『グラン・トリノ』を観た。
観始めて30分足らずで、これはヤバいと思った。エモーショナルではなく、完全に論理的なレベルでヤバい。ソワソワするぐらいのヤバさ。
これ程までにわかりやすくテーマを前面に出した映画もそうはないだろう。それを伝えるために、全ての台詞を含めた脚本の各部分が完璧に機能している。無駄な部分は全くなく、ストーリーの構成はほとんど説明的ですらある。徹底してロジカルでコンセプチュアル。
それだけにこれは危険な映画だ。おそろしく挑発的な映画でもある。こんな映画が「枯れたいぶし銀の老俳優が最後に残した良心的な作品」みたいに扱われて、手放しで絶賛されている状況はおかしい。
クリント・イーストウッドは、ある面ではこの映画の主人公、ウォルト・コワルスキーと完全に重なる人物だ。共和党員であり、筋金入りの保守であると同時にリバタリアンでもある。おそらくはかつての代表作『ダーティー・ハリー』のキャラクターと同じく、自律自衛の自警団思想の持ち主でもあるだろう。
しかし実際の彼は一筋縄ではいかない人間だ。ジャズに造詣の深いインテリであり、作曲にも非凡な才能を示す。役柄とは裏腹に一切煙草を吸わず、菜食による健康管理を実践している。
おそらく、彼のパブリックなキャラクターとそれが体現する思想は、彼自身の俳優人生、映画人生の中で意図的に選びとり、デザインし、身にまとってきたものだ。
彼自身のイメージそのものが生けるアートであり、映画を超えたひとつの表現なのだ。存在が個別の作品を超えてひとつのコンセプトを体現し続けているのだ。
こんな映画人は他にはいないし、これからも出てこないだろう。
イーストウッドのように「アメリカ」のイメージを体現することができる者は誰もいない。そのイメージは、例えばジョン・ウェインやその政治的バッド・コピーとしてのロナルド・レーガンのそれとは、全く異なるものだ。
イーストウッドの体現する「アメリカ」は、その手を有色人種の血に染め、恥と汚辱に濡れた「偽りの勝利」を手にしてきたウェインのアメリカとは違う。共産主義者を叩くと言いながら、アメリカ自身の国土を侵略し、蹂躙し、破壊してきたレーガンのアメリカとは違う。
イーストウッドのアメリカは、ウェインやレーガンのように傲慢に勝利するアメリカ、偽りの強さを誇るアメリカではない。強大な兵器で弱い民族や国家を蹂躙してきた恥知らずの卑怯者たちの国ではない。
内憂外患を抱え、苦悩し迷走するアメリカ。そして、そうであるからこそ今も荒野に雄々しく屹立し、人類普遍のモラルを代表し得る「もうひとつのアメリカ」なのだ。
それはまさにイーストウッドの出世作であった『ダーティー・ハリー』に、既に完全な形で表現されていたものだ。ハリーが苦渋に満ちた顔で悪党に向けて放つ長大な44マグナムの銃身は、イーストウッドのマチズム、偉大なるアメリカのマチズムを象徴していた。
彼の俳優としての最後の作品として作られたこの『グラン・トリノ』において、クリント・イーストウッドは、最後までダーティー・ハリーであり続ける。そのマチズムは、『グラン・トリノ』の中では巨大なアメリカ車という男根主義的シンボルとして、あまりにも無邪気に再提示される。
それはウェインやレーガンの「偽りの強いアメリカ」とはまた別の、しかし同じく巨大な幻想だ。
イーストウッドのアメリカは「普遍性」のアメリカだ。あらゆる人種、民族、文化に関わらず、英雄は英雄であり、卑怯者は卑怯者であり、悪党は悪党だ。少年は少年であり、いつか大人の男になり、守るべき大切なもののために戦う。
文化の違う、おそらく「男らしさ」の概念も異なるモン族相手であろうが、イーストウッドはその普遍性を適用することに躊躇しない。なぜなら「お前もアメリカ人だろう」というわけだ。
イーストウッドが夢想するのは、多文化、多人種、多民族によって成り立つ新しいアメリカだ。イーストウッドはそのアメリカの中に「守るべき」ものを見出だしている。
しかし、彼は間違っても単純なリベラルではない。
主人公のウォルトが行う行為は、キリスト教における「贖罪」だ。贖罪とは、他人の犯した罪のぶんも「責任を取る」「ケツを持つ」ということだ。キリストは全人類の原罪を一人で背負って十字架にかけられる。
ウォルト自身の「罪」は、一つには、自分が朝鮮戦争に従軍した時に少年兵も含めた多くの敵兵を殺したことだ。同じ有色人種であり、しかもベトナム戦争時に米軍に協力し亡命するはめになった小数民族、モン族の若者のために彼が行動するのは、その直接の贖罪行為だ。それはジョン・ウェインやレーガンのアメリカが有色人種や第三世界に対して行ってきた罪を象徴している。
映画の中でイーストウッドは、偉大なアメリカのために戦い、傷つき倒れていった歴史上の兵士たちに自らを重ね合わせる。ウェインやレーガンたちによって、偽りのアメリカのために戦い、血と汚辱に濡れた兵士たちの手を漱ぐために、イーストウッドは「戦地」に赴く。
その戦地は、かつてアメリカの兵士たちが戦った国外の戦場、偽りの正義の戦場ではなく、崩壊し、新たに生まれ変わろうとしている21世紀のアメリカの国土そのものだ。
しかし、彼が「責任を取る」のはそうした「アメリカの罪」についてだけではない。
古き良き保守的なアメリカに移民が流入し、若者が退廃し、コミュニティや家族が崩壊し、社会が混乱を極める現状、それら全てについて、彼は「責任を取る」のだ。
僕が、この作品が真に「恐ろしく」、「危険だ」と思うのはそこだ。
アメリカは新しい血を取り込み、急激に変貌しつつある。同時に、まさにそのことによってアメリカは混乱し、内戦状態にある。
「真のアメリカ」が、その内戦に勝利しなければならない。そのための礎に自らがなる。それがイーストウッドの演じるヒーロー像であり、『グラン・トリノ』のビジョンなのだ。
イーストウッドのアメリカを一言で言うならば、それは「強い父親」だ。多くを語らず、弱々しく迷える息子に背中で見本を示し、「真の男」として鍛え上げる。そして自らの命を投げ出して、その遺産を息子たちに託すのだ。
それを託すに足る息子であれ、というのがイーストウッドが観客に向けるメッセージだ。
イーストウッドの理想とするアメリカは、世界の諸民族・諸国家・諸文化をその傘の下に包み込み、偉大な父親のように抱擁する存在だ。無邪気に掲げられる巨大なアメリカ車「グラン・トリノ」のアイコンは、その父性の象徴だ。
息子たちよ、父は戦って死に、礎となる。その後ろ姿を見て育ったお前たちは、父の志を継ぎ、新しいアメリカを作っていけ、とイーストウッドは観客に語りかける。
『グラン・トリノ』は、いわゆる「良心的保守」という概念が、形を取って出現したらどういうものになるかを、完全に映像化した作品だ。「保守」であり、なおかつ「良心的」であるというのは、ひとつの巨大な矛盾だ。そこでは、決して更新されることのないモラルが全肯定されるからだ。
そうした矛盾を抱えながら、それらを一切処理することなく、信念に基づいてイーストウッドの映画は突き進む。その思想は宗教的であり、一種のファナティシズムに彩られている。
そしてだからこそ彼の映画は、他の映画人が絶対に真似できない、強大な力を持つのだ。
