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『愛と妄想の日々。』さんで、タバコに火をつけたら炎上している。
お名指しでエントリーを書くというのはあまりやりたくない手法なのだが、ココんトコ自分の中でも何度かエントリーを書こうとしながら、うまくまとめられない状況があるのでこういうカタチでまとめてみよう、とか。今社会に関して持っておられる問題意識は近いんじゃないかなあ、と勝手に共感させて頂いております。
本来はメッセージなので敬語文で書くべきですが、思うままを書き留めるこちらのスタイルで行きたいので、乱暴な文章をご容赦ください。
▼そもそもは、喫煙に関するお話でこちらから暴論エントリーをトラバさせて頂いたコトに端を発するのだが。俺はコメント欄への発言もならぬまま、収束してしまった。
有益な議論をなさろうとしていたご本人が、一旦流れを打ち切られたコトに象徴されるように、ある種の嫌煙ロビイストは妥協なき言葉の暴力により、あたかもノルマのごときお決まり文句を一方的に並べ立てる。「不快でしたかそうでしたかご迷惑でしたね」と付け入る暇を与えず突然会話を打ち切って終わる。
このあまりにも「型どおり」の展開を毎度見るに付け、俺は嫌煙ブームはどうも何らかの思想的・集団的背景を感じざるを得ないのだが。いわく、
■「タバコを喫うなんて最低の行為」
とまず人間性すら否定するような罵倒で、相手を怒らせる。
■「私はタバコの煙アレルギーで、苦しんでいます」
とひるませ、相手の本来あるはずのタバコを吸う自由そのものをを枷にはめる。続いて、
■「モラルのない喫煙者のお陰で、普通の喫煙者も迷惑してるでしょう」
と理解あるような姿勢を見せつつ、相手を安心させる。だが、
■「公共の場で煙を垂れ流すことは、私にとって地獄です」
と返す刀で相手が見せた<後ろめたさ>に引っ掛かりを植えつけ、
■「どうやら理解しあえないようですね」
などと、説得・共感をもって紳士的に語ろうとする相手を切り捨てて終わる。
▼この展開は、ネット上でも実生活上でも俺が何度も出会ってきたパターンだ。こりゃもう俺の陰謀論と笑ってもらって結構なのだが、健康増進法が国会通過する前後からこのパターンに出会う頻度が増えたコトと、それを口にしたある人物が特定宗教の敬虔な信者であるコト、この辺りからどうも、そういう知恵を入れた誰かがいるんじゃないかと、勘繰ってるんだけどね。
その意味で例えば今回『愛と妄想の日々。』さんに現れた「超嫌煙者」さんは、それが自分の意見か他人の借り物の意見かはもはやどうでも良くて、こうして発言するコトがノルマ化してるんじゃないかと茶々入れたくもなる。
正直嫌煙者の一部が口にする「タバコの煙アレルギー」の実在も疑ってかかる必要があるんじゃないか、とすら思っているのだ。
ま、さらにつまらん妄想広げると、それと同時期に通った厚生労働省絡みの法律通過が実際の目的で。結局その残った亡霊が今もうろうろしてやがるんじゃないのかな。
イヤ妄想ですよ?
▼ま、この「不快」「自分勝手」「俺正義」を学問なり法律なりで自分勝手に裏打ちして、相手と妥協点を探るつもりもないクセに、ただねじ伏せるという手法は最近妙に流行ってますわね。
例えば健康増進法にしろ人権保護法案にしろ青少年保護条例にしろ、何がしか相手の後ろめたいところを確実に突き、しかも滅多刺しにしながら立ち直る隙も与えず、もちろんこっちの言うコトにいささかも耳を貸さず、「俺語り」だけをして押し切るという。「政治的」なキナ臭さ、「宗教的」なキチガイじみた熱狂のニオイがこちらの居心地を悪くさせる。
もう一つ妙に動員されたかのごとき「熱狂」てーのもあちこちで起こってて、それは決して一枚岩ではないマスコミ内部で、突然氷山の一角を顕してたりして、
それこそこちらを不快にさせるのだけど。
なんだかあるグループのヒトがいて、燃料入れるとファナティックに一方向になびいているような、思考のカケラも感じないペンギンの群れがある様な気がして仕方がない。
そういう意味じゃ『韓流』も『愛・地球博』も『マツケンサンバ』も『ゲーム脳』も胡散臭いコトこの上ない。「大ヒット」も「ブーム」も自分とは全く関係ない世界なんだなあ、何故かな?
