「科学の目的は永遠の知恵に通じるドアを開けることではなく、永遠の誤りに戸を立てることである」 − ブレヒト
「科学的手法の真の目的は、あなたが実際には知らないことを知っているかのように、自然を誤解することがけっしてないようにすることである。」 − ロバート・M・パーシッグ
科学に対するイメージは「真理の探究」という印象が強いようです。これは間違ってはいないのですが、ちょっと誤解を生みやすい印象かもしれません。
科学の真理の探究の仕方というのは、どういうものかをちょこっとだけ説明してみたいと思います。
科学とは様々な仮説の中から、
信憑性のないものを取り除くことによって真理に近づこうとるする営みです。
“信憑性のないもの”を判断することが、科学の真骨頂と言ってもいいものです。
そのために、まず始めに反証可能性のないものは却下します。「反証可能性がある」とは前に説明したように「間違っていれば間違っているとわかる」ということです。
逆に反証可能性がない仮説は、その仮説が間違っていたとしても間違っていることがわからないということですね。これは仮説の信憑性が“判断できない”ので“信憑性のないものを取り除く”という科学の営みに反します。
つまり、科学ではとりあつかわない話になるわけです。門前払い。
常識的に考えても、
間違っていようが正しかろうがそれがわからないような理論は、真実の探求という意味では邪魔なだけだということはわかるのではないでしょうか?
さて、反証可能性さえあれば、基本的には証拠の説得力の問題になりますので、証拠(根拠)を個別に評価していくことになります。
ここでも、実際には“
信憑性のないものは証拠(根拠)として扱わない”という方法がとられます。
そうやって証拠の識別をしていった結果、信憑性が高い証拠が残ったものが理論として認められることになります。
なぜ肯定的なところばかりを見ないかという点については、「
確証バイアス」のところで書きました。
つまり、科学は無限にある仮説の中から以下のようなものを省いていった結果を、今の時点での人間の知識として暫定的に認める考え方なんですね。
○間違っているかどうかを判断する手段のないもの
○論理的に間違っているもの
○自然の観測結果と合わないもの
○合理的な疑いを排除できないもの
新しい理論を打ち立てるのが科学の営みではなく、
どうしようもない理論を切り捨てるのが科学の営みなんですね。それが
間違いやすい人間のエラー修正機構として働くのです。