあった。しかも一人や二人じゃなかった。
そこを見る時、稲妻が逆に嵐を呼んじゃったような、そういうちょっとありえないものを
僕は見たような気もしている。すごいな。
稲妻については、アニキであるから弟としてはどうしても美化して見てしまう。
調子に乗ってくるとちょっとどうしようもない。放っておくしかない。
弟の前では抑制しようと思うだろうから、実際にはもっと弾けまくっているだろう。
多面的な人物で、考えごとが止まらないこともあるようだ。
考えごとというのは、頭の中で考えを整理・構築するということだから、時々、かなりの
理屈を述べってくる傾向もある。あるいは、述べりながら同時に脳内でもう次の論点を
探っている節もある。頭の出来はすごくいい。いいなぁ。
そうなると、こういう人間を友として受け入れられる人は、もうそれだけで化け物だ。
ちょっと表現が悪かった。超人的だ。
あらゆる感情や状況を受容できる超人間的な存在を古来人は神としてきた。
ところがだ。実際にはどこまでも人間的なのだ。これはいったいなんだろう。
稲妻の仲間たちのことだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その一人を、ここでは彼のオリジナル曲にちなんで「黒い衝動」と呼んでおきたい。
衝動氏は、ちょっと気になる人物だ。
とても丁寧に親身に接してくれる。それは稲妻の弟であるという理由もあるだろう。
僕が思うのは、こんなに丁寧な人でもどこかに激しいものを持っているということだ。
だからその激しいところを見たいという興味がある。
やっぱり、衝動さんは、そのオリジナル曲のタイトルのように激しさを持った人であった
というのが目下の僕の印象だ。
もう少し言うと、ご本人が激しいというより、激しさの中にいたのかもしれない。
激流の中にあったというか。困難の渦中とか、苦悩を経験したあとに、ものすごい力を、
それ以前には考えられなかったパワーを発揮することが人にはある。
じゃなければ、あんな紳士があんな演奏をするとは思えない。
面倒になったので、名前を「前沢サトシさん」と明らかにしてしまう。ダメだな、オレ。
前沢さんは美しいピアニストとともに、ギターを弾き、歌を唄っている。
どう思う?どう思いますか?
こうした紹介では、本当のところが伝わらない。
率直に言って、前沢さんは野に放たれた馬のような演奏をする。
ロックなんだよなぁ。
前沢さんの写真をたくさん見た。それはほんのここ数年に撮られたものばかりだ。
その時々で髪型や服が違う。それは多様で多彩な感性を現わしていると思う。
曲もそうだ。なぜエレクトリックじゃなくてガット・ギターなんだろう?
わからない。すると、僕の気持ちを見抜いたかのようにガットに突然ディストーションを
被せてくる。やられた。ますますわからない。
でもやっぱりガットのサウンドがとても気持ちいい。曲に相応しい心地よさを与えてる。
つまり音の方も、じつに多面的なのだ。この人の秘密はどこにあるんだろう。
写真で言うと、最近撮影されたものは笑顔がすごい。何か変化があったんだろうか。
さて、美しいピアニストのことが気になってるんじゃないかと思う。
ウイノナ・ライダーは飽きてきたので、彼女をあらためて「花音」と呼ぶ。
おそらく花音さんは、僕が知らない前沢さんや稲妻氏の秘密というか、核心をよく理解
しているんだろうと思う。女性が男性を理解できるというのは何だろう?