▼次に。
コレは上に書いた「グループ」とはまた違う一群だと思うのだけれど、<ライブドアvsフジテレビ>と図式化された今回の株転がし騒ぎについて。
こちらは良くも悪くも堀江社長の切り込み先が、間違いなく構造改革が必要な、既存の電波持ってるマスコミ産業へ向いているがゆえに、過剰に思い入れてしまうヒトがいるようだ。イヤ中にいてさえ(末席も末席ですが)、このままじゃイカンと思ってますよ、全員とは言わないまでも最前線にいればそういうモノだと思うです。それをどういう立場でどういう方法論でやらねばいけないか、どう変わるべきなのかを試行錯誤してるに違いないんだけど。
ま、革命幻想ってのは確実にあって、ある日突然英雄が現れて、自分の不満がある対象へ一気に攻め入り、あくる日にはまったく別の新世界が開けている…そんな甘い夢を、コトこのマスコミ界には求めてしまうウブな感性がまだまだ一般に支配的なんだなあ、と溜息ついてしまうんですが。
▼堀江社長が、なぜそういった人たちの耳に心地いい挑発的な言葉をどんどん発することが出来るのか。そして受けて立つマスコミサイドが歯切れの悪い言葉を発しながら、どっかに気を遣ったような物言いをのらりくらりとするのか。あるいは十年一日のごときアナクロニズムに満ちた言葉を紡ぐのか。
その理由は実に簡単なコトなんで、堀江社長は今のところ自社の投資家に対してはさまざまなものを背負ってはいるが、本質的にマスコミに対して無責任な立場にいるからだ。マスコミのシステムなり権益なりから自由でいるからだ。
ココ重要よ。
一方で受けて立つフジテレビサイドは、今までの政治とか、争いの屍とか、さらにはその上にあるシステムにも気を遣いながら喋らざるを得ない。
少し置き換えてみれば分かるだろう。
自分の会社なり業界なりがそういう事態に遭遇した場合、当事者である人間がどのくらい、事実・真実に触れる発言や行動が出来るだろうか。ま、それにしても今回明らかになった業界の脆弱な状況と自分の無知には、ちょっと自分の立ち位置への考えも引き締めなおさんとイカンな、と激しく反省したが。
▼そういう意味で、堀江社長の言葉を超えて、自分の「こうあるべき」を勝手に乗せて英雄視するのは別に構わないのだが、それは堀江社長の一連の行動を応援するコトへと零落して、雰囲気でマスコミへの不満をぶつけてコト足れり…としちゃイカンのではないだろうか。実際、
先のエントリーに上げたとおり、堀江社長そんなにマスコミにとって革命的なことは言ってはいない。
■自分はどういうマスコミの姿が欲しいのか?
■あるいはどういう選択肢が増えることが望ましいのか?
■それはどうやって受け取りたいサービスなのか?
その辺を曖昧にしたまま、「ビバ!ライブドア」なんてやってると、緩やかに変わるであろう今後のマスコミのあり方に追随しながら、床屋政談よろしく不満ばっかり述べ立てていくコトになるだろう。
▼めも。
ちなみに人権擁護法案についても、人権委員会のあり方に大いに疑問がある。委員会自体の正当性を常時監視する機能がないとか、誤謬を糾す機会に関して言及がないとか、それがないにしても危険な権益を持つ可能性があるとか、いろいろと不満はあるので基本的には、今のままでは反対だ。
が、俺は実名や今の立場に近いコトをネット上で表明してしまっているので、どうすれば前向きに運用され得るのだろうか、とそれを推す人々(これまた一枚岩じゃないぜよ)の意図と折り合える部分で、洗い出せる問題点を思考中。
マスコミが今回妙なトコロで手打ちしようとしてるのも、今国会ではこれ以上審議が進まないだろうという楽観以上に、その人々の問題が絡んでいるからだ。

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