堺 武男 著『寄り添って、寄り添われて―新生児・小児医療の現場から』
アーツアンドクラフツ刊・11.12.1 四六判 284頁 本体1500円
医療の場所ほど、わたしたちに困惑と混乱を招来するところはない。ほんらいなら、救命や治療という場所である以上、生命倫理というものが基調となっていなければならない空間であるはずなのに、そこで展開されるのは経済論理と医者という特権的な振る舞いが歪なかたちで投影されることになる。もう少し、具体的に述べてみるならば、医者は、患者やその家族たちに対して発する言語が、あまりに、没コミュニケーションの内容となっているのだ。つまり、インフォームドコンセントなどという概念だけが独り歩きし、患者やその家族の心意を忖度することなく、いきなり、ガンであることを告知したりしているのを見たり聞くにつけ、わたしは、暗澹たる思いにとらわれてしまう。
しかし、本書を読んで、そんなわたしの思いは払拭され、著者のようなスタンスの医師が、もっと多く、医療の場所にいてくれることを期待したくなった。著者の次のような視線は、わたしが、いつも抱いていたありうべき医師と患者の関係性そのものである。
「医療者と患者との関係は、生命を任せる、任せられるという、その人の人生を決めるような関係でありながら、ある日突然つくられてしまう性格を持っている。その意味では『偶然的な関係』と呼べるものだ。しかもその関係は、医療の場という限られた空間のなかだけの関係でしかない。そうであるのに、そこに上下関係がうまれてしまう。」「患者と医療者との関係は、それだけ(引用者註・「治す、治される、という関係」)がすべてではないと思う。患者と家族のさまざまな感情の起伏をくみ取り、時には共に喜び、時には共に泣くという、極めて情緒的なものが、医療の側にも必要なのだと考えている。/私はその情緒的なものの中味を『寄り添う医療』と呼んでいる。『寄り添う』という言葉が意味するものは、簡単にいえば、『邪魔にならない程度に寄り添うこと』『必要とされた時にできるだけの支えになること』『その時の想いを(共有はできないが)共感すること』だと考えている。」
医療の側にも、「情緒的なもの」が必要だと述べていく著者の態度に感嘆せざるをえない。医師は、患者(やその家族)に対して、なかなか「上下関係」を逸脱して接してくれることがないからだ。治療する、されるという関係は、医療技術だけに還元できることではない。シンプルにいえば、医師(や看護師)と患者(とその家族)といえども、それは人と人との関係性なのだ。そもそも、「情緒的なもの」を排する必要はどこにもないといっていい。もちろん、医療する側からいえば、多くの患者たちの「死」に接して、その度に、その悲しみを共有することは、大変なことであることは、分かるつもりだ。だからといって、そのことに慣れていくことを、わたしは、良しとしたくはない。
「医療者は、患者の死を治療の延長上に位置付けており、患者の死は治療の終わりを意味する。(略)医療者と患者との関係は死をもって一つの終焉を迎えるが、患者の家族にとって、家族の一員の死は、家族としての関係の終焉を意味しない。むしろ新たな悲しみや関係への旅立ちが始まる。(略)医療者は、病院の外でも遺族とその悲しみを共有することはできないのであろうか。それは死を共有するという観念から始まるのであろうか。だとすれば家族と『死を共有する』ことは可能であるかという問いになる。」
小児科医である著者は、多くの低出生体重児と接してきた。それは、つまり、「生」が、絶えず「死」を孕んでいる世界なのだ。生まれてくることによって、絶えず、「死」の予兆を持って生育されていくことは、人間存在の基本的なことを暗示しているような気がしてならない。また、ダウン症というのは、病気ではなく「個性」の表れだと著者はいう。だから、医療者の「病気を治療してあげる」とうのは、患者に対する驕りだとする。
「私は、医療とは『思想を伴う行為』だと信じている。思想がなければただの行為であり、医術にすぎない。その思想とは、自己の培った意思の表出であり、相手(患者)の意思を引き出すものだ。その意思表出という共通の舞台が整った時に、医療の共同化が可能になるだろう。」
著者の、最後に込めたこの言辞は重い。「寄り添い、寄り添われる医療」とは、まさに、意思の共同性をかたちづくることなのだ。このことをたんに理想のままではなく、現実のものになるよう、わたしたちもまた医療の側に働きかけていくべきであろう。
(「図書新聞」12.2.18号)

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