こんな新聞記事を見た。
■「イタリア映画『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』 イタリア人監督が日本アニメ、しかも70年代の『鋼鉄ジーグ』を選んだワケ」
「超能力を得たローマのチンピラ青年、エンツォが、『鋼鉄ジーグ』マニアの女性、アレッシアにさとされ、正義のために立ち上がる−」
…違う。微妙に違う。「青年」やない、おっさんや。そのおっさんがさとされるんやないねん。主人公自身が気付くねん!そこがエエねん!…と微妙に芯へ届かない紹介があったり。あるいは、
「『日本でのジーグの不人気ぶりは納得がいかない』と不満」
…ちゃうねん監督!あの頃観てたみんなはタカラの玩具「マグネモ」で遊んでてん!ただ、それを知らん連中が考えなしにしれっとマイナー扱いして、監督のインタビューに臨んでるだけやねん( ゚д゚)!
…と、読者にしてダイナミックファンの俺としては、ポジションバリバリ前面に出しながら、言い訳の一つも言いたくなるインタビューだ。
コレ、他の各誌での監督インタビューでは「不満」としては述べていないコトから、この記者が「御膝元の日本ではマイナーなんだけど、どう思います?」とあえて聞かないと出てこないコメントだと思う次第。岡本氏はたぶんお年がかなり上だから、アトム・鉄人・マジンガー・ヤマト・ガンダムくらいしか知らないのよね。
で、「日本ではマイナーな作品だけど、海外で大いに評価されている、ニッポンスゴイ」トリビアに落とし込もうとしてるワケですわ。わかる。わかるがそこで「メジャー/マイナー」の評価軸を割とマジで使っているらしいあたりがちょいとカチンとくる。
▼ちなみに『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』自体は、「いまは時代遅れかもしれないが、かつて人気を博したロボットアニメがあった」くらいの知識で観に行っても全く支障がないばかりか、ダークヒーロー誕生映画として普通に面白いので、はみんな観るが良いよ!
▼さて、ダイナミック村やスパロボ村で知られているジーグも、「昔のロボットアニメ」扱いされても思い出してもらえるだけいい方なのは分かってる。更に一部の邦画・米映画が「メジャー」な大手マスコミシーンや、世のアニメ映画はジブリとディズニー…な人から見たらそりゃ「マイナーもマイナー」なんだろう。
…けども、指標としては甚だ曖昧な言葉よね。
この記事をしょうがねえなあ…と思うのは、「日本ではマイナーなジーグが、海外で超有名」という切り口。それだと凡庸な「ニッポンスゴイ教」で終わっちゃうんだよね、ハナシが。
逆に「イタリアでメジャーだとして、それは例えばイタリア人の間でどう知られていて、どう映画的に"イケる"と内容的・商売的に判断できたのか」って裏打ちインタビューに至れない記者の不手際じゃないかなあ…と思うんですわ。その方が他に出ないエピソードとかありそうだし。
イタリアではハロウィーン用のコスチュームまであるし、フランスの乗用車ルノー・クリオのイタリア版CMにジーグの主題歌が選ばれたみたいな、そういった帰化の実際を掘り出せたら面白いのにね。
また国内においても放映開始の翌年、1976年には100万個を売り上げ、玩具自体の売り上げが良かったために放映が延長された。1998年には復刻玩具が出た上、2007年にはリメイクあるいはインスパイア作品である『鋼鉄神ジーグ』まで制作された。加えてゲーム『スーパーロボット大戦』にも採用されているキャラクターなんで、やはり「メジャーでない」というには語弊があるのではないか。
▼「メジャーでない」という人の言い分としては、いわゆる「研究本などが出ないじゃないか」、社会やアニメの表現を変えた、みたいな「歴史的に意義がある的な見方はされないよね」…とかあるだろうけど、「巨人・大鵬・玉子焼き」の時代じゃあるまいし。極端なハナシ、ウルトラ・ライダー・戦隊・ガンダム以外は全部マイナーになるやないですか。
▼なので、そういう振り返り方をされない理由については考えておきたい。
『鋼鉄ジーグ』は『グレートマジンガー』のメインスタッフ…当時の劇画タッチを際立たせたグループが担当した。同時期の小松原・荒木タッチの流麗さが際立つグレンダイザーや、EDに代表されるシャープなイメージのガイキングに比べると、より「絵柄とムード」が時代と合致し過ぎてたために、振り返られにくかったのかもしれない。
実際『グレートマジンガー』と『鋼鉄ジーグ』は作風も絵柄も一番近しいアニメだ。その前にあらゆるスタンダードとなった『マジンガーZ』がまずその基準にあるのね。予め主役であるコトを疑わない主人公・兜甲児のアンチテーゼとして次作品『グレートマジンガー』の剣鉄也が設定された。
『マジンガーZ』は「光子力」の技術と富士の麓にしか産出しない「ジャパニウム」を、Dr.ヘルやミケーネから守るっていう資源争奪と専守防衛がストーリーの骨子。で、もうその構図はあるモノとして戦闘表現とその動機や理由に特化させたのが『グレートマジンガー』だ。なので、甲児と違ってやや斜に構えた主人公・鉄也は自らのアイデンティティを正当化するために、肉体的・精神的試練を乗り越え続けるのがストーリーの主眼だ。それがシリーズの「戦う理由」にもなり、『Z』に比べると「戦うための戦い」といったある種の主客転倒を起こしている。