理解力が深いのか、意外と男性の方が単純なのかもしれない。
じつは前沢さんは稲妻のバンドに合流することが決まった。
もちろんご自身の音楽活動は継続していくだろうし、みんなそれを望んでいる。
そこに花音さんもいると、じつに、部活のメンバーと世話係の女子といった風に僕には
見えてしかたがないわけだ。
言ってみれば、僕は帰宅部の不良で、心のどこかで彼らをうらやましいと思っている。
そこで彼らをまとめて「二日町大人の軽音楽部」としておく。
実際には音は全然軽くないのだが。
彼らのよくわからないところはまだまだある。
彼らがなぜ僕ら不良の帰宅部に興味を抱いてくれるのか、さっぱりわからない。
それはたんに、「部長の弟が僕だった」というだけではないように思う。
で、僕としてはいろいろ思うところもあるのだが、僕流に言うとこうなる。
不良は不良らしく好きにやる。同じ理由で二日町軽音部も好きにやればいいい。
みんな好きにやっていいし、好きにやるべきだ。
つまり、あれこれ理由を考える必要はないということだ。
おそらく、前沢さんと稲妻の合流も自然なものだったろう。
本人たちにも、花音さんや周囲の人人にとっても。
しかし、このメンツはすごい。顔役がよくもこう集まったもんだ。
稲妻のところのドラマーさんも、すごい。この人についても僕は何か発見したい。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
冒頭に時代を語ったのは、わけがある。
まず一つに、前沢さん自身が時代をテーマにしているように思うから。
つまり過去があって今の自分がいるということが、歌からはっきり読みとれる。
前沢さん自身が長い歴史を持っているから、それは当然だと言えるかもしれない。
では、今の時代ってどんな時代だろう。
それが二つめの理由だ。
今は明らかに時代の変わり目だ。でもそれはあまりにも突然やってきた。
だから多くの人人が迷いの中にある。
彼らや僕が生まれた頃のように人人が目的意識的に時代を変えようとしていた頃とは
まったく違う。だからいい意味でも悪い意味でも、当時の大人たちは時代や、これから
進むべきを道をはっきり言えることができた。これが僕らの親の世代だ。
ところが、だ。
その僕らが大人になって、今の子どもたちに何かはっきりしたことを伝えられるか。
相変わらず悩み、葛藤し続けている。それがいいとか悪いとか言うんじゃない。
そういう背景があるだろうとか、ないとかいうことではなく、前沢さんの作品からも苦悩
だとか葛藤というテーマを感じるということだ。
そしてそれはおそらく、今という時代と無関係ではないだろう。
こういう感性と、稲妻を中心にした音楽的爆発を欲求する感性が結合したということだ。
ものすごく本質的。
僕の彼らに対する興味はそこにある。
彼らなら何か答えを出してくるだろう。自分たちの未来に決着をつけるはずだ。
おもしろくなってきたなぁ。
前沢サトシ 公式サイト
http://satoshi-maezawa.jimdo.com/
YouTube 前沢サトシ チャンネル
http://www.youtube.com/user/mza0510

5
2012/5/21 23:07
こんにちは。大竹です。
2012年5月20日、僕らの演奏を見守っていただいたみなさん、ありがとうございました。
残念ながら会場でお会いできなかったみなさんも、ありがとうございました。
今になっても、たくさんの人から演奏の感想や画像、映像が送られてきます。
僕らにとってライブは、それが決まって最初の練習からもう始まっています。
でも終わって数日経って尚も、こうしてたくさんの人とお話していると、まだ演奏を続けて
いるような気分にもなります。
この数ヶ月間、今にいたるまで楽しい時間を過ごせています。
ありがとうございました。
実際の演奏や当日のバンドの様子を、前沢サトシさんが記録してくれました。
こうしたことは、かつてなかったことです。
前沢さんにはこの場をお借りして感謝をお伝えするとともに、その記録をぜひみなさんに
ご覧いただこうと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=eCs0HgIc47w&feature=g-all-lik
うれしいですね。僕らは恵まれました。
前沢さんという人物について、ごく近いうちに何か書いてみたいと思っています。
そのことは僕という人間をも鮮明にするでしょう。
そして、この仙台というギンギンにスクエアな街で生きる、いろんな男たちの生きざまや
人生を照らすことにもなるでしょう。
今回のライブや、バンドについて書いてみます。
一番大きな意義は、この間僕らが求めていたものを断固貫徹したことにあります。
挑戦したということなんですが、でもそれは当然のことです。
決定的な意義はバンドを人の環の中に置いたことにこそあります。
一度できるようになれば、それが次からできなくなることは演奏にはそうない。
でも人は違う。一度結んだ絆が永遠とは限らない。そして一度失えば、代わりはない。
僕らはそれをよく知っています。
そこへの怖れは人を殻に閉じ込めます。僕らもそうした小さな世界で生きてきました。
これからも、僕らが大きな世界を求めることはいでしょう。
でも、これからはちょっと違うかもしれないぞっていう、そんな気がしています。
またいつかお会いしましょう。
次はいつになるかわかりませんが。
そしてありがとうございました。

5
2012/5/15 22:20
こんばんは。大竹尚行です。
5月20日の演奏まであと数日になりました。
3ヶ月ぶりになります。
今、僕はとても緊張しています。
どうもうまく指が動きません。集中できてないんですね。
こんな時、僕は無理にギターの練習もしません。
そんな感じでここ数日を過ごしています。
僕にとって演奏は旅行に出るようなものです。
そこはかつて行ったことのある場所。
何度も何度も足を運んだ場所。
ならばなぜまた旅に出るのでしょう?
