第五号11
谷向奇道氏の詰将棋解剖学について 里見義周
谷向奇道とは若い人に相違ない。それは若くなければこれだけの情熱は到底生まれ出て来ないからである。更に標題を敢えて解剖学と名付け編、節、項、に分ける学問的なやり方等最近学生生活を了えたばかりの人と見たは僻目か、実は経済学を専攻していた私が十数年前大阪商大を卒業した当時は詰将棋を論ずる場合も好んでこういうやり方をしていたのでその気持ちが分るのである。
さて詰将棋解剖学だが、氏は詰将棋の総合的研究を寡聞にして知らぬとのことだが、これは成程寡聞に違いなく昭和十五年九月号の将棋世界に宮本弓彦兄の慫慂で“詰将棋概論”という拙稿をものしたことがある。これは本誌の読者でも古い人は見ていられる方もかなりあるのではないかと思うが、内容は第一章詰将棋の規約、第二章詰将棋の発達、第三章詰将棋の本質、第四章詰将棋の評価、第五章詰将棋の創作という工合に、私の詰将棋理論の骨子だけをまとめたものである。そしてその細説については終戦後、吉田一歩氏と村山隆治氏の“詰棋人”に詰将棋評価論を発表、更に詰将棋規約決定版たらしむべき意図のものを中途まで掲載したところで同誌の廃刊によつてそのまま止んでいる。とまれこの分野は私が多年手がけて来た、いわば専門の畑であるので、今回の谷向氏の研究にも興味を惹かれるし、また「あら」も見えようというものである。
最初に当然の順序として詰将棋の沿革を述べているが、これはこの通りで簡にして要を得ている。しかし次の詰将棋の要件に(3)詰手順中に必ず一つ以上の妙手を含むこと、を入れたのは可笑しい。これはむしろ筆者の意見とも云うべきもので、これを定則として強要するのはすこし偏狭に過ぎるのではないか。曲詰に於いては無妙手も認められるし、また曲詰でなくとも、私など妙手を全然含んでをらぬところの所謂詰将棋らしくない詰将棋を作ろうと企図している程である。こんなのは勝手が違って詰将棋家(おかしな言葉だが)には却って詰め難いものだからである。実際無妙手で従来の構想によらず百手を超える作品なんか愉快ではないか、こんなことを要件に入れる代わりに、詰上り手駒の余らぬことというのを入れる必要がある。次に詰将棋を解く場合の規約であるが、これでは将棋一般のルールと詰将棋特有の約束とを混同している感じである。詰将棋にだけ特有の約束を挙げてその他は将棋一般のルールを準用するという風に逃げるのが賢明である。何故なら、もし将棋一般のルールから説き起こすならそれこそ盤面や駒の種類、数等から始めねばならぬであろうから。術語の説明は大体正しいが、ただ作意手順の説明には少し不満がある。余詰のある詰将棋−既に詰将棋とは云えぬわけだが−にあつては作意手順と正解手順とは必ずしも一致しないからである。後者の方が前者より広い概念であると思われるがどうであろうか。第三節の詰手順についてのところで、最長手順説が塚田前名人の裁定で通説になつたという事は戦後不勉強の私はそれこそ寡聞にして知らなかった。この問題は往年将棋月報誌上に於いても盛に議論されたものだが、その時は妙手説に落付いたように記憶している。私自身只今でも妙手説を採っている次第である。ただこんなのは要するに作品そのものに欠陥があるのであつて将来の作家はつとめてこういった不明朗なものを避けるように心掛けねばならない。
本論の次号以下のところは偶然にも私が本誌に発表する予定のものとダブつている論題が多い。しかし観方が全然違っているので同時に発表されることは却って興味があるのであろう。以上大分悪態をついたが、こうした理論的研究は頗る必要なことで私も知己を得た感じで非常に喜ばしい。忠言−だか何だか怪しいが−耳にさからうとか谷向氏よ乞う御寛容のほどを。
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里見氏の突っ込みは妥当なところ。そして「ただこんなのは要するに作品そのものに欠陥があるのであつて将来の作家はつとめてこういった不明朗なものを避けるように心掛けねばならない。」というのは現代にも生きていると思う。その内容が妙手説か長手順説かではなくて、変長・変同・微妙な無駄合等になってきたのだと思う。
年賀状懸賞付 大道棋結果発表・・・紳棋会報愛読者(三00名と書かれていて、結構部数が多いので驚きました。)に送付した賀状に懸賞付大道棋を載せていて、その結果発表。作品は不完全だったので省きます。
百人一局集の紹介記事が前号に引き続いて出ている。

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