秋葉原の無差別殺傷事件については、これまであまりにも多くの場所で多くのことが語られ過ぎていて、自分が何か書くようなことはないかと思っていた。
しかし、事件から3週間を経て、ここで自分なりの最終的な結論というか、考えをまとめておこうと思った。
巨大なインパクトを残した事件だけあって、世間の様々な勢力が、自分たちに都合良く事件を利用しているように思ったからだ。
犯行の特異性をオタク云々に帰したくない「オタク差別反対論者」や、事件を「小泉政治」「派遣労働」「トヨタ」のせいにしたい左派は、犯人の加藤智大が「どこにでも居る普通の若者」であり、「格差社会の犠牲者」だった、と主張する。そしてその逆の立場の人間は、犯行を加藤智大の個人的な資質や、「アキバ系」文化の異常性に還元しようとする。
僕はそのどの立場にも与しない。
加藤が、小泉政権が生み出した格差社会の敗者の側に属していたことは間違いない。しかし、派遣先でのトラブルは、単に事件の引き金、背景の一つに過ぎなかっただろうと思う。
おそらく間違いないだろうと思うのは、加藤が何らかの人格障害(恐らくその原因は親の教育などの成育環境)を持っていたこと、ほとんど被害妄想と言ってもいい尋常でない性的・社会的コンプレックスを抱えていたこと、そしてその犯行が徹底して「アキバ的」なものだったということだ。
少なくともそのライフスタイルを見る限り、加藤はまさに筋金入りの「アキバ系」だった。
元祖「オタク」と呼ばれた宮崎勤の時代、メディアは強引な決めつけを行って、新しい種族であるオタクのイメージを作り上げた。しかし、それから20年を経て、自らそのステロタイプにハマりに行くような加藤の徹底したオタクっぷりは、ある種の衝撃を覚えるものだった。
もちろん、悪名高い「ゲーム脳」に代表されるような、ゲームやバーチャル・リアリティと凶悪犯罪とを安易に直結させる見方については、以前から数多くの反論がなされている。
しかし今回の事件には、その犯行内容に、明らかなゲームやオタク文化の影響が指摘されている。
加藤智大は、美少女がナイフや弾丸で敵を倒すシューティング・ゲームの主人公が使うダガー・ナイフと呼ばれるナイフを犯行に使った。また彼は、別の美少女戦闘ゲームにもハマっており、原作アニメのセリフを友人の前で暗唱して気味悪がられている。
加藤は、土浦連続殺傷事件の犯人・金川真大が大会で準優勝した対戦型ゲームにもハマっており、その画像を友人に送ったこともある。土浦の事件については、今回の犯行にあたって、直接の影響を受けたことを加藤自身が認めている。
また携帯サイトの書き込みでは、アニメ化もされた猟奇連続殺人を扱うゲームのタイトルを挙げて「殺人を合法にすればいい」「車でひき殺す」などと、直接犯行のプランについても述べている。
犯行の2日前、福井市内のミリタリーショップでダガー・ナイフ6本を購入した加藤智大は、犯行当日の朝、そのうち1本を「形見」として友人に託している。その際、「プレイステーション2」や同人誌、CD、パソコン用のスピーカーを段ボール箱に一緒に入れて渡している。それは死を覚悟した加藤の遺品であり、彼の生きていた世界の全てだった。
加藤は、巷で言われるように「ゲームのやり過ぎでバーチャルとリアルの区別がつかなくなった」のだろうか?もちろんそうではない。
これは「文化」の生み出した事件なのだ。正確に言えば、異なった二つの文化圏同士の軋轢と、それを取り巻く社会構造の歪みによって引き起こされた事件だと思う。
事件は、観光地化した休日の秋葉原の歩行者天国ーー「アキバ」と「一般世間」と呼ばれるメインストリーム社会の二つの文化圏が出会う境界線上で起きた。「文明の衝突」ならぬ「文化の衝突」。それが今回の事件の本質だと僕は思う。
人間が重大な犯罪を犯す時には、その精神のたがを外させるものが必要になる。
加藤智大と同じぐらい、あるいはそれ以上の忿懣と鬱屈を抱えて生きている人間は無数にいる。それでも彼らは犯罪を実行には移さない。そこには大きな障壁がある。その障壁を飛び越えさせるものは何か。
人によっては、それが欲望や怨念の深さであったり、思慮の足らなさや精神障害であったりする。しかし多くの場合、その役割を果たすのは「文化」だ。
いわゆるヘイト・クライムには、特に「文化」の影響が大きい。アメリカの南部には、黒人を人間と見なさず面白半分にリンチしても良い、という文化があるし、ヨーロッパのネオナチには、パキスタン人に同じことをしても良い、という文化がある。2ちゃんねるのネット右翼には、韓国・中国や創価学会のことならいくら叩いても良い、という文化がある。
憎悪や偏見、被害者妄想をベースにした特殊な文化は、人間の思考を停止させ、本来なら社会の大多数には受け入れられないはずの行動を自己正当化し、その裏付けになる。
また多くの連続殺人犯は、その犯行にあたって明確なスタイル、個別の「文化」を持っている。それらは、単なる手口の違いを超えて、捜査側による犯人の区別や同定の重要な手掛かりになる。(今回の事件について、そうした犯罪学的な分析がほとんど為されていないように見えるのは不思議なことだ。)