懐かしい人がいるから。
見知らぬ誰かと出会えるかもしれないから。
僕にとって舞台に立つとはそういうことです。
だから舞台に立つ僕らを見たら、こう思ってください。
「おかえり」と。
「久しぶりだな。よく来たな」と。
僕たちはいつも心の中で思っています。
「帰ってきたぞ」と。
僕の緊張の理由がわかってもらえましたか。
今回はどんな旅になるでしょうか。
天気予報も見ない。時刻表もない。
荷物も持たず、いつ帰るかも決めない。
そこに行けば誰かいる。
疲れたら休み、また歩き出す。
そんな僕らをどうぞ見守っていてください。
ではまた会いましょう。

1
2012/5/13 6:15
僕は5月生まれのせいか、この時期になると時の移ろいに敏感になる。
長い冬、そして春へと向かうあらゆる変化に故郷は満ちあふれる。
その変化の中で、もうすぐまた年齢を重ねるんだなという感慨を抱く。
時の流れは早い。
初めて人前で歌ったり弾いたりした時のことも、最近よく思い出すようになった。
日付が変わったばかりの5月10日、今夜演奏するから来ないかという連絡をもらった。
急に誘われるのはめずらしくないことなので、行ってみることにした。
初めて行く店、初めて聴く音楽。
その夜はピアノとのデュオで知られる前沢サトシさんというアーティストの出演だった。
前沢さん自身はガット・ギターと歌をやっていて、楽曲はすべてオリジナルだ。
じつを言うと、前沢さんとは一度お会いしている。
あれは2011年11月23日のことだ。ちょうど半年前ということになる。
この時のことも、いずれ機会があれば書いてみたいと思っている。
ところが、じつは前沢さんとはこの時が初めてではなかった。
どうやら1982年の秋にお会いしているらしいのだ。
さて、その前沢さんの演奏。
フィンガー・ピッキングが素晴らしい。コードと単音のバランスが絶妙。
指でギターを弾くと感情移入しやすいのか、抑揚が効いていて飽きない。
アコースティック系のギターは、エレクトリックのように音色自体は多彩ではないので
ロックが好きな人には物足りなく感じることもあるが、まったくそういうこともない。
それはやっぱり歌もいいからだろうと思った。
バックのピアノは、時々バックとは思えないほど前に出てくる。
歌声が高揚してくると、ピアノがそれに応えてくる。
僕もいつか、このお二人のようなピアノとギターのデュオをやってみたいと思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その後、前沢さんとピアノのウィノナ・ライダー(ここでは勝手に彼女をそう呼ぶことに
する)とお話したが、演奏であるとか音楽に対する姿勢だとか、人柄そのままの印象を
受け、実際に演奏を聴いた時以上に、彼らの音楽への理解が深まった気がした。
前沢さんは僕の歴史の証人でもある。
1982年に僕が初めて人前で歌った時、それを見ていたのが前沢さんだ。
それからちょうど30年経って、ようやく僕が前沢さんの歴史の目撃者になれた。
僕の感動の理由はそこにある。
ここでも、音楽が僕を幸せにしてくれた。
前沢さんにはいつまでも僕らの故郷で、音楽をわけ隔てなく愛する仲間の真中にいて
ほしいと思った。
前沢サトシ オフィシャル・ウェブサイト
http://satoshi-maezawa.jimdo.com/

3
2012/5/11 2:05
1967年5月、グレッチ社はオハイオ州のボールドウィン社に売却された。
その後数年間は、オフィスも工場もそれまでの本拠地であるニューヨークに置かれた。
これ以降については、重要と思われるトピックだけを箇条して記してみる。
・1969年10月 ボールドウィン傘下のグレッチの製品の売り上げが減少。
3ヶ月間のストライキに入る。
・1970年、54年続いたグレッチのニューヨークの工場部門を閉鎖。
アーカンソー州のボールドウィンの工場施設に移転する。
・1972年、グレッチのニューヨークのオフィスを閉鎖。シカゴに移転。
その後、拠点をボールドウィンの本拠地であるオハイオ州に移転する。
・1972年、グレッチの代表であったグレッチ・ジュニアがボールドウィンの取締に
就任する一方、多くのグレッチ古参のスタッフが会社を離れる。
・1973年1月、アーカンソー州の工場で出火。
・1973年3月、グレッチのニューヨーク工場の製造責任者が独立し会社を設立。
彼が工場を引き継ぎ、ボールドウィン社との合意のもとで、グレッチ・ギターの
製造を継続、それをボールドウィンに販売した。
※グレッチの商標権はボールドウィンが引き続き所有した。
・1973年12月、ふたたび工場から出火。
