いよいよ、イシス・ネフェルトが父王の後宮(ハレム)に入る日がやって来た。
同じ頃にヒッタイトから嫁いで来た皇女は、自分が第4正妃であることを不満に思っていたが、現在のケムト(エジプト)と自国の国力を考えると、黙って耐えるしかなかった。
イシス・ネフェルトは思った。
女は、どうして自由に生きられないのだろう・・・。
母上は、父上に愛されて、お幸せだったのだろうか・・・。
その思考は、後宮(ハレム)の侍女たちの言葉で中断した。
「さあ、イシス・ネフェルト王女様。お美しく出来上がりましたよ。ファラオも、きっとお気に召すでしょう」
ラーモーセは、父王の第3正妃「イシス・ネフェルト王女」として、正妃としての立派な部屋で、夫たるファラオを待っていた。
なんだか、妙な気分だった。
実の父親と夫婦になるなんて・・・。
わたしは、身分の高い側室から生まれたわけではないし、王権を伝えるためでもない。
父王は、60に手が届くとはいえ、まだまだ元気で、暗殺でもされないかぎり、その地位は安泰なはず。
父上・・・わたしは今夜、あなたと刺し違えるつもりです。わたしが愛しているのは、カエムワセトだけ。他の男など、まっぴらなのです!
扉の開く音がした。
イシス・ネフェルトは、ベールの裾を持ち上げ、父王にうやうやしく礼をした。
「・・・イシス・ネフェルト・・・この名は、わたしがつけたものだ。母に死なれた身なれば、生涯女神イシスの祝福を受けるようにと・・・。どうした・・・?緊張することはない。面(おもて:顔)を上げよ」
彼女は、「夫」の言うとおりにした。そして、思わずぎょっとした。
あの「征服王」とうたわれたラーモーセ2世が、涙を流していたからだ。
「イシス・ネフェルト・・・ネフェルタリ(亡き第1正妃で、カエムワセトの母)によく似ている・・・。
彼女とは、ままごと遊びをして育った、異母姉(あね)と異母弟(おとうと)。わたしは、あれを子供の頃から愛していた・・・」
だが、ネフェルタリは父の正妃のだた一人の娘。皇太子である、異母兄(あに)の妻に定められていた。
わたしは異母兄を殺し、ネフェルタリも「ファラオ」の地位も奪った。
ひとはわたしを「征服王」と呼ぶ。
ヒッタイトのムワッタリと互角に戦い、講和条約を結ぶまで十数年の時を要した。
その間に、「わが唯一の女性」であるネフェルタリはこの世を去り、わたしは胸にぽっかりと穴が開いたようだった・・・。
第2正妃も、ヒッタイトの皇女である第4正妃も、まわりが勝手に決めたことだ。
だた一人、スネフェルだけは違った。ネフェルタリと同じように、わたしを恐れなかったのは、彼女だけだった・・・。
私が真に欲しているのは、イシス・ネフェルト、そなただけなのだ。
イシス・ネフェルトは、懐に隠し持っていた、短刀を握りしめた。
今 ここにいるのは、「征服王」・「専制君主」である「ラーモーセ2世」ではない。
ただの、亡き正妃を想う哀れな老人・・・。
父上、あなたはわたしを引き裂いた。
「でも・・・わたしには殺せない・・・・・」
ナイル河の氾濫は、ペル・ラーモーセ(当時の都)の王宮を侵食するまでになっていた。
今年は、その水量は異常だった。
イシス・ネフェルトは、静かに父王に言った。
「ナイル河の神は、クヌム神。クヌム神のお怒りを静めるために、女神「イシス」の名を持つわたくしがいけにえとなりましょう」
そう言うなり、部屋の窓から、ナイル河に身を投げた。
ラーモーセ2世は、叫んだ。
「イシス・ネフェルト!!」
注.クヌム神:ナイル河の源流の神。ナイル河の女神は、ハピ。マンガ「王家の紋章」にも登場している。

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