更にジーグはそれが純化された趣はあって。古代王朝の復権と現代科学ニッポンの戦いという構図はある。あるパワーを持った銅鐸の奪い合いみたいな、資源争奪戦のプロットもあるにはあるのだが…主人公・司馬宙はサイボーグとして、剣鉄也の流れを受け継ぐ、個人としての幸せと社会正義の狭間で悩める青年として描かれているのだ。
アイデンティティを求め血を流しもがく姿の体現者として、剣鉄也や司馬宙たちに劇画風という、骨太で肉体表現をリアルにした絵柄が選ばれているのは自明なんだけど。振り返ればそれは、1970年代後半から80年代に至る流行からは、アナクロ扱いされ解体され外されていく作品カラーなんよね。
▼コレは想像だが、その劇画風タッチは、なにより女子が主に共有する手段としての「二次創作」には向かなかったという理由があって、それは案外大きい気がする。80年代の(恐らく流行が一回りした後『北斗の拳』が当たる前くらいまでの)「アニパロ」に乗れなかったんじゃないだろうか。アニパロの絵柄は、当時の少女マンガの文脈の方が恐らく親和性が高い。
1970年代後半から80年代半ばくらいまでで、恐らく児童向けだった「テレビまんが」というジャンルは、若者…当時は「ヤング」向けの「アニメ」へと主流を変えていた。ニューウェーブの時代、当然作風はよりヤング向けに洗練されていくワケだけど。そこへ移植しにくい絵柄なんよね、力強いタッチ、太い描線、線で区切るのでなく面を意識した人物描写による劇画風って。
アニメムックのパイオニアである、徳間書店「ロマンアルバム」で『グレートマジンガー』『鋼鉄ジーグ』は出ず、『マジンガーZ』『グレンダイザー』『ゲッターロボ・G』が出たコトこそ、絵柄で選ばれた一つの証左だと思う。特に初期ロマンアルバムの作品セレクトは、かなりの割合で当時のファンジンのニーズとの共犯関係があったから。各巻末にはその作品の同人グループによる対談や、同人誌紹介、彼らによる記事もあったくらいだし。
なので、『グレート』や『ジーグ』はビッグタイトルが並ぶダイナミックアニメの中では、人気の点で次点に甘んじてはいる。
また玩具展開が、今玩具売り場の棚をかなり占拠しているバンダイに連なる「超合金」のポピーではなく、タカラ・アオシマ・オンダなどであったため、積極的に過去の歴史も商売化しているバンダイと違うという事情もあるだろうか。
もしそのままなら国内市場では、『Z』『グレン』に挟まれた『グレート』は、まだ覚えられていても…放映時期やチャンネル、玩具メーカーの絡みもあってマジンガーやゲッターなど他作品クロスオーバーがほぼなかった『ジーグ』は、本当に忘却されていたかもしれない。
▼そういう意味では、今も残るのは80年代の単行本復刻ともう一つ、何よりゲーム「スーパーロボット大戦」の功績だと思う。あのゲームは、ロボットのキャラクターを作品性とそのビジュアルで端的につまんでいるから、分かりやすく伝わった。「死ねえ!」とか「全滅だ!」とかネタにされやすいのが珠に瑕ではあるが。
でもそのおかげで、ファミコン以降のゲーム・ネイティブとでもいう世代の中には、ジーグを好きになるなりネタにして喜ぶなりする人たちが新規参入したんよね。それは当時のテレビまんが視聴者の思いとは、同じようでいてまた違う「ユニットとそのデータ」として生き残っているワケだけど、キャラクターとしては連続している。
▼つまり現在『鋼鉄ジーグ』は「昔のアニメ」と「ゲームユニット」としてしっかり生きている。
特に後者を視野に入れない場合、それはもう人によって「覚えているかいないか」にやはり頼るしかないワケで。だから当時に思い入れなく、ゲームもしない人間は「マイナー」と見るのは分かるが…それも主観だ。「メジャー/マイナー」てのは、過去のメディア体験や現在進行形のメディアとの接し方、消費の仕方で人によって相当開きがある。
何をもって「メジャー/マイナー」かなんて客観的指標がない。
だから、『鋼鉄ジーグ』と『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』という二つの作品の記事に、「ジーグはマイナー」って言う失礼さは二重にある。ジーグを現在進行形で覚えている全ての人をマイナーと呼び、そんなマイナーな作品にインスパイアされたのか!と記者の勝手な指標でクリエーターを値踏みするコトになっているではないか。
ましてこの「マイナー」は「誰も覚えてない、覚えてない以上深い語りも期待しない」とネガティブな印象がある。まだ逆に「イタリアでは日本よりもメジャー(それも引っ掛かりはするが)なんですね、当時や今の人々はどう受け止め、今イタリア社会ではどんなヒーローなんですか?」…とプラスに転化した方が生産的だと思うのだ。

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