・1979年11月、ボールドウィンがカスタム社を買収。のちにグレッチとカスタムは
合併し、販売統括の拠点をカンサス州に置く。
・1980年、ボールドウィンは1981年までグレッチ・ブランドのギターの生産中止を
決定する。
・1981年、経営の拠点をアーカンソー州のボールドウィン工場に移転。
・1982年、グレッチとチェット・アトキンスとの契約期間が終了する。
・1982年、グレッチ/カスタム社の経営にあたっていたチャーリー・ロイなる人物が
ボールドウィンから同社を買収、オフィスをテネシー州に置く。
・1984年、ボールドウィン社がチャーリー・ロイからグレッチの経営権を取り戻す。
・1985年、グレッチの経営権が、グレッチの末裔一族に戻る。
どうだろうか。
もう何が何だかさっぱりわからない。
上述した事実の合間にも、グレッチは奇妙なギターを発表し続けた。
だから、実際にはここに記したこと以上の複雑怪奇な過程をたどったことだろう。
もちろんそれは、当のグレッチ自身がよくわかっていたことだと思う。
1989年から、日本の市場でも新しいグレッチ・ギターが供給されていったが、当時発表
された製品には、1960年代から70年代におけるこうした事象への反省が反映されたと
強く感じたからだ。
僕がこの時代のグレッチに注目する理由はここにあって、この時代の歴史を見なくては
グレッチの現在がよく理解できないと思ったからだ。
何よりも、グレッチの歴史を通じたアメリカの近代音楽史の考察というものを僕は構想
しており、その端緒としても、やはりこの時代は無視できなかったということだ。
付け加えると、じつはこうした企業の買収とか再編というのはアメリカではめずらしくない
ことのようだし、フェンダーもギブソンも似たような歴史をじつは持っている。
そもそも“会社”に対する考えが日米では違うという面もあるだろう。
欧米では企業は株主のものであるというのが一般的だそうだし、日本では創業一族の
所有財産としての会社のイメージが強い。
こうした点からも歴史は評価されなくてはならないと思う。
そこで、これ以降のグレッチ・ギターの経過についても、いずれ機会をあらめて、主客を
交えながら考察してみたいが、ここでいったん一区切りとしたい。

2
2012/5/10 14:40
それではグレッチ・ギターに話を戻そう。
1962年に50年代の黄金期を支えた製品は大胆に仕様変更され、結果的に演奏性は
格段に向上した。それまで、ジャンルによってはグレッチは不向きなギターであったが、
この仕様変更によって、より多くのユーザーを獲得できると判断されたのかもしれない。
こうした判断の根拠は何だったのだろう?それはロックの台頭にあったと僕は思う。
カントリーやジャズという独特な演奏技術が求められる音楽から、“誰もが気軽に演奏
できる音楽”が求められる時代になりつつあった。
もちろんそうした欲求は50年代にもすでにあった。
ロックンロールだとかロカビリーとは、そういうものであっただろう。
そこに影響され、あるいはきっかけとしつつ、新しい時代の新しい音楽がより大衆的に、
最終的には世界規模で広がろうとしていた。たとえばビートルズのように。
より発達したレコード、ラジオ、そして何よりテレビというメディアがこの広がりを支えた。
そういった状況の中でギターは、“弾ける人が、相応しい場所で弾く楽器”から“誰でも
どこでも弾ける楽器”に変化を求められていたような気がする。
別な言い方をすれば、人人はギターに自由を求め始めていたとも言えるだろう。
より自由な表現ができる多様性を求めていたとも言えるかもしれない。
そういう意味では、グレッチ社の判断は正しかった。
大胆な仕様変更にがっかりしたのは、この時点では一部の人だけだったかもしれない。
1964年2月9日、ビートルズがアメリカのCBS番組「エド・サリヴァン・ショー」に3週間に
わたって出演したことが、グレッチにとっては大きかった。
この時ジョージ・ハリスンがグレッチのギターを使用していたことで、その後の1週間に
2万本のグレッチが売れたと言われている。
ただ、この成功はグレッチに幻想を抱かせたのではないかと僕は思う。
ジョージはいつもグレッチを使っていたわけではなかった。
むしろ、新しく登場するグループのギタリストは誰もグレッチを使わない。
彼らのニーズを満たしたのは、いつもギブソンかフェンダーのギターだった。
グレッチを好む人も、いつも決まって50年代の古いグレッチ・ギターを使っていた。
チェット・アトキンスもその一人だったが、彼の人気も緩やかなものになりつつあった。
頼みの綱のビートルズはどうだったろう?
