科学ではある新しい仮説を提唱する場合には、仮説を提唱する側が自分の仮説が正しいことを証明(立証)しなければなりません(責任)。
これは、ちょっと聞いただけで、分かりきった当たり前のことだと思います。では、なぜわざわざ取り上げないといけないかといえば、議論という状況になると、しばしばこのことが忘れられてしまうからなのです。
どんな状況で忘れられるのでしょうか。
A「これこれこんな仮説を考え付きました」
B「それは根拠がないから仮説としても認められるようなものじゃないな」
A「私の仮説では、XのこともYのことも説明できます」
B「XもYも既に分かっている別の原因で説明がつきます。その説明じゃだめなのですか?」
A「だからといって、全てのXとYがその“別の原因”だとは言い切れないじゃないか」
B「あなたの仮説でなければならない理由はなんなんですか?全く根拠がない」
A「なぜあなたは私の仮説を否定できるのですか?否定するのなら明確に根拠を示してください」
B「立証責任は提唱者にある。自分の仮説が正しいという根拠を出してください」
なんてやり取りは良くある話です。肯定する根拠を求められるのなら、否定する側にも根拠が必要なんじゃないの?というわけですね。
ではもっと具体的に。
A「夜中にピシッ、ピシッという音がどこからともなく聞こえてくるんだ、これは霊の出すラップ音だ。」
B「それは根拠がないから仮説としても認められるようなものじゃないな」
A「私の仮説では、音がすることも、それが毎日じゃないことも説明できます」
B「それらは、湿度や温度の変化による家鳴りで説明がつきます。その説明じゃだめなんですか?」
A「だからといって、全てのラップ音が家鳴りだとは言い切れないんじゃないか」
B「あなたの仮説でなければならない理由はなんなんですか?全く根拠がない」
A「なぜあなたは私の仮説を否定できるのですか?否定するのなら明確に根拠を示してください」
B「立証責任は提唱者にある。自分の仮説が正しいという根拠を出してください」
こう書いてみるとAの言うことももっともだと思う人が出てきたんではないでしょうか?
A「火星が太陽の周りを回っているのは、地球とは違いアストラルパワーによるものだ」
B「それは根拠がないから仮説としても認められるようなものじゃないな」
A「私の仮説では、火星の公転速度や軌道がふらつくことも説明できます」
B「それは太陽の重力による空間の曲がりと他の惑星からの万有引力で説明がつきます。その説明じゃだめなのですか?」
A「だからといって、全てのふらつきがその“別の原因”だとは言い切れないじゃないか」
B「あなたの仮説でなければならない理由はなんなんですか?全く根拠がない」
A「なぜあなたは私の仮説を否定できるのですか?否定するのなら明確に根拠を示してください」
B「立証責任は提唱者にある。自分の仮説が正しいという根拠を出してください」
しかし、こう書くと問題点が見えてくるのではないでしょうか?
Bは仮説を否定しているわけではありません。
仮説が正しいと言えるだけの根拠がないと言っているのです。
実際のところ、根拠がなければ「
その根拠が根拠たりえるか?」や「
仮説は根拠から導ける妥当な結論か?」などといった検討すらできないのですから、根拠を求めるのは当然の行為といえます。
Aが論理的にも矛盾の無い仮説を提唱できたとしても、それが現実に即しているかはわかりません。これは「
論理的整合性」のところで書きました。
現実に即しているかどうかを判断するためには、きちんとした根拠を出さなければいけないというわけです。
そして、その
根拠は“仮説に肯定的なもののリスト”ではダメです。これは「
確証バイアス」のところで書きました。
既に他の説明がつくことならば、なおさら強力な根拠が必要でしょう(
オッカムの剃刀)。
もしAの言い分を認めてしまうのなら「ドラえもんがうちの家にいる!」とか「浜崎あゆみと俺は結婚してるんだ!」なんていう妄想じみた話も、疑う側が違うという根拠を出さなければいけないことになってしまいます。
ものすごい労力の無駄遣いになってしまいますね。