この見方は、加藤智大の犯行がなぜここまで「アキバ的」なものになったかということへの、一つの答えになるだろう。
しかし、それだけでは説明のつかないことがある。加藤が襲った街がなぜ「秋葉原」だったのかということだ。
彼が襲撃するべきだったのは、本来ならむしろ彼が「勝ち組」という言葉で言い表していた、「アキバ」を取り巻く異質な文化圏、日本のメインストリーム社会だったはずだ。例えば銀座の歩行者天国に突っ込んだり、六本木ヒルズやお台場でダガー・ナイフを振り回したりしても良かったのに、なぜ加藤はそうしなかったのか。なぜ、本来の嫉妬と憎悪の対象ではなく、自分の拠って立つフィールドである「アキバ」を襲ったのか。
彼自身が供述しているように、彼が歩行者天国のある繁華街を秋葉原しか知らなかったということもあるだろう。しかしそれは本当の理由だろうか。
加藤智大には、秋葉原を襲撃しなければならない理由があったと僕は思う。彼は秋葉原を憎んでいたのだ。
オタクはなぜオタクになるのか。「好き好んでなる」わけではない。競争から脱落した結果、「やむを得ず」オタクになる(本人たちは否定するだろうが)。
高度資本主義社会、高度競争社会は、社会の内部に「敗者」を必要とする。経済力、政治力、腕力、性的魅力。人々は、それら全てが比較され、優劣をつけられる激しい競争社会の中で、他人を蹴落とすこと、見下すことで、ようやく自分の地位を維持し、心の安寧を得る。
しかし資本主義システムは、その敗者たちにも、目先の感情や欲望を擬似的かつ安易に満足させる「受け皿」を用意する。それはシステムの安定のために設けられた安全弁であり、またその「受け皿」自体が搾取の手段でもある。
資本主義システムは、社会の敗者であるオタクをバカにし嘲笑うことを、ひとつの娯楽としてメインストリーム社会に提供しながら、同時にオタク産業を育成し、メインストリームへの浸透を助長してきた。
ひたすら趣味に生きるオタクたちは、消費者として理想的な存在だ。彼らは収入の大部分をアキバ系商品の購入に注ぎ込む。加藤智大は、派遣労働で稼いだ金のどれだけを、アキバ系アイテムの購入に費やしたのだろうか。
「絵(アニメ)と恋愛する方法を調べてみた。そのキャラのためにどれだけお金を使ったかが愛情の証しらしい」(加藤智大の掲示板書き込みより)
オタクは、資本主義社会の敗者・被搾取者でありながら、同時に最も資本主義的な人々でもある。それは彼らのイデオロギー的な側面にも現れている。オタクの大部分は究極的なノンポリであり、あるいはそれが行き過ぎた結果としての右翼である。
資本主義体制のもとで虐げられながら、その体制に意義を唱えず、物質主義と商品経済にどっぷり浸かってカネを使い続ける。オタク文化は、それ自体が資本主義と競争主義への恭順の形態なのだ。
加藤は、メインストリーム社会に対する、アキバ文化のどうしようもない無力さに絶望していたのだと僕は思う。
いわゆる「エロゲー」(擬似恋愛ゲーム)にのめり込んでいた加藤智大は、現実の女性への欲望を捨ててはいなかった。加藤は、「これまでは2D(2次元)にしか興味なかったけど、そろそろ3Dに落ち着かないとヤバイ。女の子を紹介してくれ」と友人に頼んでいたともいう。
加藤は、2次元の女性にしか欲望を感じない、筋金入りのオタクにはなれなかった。(ただし、理想のタイプは「背が小さくてアニメ声で、巫女さんの衣装が似合う娘」だったそうだが。)
しかもその欲望は、極めてメンタルなものだった。同僚に連れられてキャバクラやソープランドに行っても、彼の「メンタルな性」への渇望は満たされなかった。
メインストリームの敗者によって構成されながら、「サブ」ではあっても決して「カウンター」ではなく、「オルタナティブ(代替物)」にも成り得ないーー事件は、そのオタク文化の持つ根本的な歪みが、加藤智大の精神と肉体を通して噴出したものだと僕は思う。
加藤は、競争に敗北し、アキバ的な世界でしか生きられない自分自身を、アキバ文化自体を嫌悪していた。それは、彼の肥大した自己愛の裏返しとしての、強烈な自己嫌悪、自己否定の感情だった。
この社会のメインストリームから弾き出され、「外部」としてのオタク文化圏に追い込まれながら、そこにも安住できなかった加藤智大は、「外側」からこの社会の、そして「アキバ」の本質を見抜いていた。
加藤智大は、そんなシステムの中で生かされている彼自身、「アキバ」自身を終わらせたかったのではないか。社会システムの変革、あるいは自分自身の人生の変革という根本的解決から逃げ、バーチャルな世界に遊び続ける、彼自身をも含めた「アキバ的なもの」全てにケリをつけたかったのではないだろうか。
加藤智大は、彼自身の分身でもある「アキバ」と心中しようとしたのだ。彼に思いつく唯一の方法、最も「アキバ的」な方法によって。
今回の事件を、格差社会、派遣労働、小泉政権――そういった限定され、特定された政治的・社会的テーマで語ることはできない。
それは我々の暮らす社会の根本的な構造ーーダーウィニズム的生存競争の「戦場」としての資本主義社会、そしてその敗者にも「生かさぬよう、殺さぬよう」虚しく延命を続けさせる、死よりも残酷なシステムが生み出した惨劇なのだ。