1966年にはコンサートを控えるようになっていた。
これはまずいぞと思い始めた時、グレッチはモンキーズのためのギターを作り始めたが、
それは1年足らずで生産中止になり、カタログに載ることさえなかった。
ロックという時代の到来を、グレッチは読み違えていたわけではない。
それなりの対応をしてきたはずだった。しかし、その対応はギブソンやフェンダーの後を
追うものに過ぎなかった。そこにグレッチのミステイクがあったように思う。
つまり、時代に追いつき、かつ先取しようという試みが、逆に自分たちが築いた輝かしい
過去を置き去りにしてしまったように感じられるのだ。
そのミステイクにグレッチ自身が気づき始めたのが、1960年代半ばだったのかもしれない。
そこに現れたのが、ボールドウィンからの買収話だったのではないか。
「今が売り時なのかもしれない」
グレッチがそう考えたのかどうかはわからない。

2
2012/5/8 18:51
さて、この前の黄金週間でのできごと。
職場の同僚であるTACさんからメールが来て、麿ちゃんが仙台に帰って来てるとのこと。
この二人のことは以前に少し書いたので、まずはこちらを読んでもらえれば。
http://black.ap.teacup.com/samuraiville/322.html
さて、つかの間の帰省で帰ってきた麿ちゃんとTACさんの新居で飲むことに。
3人とも音楽人間なので、僕はギターや何枚かのCDとDVDを持って行った。
TACさんのバンドの近況や麿ちゃんが今いる名古屋の話をした後は、いろんな話をしつつ、
じつはあんまりよく憶えていない。けっこう酔っ払った。
酔うと靴下を脱いで寝てしまう癖が僕にはあり、じつは以前このメンバーでカラオケをした
時も不覚になってしまい、腹を出してソファーで寝ている姿をフォーカスされ、後日それが
メールで送られてくるという過去があった。
寝ちゃヤバイぞと言い聞かせていたら、、それなりにコントロールできるもんですね。
なんとか無事に帰宅することができました。
TACさんなんか特にそうなんだけど、彼ら本当に音楽が好きで。
二人ともバンドをやってて、早くライブを見に行ったり、スタジオにも行きたいんだけれど、
いつも「とんでもない」と言って、こう続ける。
「バンドがやれるだけでいいんですよ」みたいなことを。
二人ともその人間性からして僕は大好きで、その二人がライブで弾けまくり、それを通じて
みんなにこの二人を知ってもらいたいって思うんだけれど。
でも一方で、カッコいいなぁって思っちゃう。
さて、麿ちゃんは6月には名古屋での研修を終えて仙台に戻ってくるそうです。
楽しみが増えたぞ。

1
2012/5/7 0:00
ボールドウィンは1862年に創業、オハイオ州を拠点にピアノやオルガンの製造・販売を
手がけるアメリカの老舗である。
1967年5月、そのボールドウィン社にグレッチが買収された。
熱心なグレッチ・ファンは、このことをまるで暗黒史のように語る。
実際、これ以降のグレッチ・ギターは、それまでのギターとはまったく別物のように変貌
していったし、逆にそのことは買収以前のグレッチ・ギターの価値と評価を高めた。
実際にはすでに述べたようにグレッチは60年代に入ってすぐ(つまりボールドウィンに
買収される以前から)受け入れ難い仕様変更や新製品の供給にのめり込み、明らかに
その人気を下降させていた。
今となってはこの買収劇の真相や意味を正確に知るのは本当に難しい。
がしかし、これを黒歴史として無視を決め込んでいては、グレッチという一本の木を見る
ことはできても、当時の世界の楽器/音楽状況という大きな森を見誤ることになるだろう。
森を見ないで木を語ることに、僕にはやっぱり抵抗がある。
そこで、ボールドウィンの歴史をもう少し見てみたい。
ボールドウィンはアメリカではたしかに老舗だが、ピアノという伝統楽器の世界市場に
おいて、それほど圧倒的なシェアがあったようには思えない。
やはりヨーロッパのメーカーが強かったのだろう。彼らは電子オルガンの開発に活路を
見い出し、そこに対抗していった。
そして1946年に電子オルガンを発売した。これはそれまでの電子オルガンに比べると、
使用する真空管の数が格段に少ない画期的なモデルだった。
また、電気式のピアノやハープシコードの開発も行っており、その製品は海外にも輸出
されるようになった。彼らはこの分野で成功者となるはずだった。
しかし、ここでも彼らは苦闘を余儀なくされる。
国内の狭い住宅環境でも鍵盤楽器が楽しめるようにと、日本のメーカーが次々にこの
分野に進出し始めたからだ。1960年代初頭のことである。
つまり、この時期グレッチとボールドウィンは揃ってやや苦しい状況を迎えつつあったと
言えるわけだ。もう少しだけボールドウィンについて述べておく。
