今年1月末に起きた中国産毒入り餃子事件は、かつての反日騒動以上に、日本における中国という国のイメージを決定づけた。事件以来、日本社会の中で「中国産」は一種の禁忌になってしまった。
今年の北京オリンピックを前に国際的なスキャンダルを認めるわけにいかない中国政府は、毒物が中国の工場ではなく日本で混入された可能性を示唆するという挙に出た。日本国民が納得するはずもなく、中国産食品のイメージはどん底まで下落した。
実は中国の工場では、同様の事件が過去に多数起きており、その背景に労使対立があるというのは、現地事情に詳しい人間の間ではもはや常識になっているという。
毒物混入は、工場の劣悪な待遇に対する労働者による
サボタージュである可能性が高く、それは労働争議の手段として、あるいは虐げられた労働者の憂さ晴らしとして、しばしば行われているのだろう。今回の事件は、毒入り製品がたまたま日本に輸出されて被害者まで出てしまったために、大騒ぎになっただけのことかも知れない。
現に餃子を製造していた天洋食品では、3年前にも同様の事件が起きていたという。この企業は日本向けの輸出品製造で有名だったが、従業員たちは月給わずか1000元(約1万5000円)で、休みなしで1日13時間も働かされていた。これは中国の安い給料の相場からしても、かなり低い方だという。
その一方で、「野菜をきれいに洗うなど、衛生面は良かった」ともいうから、給料に見合わない高度な衛生管理を従業員に要求していたことがわかる。また、それだけの衛生管理下で毒物の混入が起きたとなれば、それが人為的なものだった可能性は高くなる。
元従業員によれば、昨年末に餃子製造ラインの約100人の従業員のうち14人が理由もなく「強制辞職」させられたともいう。中国当局の威信をかけた捜査にも関わらず、容疑者は出て来なかったが、この工場の経営実態が、労働者から相当な恨みを買うようなものだったのは確かなようだ。
今回混入していた毒物が強力な農薬のメタミドホスだったというのは、まさに示唆的だと言える。工場で働いている工員の大多数は、貧しい農村からの出稼ぎ労働者(
農民工)だからだ。
毒餃子事件に絡んで放送されていた日本の農薬使用状況についてのテレビ番組を観ていて印象的だったのは、「農薬をいちばん使いたくないのは実は農民なのだ」という農家の人のインタビューだった。農薬による健康被害を真っ先に被るのは、それを田畑に撒く農民だからだ。
日本で禁止されているような強力な毒性を持つ農薬を使わざるを得ない中国の農民は、それだけで悲劇的な存在だと言えるだろう。
今回の餃子事件以前から、中国の生産物には、農薬や産業廃棄物などの有害物質による汚染が指摘されてきた。最近では子供向けの玩具に有毒な塗料が使われていたことが世界的な問題になった。
玩具問題がクローズアップされ始めたあたりから、欧米の「意識の高い」人々の間では、「
チャイナ・フリー」という言葉が使われだした。
「○○・フリー」というのは「○○を使っていません」という意味で、例えば砂糖を使っていない製品は「シュガー・フリー」となる。ドラッグをやらない人はドラッグ・フリー、アルコールを飲まない人はアルコール・フリーとなる。「この製品は中国を使っていません」「私は中国という「毒」を摂取しません」というわけだ。
中国人への微温的な蔑視の意識を含んだこの言葉は、20世紀初頭にアメリカで唱えられた「
黄禍論」を思い起こさせる。
しかし、こういう言葉が出てくるのは、現代の世界がいかに中国に依存しているかの裏返しでもある。米国の女性経済ジャーナリスト、サラ・ボンジョルニは、「中国産の品物なしで生活をしてみよう」と思い立ち、その顛末を『メイド・イン・チャイナなしの1年間』という本にして出版した。しかしその結論は、「中国製品を断てば携帯電話さえも使えなくなる」というものだった。今や世界経済は、中国の労働者の安価な労働力がなければ成り立たないのだ。
中国が先進国世界にもたらすもうひとつの「黄禍」は、膨大なコピー製品、偽ブランド品だ。