本業の鍵盤で苦戦を強いられるボールドウィンは1965年9月、イギリスのバーンズ社を
25万ドルで買収する。バーンズ社は1952年にイギリスで創業した新興メーカーで、主に
ギターの製造・販売を行っていた。
このバーンズの買収を端緒として、ボールドウィンはついにみずからの名を冠した自社
ブランドのギターの販売を開始したが、おそらく結果は振るわないものだったのだろう。
誰でもいい。「ボールドウィンのギターって知ってる?」と訊ねてみるといいだろう。
ギターに詳しいプレイヤーや店員でも、ほとんどの人が知らないと答えるだろうから。
こうした経緯を経て、2年後の1967年5月、ボールドウィンはグレッチ社を買収する。

1
2012/5/5 0:00
こんにちは、大竹です。
僕のブログ“samuraiville”に「THE ACES WILD」というカテゴリーがあります。
その名の通り僕がやっているバンドについて書きづづっているのですが、そこにさらに
「スタジオ・ワーク」と題し、時々のバンドの近況をスタジオでの練習を通して連載的に
記録しています。今回はその5回目です。よろしくお願いします。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
5月4日、久しぶりの練習を4時間もやってきました。いやぁ、疲れました。
この練習自体が2週間ぶりで、しかも5月20日のライブに向けての最後の練習でした。
そんなこともあり、当初は3時間だった練習を1時間延長しました。
最後の練習になるかもしれないということで、まずは熱心に打ち合わせ。
実際、時間を惜しんで演奏するより、あせらずじっくり今後について話し合い、気持ちを
高めていく方が、本番でいい結果を残せることが多いと感じます。
とは言え、当日まで時間がだいぶ空きますので、かなり突っ込んだ話を繰り返しました。
基本的には前回2月のライブを基本にした構成なので、余裕がないわけではない。
いい演奏ができるという手ごたえはあります。
少し予告編的に少し次回のライブの予定曲を紹介しましょう。
テキサスの古いロカビリーをやります。いつもオープニングでやってるヤツです。
でも、今回は一味違いますよ。誰もが知るネオ・ロカビリーの曲をメドレー的に挿入した
アレンジでいきます。
布袋さんの演奏でも知られているエディ・コクランのナンバーを今回も取り上げます。
これだけで何の曲かピンと来る人も多いでしょう。
エディ・コクランでは、他にも1曲予定しています。
これもみなさんよくご存知の有名曲です。THE WHOがこれをやっていましたね。
今回はインストで、オリジナルのラグタイム・ギターをやります。
ロケットブラッツのCDにも録音しましたが、今回は久しぶりのライブ演奏です。
ロケッツについては、そのうち“samuraiville”でも取り上げていきます。
久しぶりということでは、もう1曲あります。
これもみなさんよくご存知のロカビリー・クラシックです。
エルヴィスと言えばこの曲を思い浮かべる人も多いはず。楽しみにしててください。
もちろん今回も、いちろーさんが唄いますよ。
他にもたくさん演奏しますが、聴き足りない時は遠慮なく声を上げてください。
許される限り、演奏するつもりでいます。
さて、こんなトコでしょうか。
これからもTHE ACES WILDと“samuraiville”をよろしくお願いいたします。

1
2012/5/3 23:35
60年代に入り、グレッチは次々に新しいギターを発表した。
その多くはギブソン社の製品を模倣したものだった。
チェット・アトキンスのギターも当初はひっそり仕様が変更されたが、62年までに
かなり大胆にその容貌を変えた。
こうした傾向は、当時のアメリカの音楽シーンと無関係ではないだろう。
それまでのカントリーやジャズといったルーツ・ミュージックから、急激にロックが
それにとって取って代わろうとしていた。
ギタリストのニーズや志向にも大きな変化が現れた。
その変化にもっともよく対応できたのは、新興メーカーのフェンダー社だったろう。
ギブソンも既成のモデルをベースにこれに競合していった。
グレッチは明らかにこれに引きずられる形でしか対応できなかったように思える。
1960年代半ばには、グレッチのギターから“アメリカン・ドリーム”を感じることは
少し難しくなっていた。
そこに救世主が現れる。ジョージ・ハリスンだ。
ビートルズのメンバーがグレッチを愛用したことで、グレッチは窮地を凌ぐことが
できた。しかしこれは言いすぎかもしれない。
むしろ、業績自体は順調だったようだからだ。
そこに目をつけたのが、ボールドウィンという会社だった。

4
2012/5/3 15:29
1949年にふたたび生産・発売されたグレッチ社のエレクトリック・ギターは、
それ自体あまり魅力的なギターだったとは言えない。
ただ他のギター・メーカーと違い、明らかに時々の音楽シーンや演奏者の
ニーズの変化に敏感に反応し、また機敏に対応してきたと思う。
グレッチのギターが市場全体でそれほど大きな需要があったとは思えない。
だが、会社としてはギターを軸とした展開を順調になし遂げていた。
そこで決定的だったのは、やはりチェット・アトキンスとの共同だろう。
ここでもそのビジネスやシーンに対する敏感な嗅覚が発揮された。
1954年に最初のチェット・アトキンス・モデルがグレッチから販売される。
そのことは明らかにグレッチが新たな段階に到達したことを証明した。
チェット・アトキンスのギターは、おそらく売れたのだろう。
発売から50年以上経っても、ごく稀ではあるが当時のギターが新品同様の
状態で見つかることがあったという。こういったことはアメリカではめずらしく
ないことのようだが、ギブソンやエピフォンといったビッグ・ブランドとは違い、
後発のグレッチでこういうことがあったというのは、やはりそれなりに売れた
からだろう。そして大切にされてきたということだ。
アメリカを代表する音楽・カントリーの、そのさらに代表的なギタリストである
チェットのギターを手がけたことでグレッチは念願の“アメリカン・イメージ”を
手にした。今にいたるグレッチの “アメリカン・ギター” のイメージは、ここに
理由を見い出すことができる。
数年もしないうちに、チェット・アトキンスのギターはもう何種類かが開発され、
それらも人気のモデルとなった。
グレッチの商売はなかなかうまかった。
同じモデル名のギターに複数のカラー・バリエーションを用意し、それぞれに
違うモデル・ナンバーを与えていた。そのことで、実際にはごく少ない商品を
いかにも数多く見せることに成功していた。
実際、そのカラー・バリエーションは当時の老舗のギター・ブランドにはない
ほど豊かなものだったし、その色遣いのセンスも時代に敏感に反応したもの
だった。ただ、チェット・アトキンスのギターではこういうことはなかった。
やはり、このギターはグレッチでも別格ということだったんだろう。
だがチェット・アトキンスのギターで採用された仕様を他のギターに流用する
ことがあり、それに対する批判もあったようだが、全体の業績拡大には有効
だっただろう。瞬く間に、ギターは明らかにグレッチの主力商品となっていた。
しかし、こうした輝かしい時代は長続きしなかった。
60年代の初頭から、その変化、つまり下降をはっきりと見ることができる。
グレッチの歴史を見る時、この1960年代以降の低迷期をどう見るかは、わりと
重要ではないかと思う。

1
2012/5/1 0:00
ロシアの革命家、レーニンが46才の時の著作である。
この論文の肝についてはよく知られていて、実際、僕も読む前にそれは理解していた
つもりだが、そのことで逆にこの論文の今日的核心をつかめていなかったようだ。
本書の正式なタイトルは『資本主義の最高の段階としての帝国主義(平易な概説)』。
肝はそのタイトルの中にすでに明示されている。
資本主義が高度に発達してくると、それはかならず帝国主義という段階にいたる。
そして帝国主義は戦争を不可避的に追求するというのが、その骨子だ。
さらに言えば、帝国主義を打倒できるのは労働者であり革命であるとレーニンは言う。
逆に考える。戦争はなぜ起きるか?
その原因を探ることはとても大切だ。それがわかれば戦争をなくせるからだ。
レーニンはその原因が帝国主義にあると考えた。
僕らの暮らす社会が資本主義だということは誰でも知っている。
くわえてこの資本主義というやつが、欠陥だらけのどうしようもない制度だということを
僕らはその社会経験や労働者生活の中で嫌というほど味わっている。
本屋には資本主義を批判する本が並び、人人の危機感はかつてなく高まっている。
みんながそう思っているなら、資本主義の息の根は今すぐ止めることができるはずだ。
それがそうならないのはなぜか。
人人の意識はどうなっているのか。もっと言えば、僕らの生きている時代とはどういう
時代なのか。それを知るのに本書は重要な手がかりをもたらしてくれる。
僕はこの社会はすでに帝国主義だと思っている。
ある人は反論するだろう。
日本は事実上アメリカの従属国で独占資本主義ではあるが、帝国主義ではないと。
世界のどこにも、もう植民地はないし、植民地を求めるような戦争も起きていないと。
そういう人は、今は帝国主義ではないから革命は必要ないと言いたいのだろう。
「今は苦しくても自由な資本主義の方がいいに決まっている」
資本主義を問題にしながら、資本主義を止めようとしないのは、どうやらこんな心理が
背景にあるからのように思える。
しかし資本主義の言う「自由」とは本当に自由なんだろうか?