中国で作られるコピー製品は、本物を作っているのと同じ工場で作られているとも言われる。さすがにそれは極端だが、先進国企業の工場で働きながら技術を身につけた職工たちや下請け企業が、コピー製品を作っているのは間違いないだろう。
コピー製品は、言わば「世界の工場」と言われる中国が産み出した「アウトレット品」だとも言える。そこには、先進国によって労働力を安く搾取されてきてた中国人のしたたかな逆襲としての側面がある。
最近でこそ取り締まりを強化している中国政府も、かつてはコピー製品を半ば容認していた。コピー製品製造は、中国の経済発展の重要な原動力のひとつになったとも言われる。
中国は、文化大革命が終わると同時に外国企業の工場を積極的に受け入れ、労働力を提供してきた。自国民の安い労働力を他国に売ることによって外貨を稼ぎ、猛スピードの経済発展を遂げてきた。
ある雑誌に載っていた、中国の工場の通勤風景を写した写真は、衝撃的なものだった。
工場に隣接した寮から女工たちが列をなして出て来る。彼女たちは、わずか数メートルの距離を歩いて工場の入口でタイムカードを押し、「出勤」する。彼女たちの生活空間は、工場と寮の間の数メートルだけで完結しているのだ。
僕が中学生の時に、いわゆる
天安門事件が起きた。北京の天安門広場に集まった学生たちを中心とする民主化運動に共産党政府が徹底した武力弾圧を加えたこの事件は、世界に衝撃を与えた。
当時は冷戦の末期で、東側陣営の国々は、いずれも民主化運動による体制崩壊の危機に瀕していた。
中国は、トウ小平の指導のもと、ソ連と共に崩壊しつつあった共産主義諸国を横目に、「
改革開放」によっていち早く西側との経済関係を強め、市場経済化を進めていた。表向きは社会主義体制と共産党支配による国家の統一を維持しながら、毛沢東と文化大革命の負の遺産を精算し、開発独裁による国家資本主義体制へ移行するという大事業を成し遂げつつあった。
その中国共産党にとって、共産党政権の転覆につながる民主化運動の弾圧は国家的命題だった。
しかし、この時民主化運動を弾圧したことが、現在の中国の抱える様々な問題の遠因になった。
トウ小平の後を継いだ江沢民政権は、天安門事件の再発防止のために政治的安定を最優先し、教育水準が高く情報化の進んだ都市住民の不満を抑えるために、都市部の発展に重点を置き、農村部の貧困を放置してきた。
その結果、中国の沿海部の都市と内陸部の農村地帯には、実に13倍と言われる経済格差が生じた。
今や北京や上海などの沿海部の大都市には、高層ビルが林立し、世界一の購買力を持つと言われる富裕階級が生まれつつある。
その一方で、内陸の農村部には「
三農問題」と呼ばれる深刻な社会問題が生まれた。インフラは整備されず、産業は育たず、役場などの公共機関さえも資金難のため機能しないという事態が生まれている。
貧しい農民は、井戸もなく、何キロも離れた水源地まで水を汲みに行かなければならないような環境に暮らしている。子供たちの多くは、教科書代が払えないために小学校に行くこともできない。怪我や病気をしても医者にかかることもできない。
超学歴社会である中国においては、教育の機会に恵まれた者だけが富を手にできる。貧しい農民たちは、その境遇を抜け出す最後の手段として、一人っ子政策によってたった一人しか生むことのできない我が子に希望を託し、その学費を稼ぐために都市の工場や建設現場に出稼ぎに出て、信じられないような安い給料で過酷な労働に従事する。彼らがその工場で作られた製品を買うことはないし、建設現場に建てられたビルに完成後に足を踏み入れることもない。
親たちが留守の間、子供たちは村の経営する託児所で共同生活を送る。粗末な食事と雑魚寝の、まるで難民キャンプのような生活だ。
一年に一度しか子供に会えない親たちは、帰省の際に子供への土産を買うこともできない。子供たちは、先進国の人間が「毒が塗ってある」と忌避する安価な玩具さえ買ってもらえないのだ。
こうした出稼ぎ労働者によって、中国国内には巨大な流動人口が生まれ、都市周辺の治安は悪化し、街頭にはその日の職を求める人々と、彼らと同じ農民出身の売春婦たちが立つ。