自由競争と言いながら、じつは人人を不自由にさせてはいないか。
一握りの資本家だけが「自由」に世界を操ってはいないか。
レーニンは独占資本主義であることじたいが、帝国主義の本質だと言い切っている。
不況の中を独占の状態が続けば(今の僕らの社会がそう)、あらゆる談合がはびこる。
富はいっこうに社会に再分配されない。
大衆の不満は募り、それを爆発させないために支配者は海外へその矛先を向ける。
外国に「進出」することで暮らしは豊かになるという幻想をふりまく。
今の僕らの社会はここまで来ている。そして「進出」という名の戦争が肯定されていく。
ヒトラーが政権を握ったのもそうした不満を持つ失業者の意識を利用してのことだった。
さて冒頭で述べた今日的核心とは何か。
僕は、帝国主義の形成は金融資本の独占に原因があると考えていたのだが、じつは
重化学工業を核とした産業資本の独占、寡頭支配こそ問題という意見に最近触れた。
実際これは「帝国主義」の中でレーニンが鋭く指摘していたことなのだが、この辺りが
僕の読みの浅さということだったんだろう。
それを踏まえて読むと、今の日本の自動車産業の状況とか、原発をつくるのも、壊れた
原発を直す(直せるのかはともかく)のも除染の予算を取るのも大林組、あるいはまた
被災地で大儲けしていると言われている鹿島なんかの話がかなりにリアルに感じられる。
そして今や原発は世界に輸出されようとしているのだ。
さて、連休中に「帝国主義」に再挑戦しようかな。

1
2012/4/29 0:12
1933年にグレッチは初の自社ブランドのギターの生産を開始する。
それは“アメリカン・オーケストラ・シリーズ”を構成する商品としてリリースされた。
同シリーズはその名の通り、ビッグ・バンドで使用される楽器、たとえばアコーディオン、
ドラムやサックスなどまでも含み、当時のグレッチが総合楽器商社を志向していたことを
うかがわせている。つまりギターはグレッチにとって主力商品というわけではなかった。
このシリーズから想像できることは他にもあって、その名の通り、言わば“アメリカン”を
企業イメージに据えていたということがわかる。
40年代にギターのラインナップが充実した時にも、この傾向は見ることができる。
この頃のギターは、それまでのスパニッシュ・ギターにはない特徴がいくつもあった。
グレッチがギター市場に“ニュー・アメリカン・スタンダード”を構築しようとし、かつそれを
武器に市場への進出を意図していたことは想像に難くない。
当時の主力は圧倒的にピックアップのないアコースティック・モデルがメインだった。
1939年に発売されたグレッチ初のエレクトリック・ギターは、セールス的には失敗したと
いうことだろう。1949年にふたたびグレッチはエレクトリック・ギターを発売する。
がしかし、それは従来のアコースティック・モデルにピックアップを搭載したに過ぎないか、
やや高級なラインナップであってもギブソン社のギターを明らかに模倣したと想像できる
品質にとどまっていた。
しかし1950年代中期に、この状況から一気に飛躍を始める。
ギブソン社がジャズ・ギタリストのレス・ポールと共同して“レス・ポール・モデル”を発表
したのと同時期に、グレッチはカントリー・ギタリストであるチェット・アトキンスと共同して
新しいギターの開発を行った。このことが今に続くグレッチの人気を決定づけたと言える。

0
2012/4/26 21:26
最近は見かけなくなったが、僕が子どもの頃は生産国もブランド名も記されていない
アコースティック・ギター(当時はフォーク・ギターと言った)を、よく見かけた。
おそらく70年代のフォーク・ソング流行期につくられたものだったんだろう。
グレッチが初めてつくったと言われるギターもじつはそうだったらしい。
それは1927年のことで、テナー・ギターだったと言われている。
1900年頃からマンドリンをつくっていたようだが、主力はドラムやバンジョーの製造、
そして楽器の輸入だった。
このあたり、いずれ本格的なギター製造の機会をうかがっていた様子が読み取れる
ようでおもしろい。
グレッチが正式に自社ブランドの製品としてのギターを製造し始めたのは1933年。
初めてエレクトリック・ギターの生産を開始したのは1939年だ。
そのラインナップは1940年代にかけて充実してくる。
今、どこの楽器店でもグレッチのギターの2、3本は見かけることができる。
その多くは1950年代に製造が開始されたモデルを復刻したものか、それをベースに
新たに開発されたモデルばかりだ。
そこから想像できるように、グレッチのギターは1950年代に最初の黄金期を迎える。
次回は1950年代のグレッチの歴史について見てみたい。

2
1 2 3 4 5 | 《前のページ |
次のページ》