21世紀を生きる豊かな中国と、古代世界に取り残されたような貧しい中国。共産党の強権によって統一を維持してきたこの巨大な国家の中には、今や二つの「中国」が存在している。そしてその二つの「中国」は今激しく衝突し、体制を揺るがそうとしている。
ポスト文化大革命期の中国は、トウ小平が唱えた「
先富論」=「可能な者から先に裕福になれ、そして落伍した者を助けよ」という改革開放の基本原則のもとに、自由放任的に資本主義を加速させてきた。それは、文化大革命に象徴される社会主義中国の「悪しき平均主義」への反動でもあった。
しかし、そうした共産党政権の国家的テーゼ、道徳的権威は、とっくの昔に失墜している。
かつて万人の平等を目指したはずの「社会主義国家」中国は、世界にも稀に見る超格差社会になってしまった。
中国は、世界の多くの資本主義国と同じく、実際は自由な競争社会などではない。
現代中国の新興富裕層を構成する企業家たちは、その多くが共産党幹部の子弟だと言われる。彼らは生まれながらにして恵まれた地位にあり、高い教育を受け、起業のための人脈を築き、利権に群がることができる。旧ソ連で「
ノーメンクラツーラ」と呼ばれた「赤い貴族」が、現在も政治と経済を支配し、民衆を搾取しているのだ。
人民共和国の理想はどこへいったのか。労働者階級の敵を打倒することこそが、共産党政権の存在意義ではなかったのか。
僕はこのテキストの中で、日本国内の右翼勢力が煽るような、中国に対する様々なデマや脅威論に与するつもりはない。しかしだからと言って、もはや中国が善良無垢な発展途上国で、アメリカを軸とする西側の反共プロパガンダの犠牲者であるなどとは到底思えないのだ。
今や中国共産党は国民に対する国家的な搾取の機関であり、国民の労働力を海外に売り渡す奴隷商人と化している。この体制を根本から変革、あるいは打倒しなければ、中国の民衆に未来はないだろう。
また、そんな現在の中国を作ってきたのは中国人だけではないことを忘れてはならない。世界規模で運動する資本主義システムが、その必然として「中国」を必要とし、「世界の工場」として育ててきた。12億の中国人民の血と汗と涙と引き換えに作られた不当に安い商品を消費し、繁栄を謳歌してきたのだ。
しかし今や、労働市場のグローバル化によって、世界の労働力は中国をはじめとする第三世界や移民のそれと常に比較され、労働の価値は下落を続けている。
その影響をこれから最もこうむるのは、小泉新自由主義「改革」によって、巨大な下層階級を形成し始めた日本の労働者だろう。これから日本は、中国を中心とした経済圏に否応なしに組み込まれていく。日本の労働者は、中国の労働者と同じ労働市場の中で比較され、容赦なく労働力を買い叩かれることになる。
既に日本企業の間には、日本国内向けの
コールセンターを中国に設立するなどの動きも活発化している。そこで働くのは、中国人ではなく日本人の若者たちだ。彼らは語学が習得できる、などと言葉巧みに誘われて送り込まれ、日本の労働基準法以下の給料、中国人労働者と同じレベルの給料で働かされ、帰国のための旅費を貯めることさえできずにいる。(こうした雇用形態の先鞭をつけたのは、堀江貴文率いるあのライブドアだった。)
世界は「チャイナ・フリー」を目指すべきだ。「中国製品は買わない」などという短絡的な不買運動ではない、真の「チャイナ・フリー」を。
先進国の市民は、社会的・階級的な視点を持ち、世界のどこかの誰かがわずかな給金と過酷な労働で作ったものを、安いからと言って使うのをやめなければならない。世界中の労働者との間に連帯の意識を持ち、彼らの地位の向上のために自分たちに何ができるかを考えなければならない。
中国人は、自分たちの食べるもの、使うものを、特権階級や外国の人々のためではなく、自分たちのために作るようになるべきだ。中国だけではなく、世界の人々が究極的にはそうならなければならない。
真の「チャイナ・フリー」な世界とは、人間が他の人間の搾取の上に幸福を享受するシステムから、人類が自由になる世界のことだ。
