死刑が執行された3名のうち、もう一人、見覚えのある名前があることに気がついた。
陸田真志。
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死と生きる―獄中哲学対話 (新潮社)
池田 晶子 (著), 陸田 真志 (著)
死刑囚と哲学者の往復書簡である。
池田晶子はすでに昨年、ガンで亡くなり、陸田真志は今日、処刑されて亡くなった。
「人間がその自己の真の目的に気付く潜在能力を有している。その事こそが万人に平等にある『人が人としてある』天賦の権利、『人権』であると思えるのです。その為のきっかけと時間を、罪を犯した者に与えてくれる死刑制度は、むしろ、非常に人道的であると思えるし、無理にその人間自身の罪悪を考えさせないようにする少年法や人権派の方が、むしろ、非常に人の道を外したものであり、その人間への『仁義』を見失っていると思うのです。」
これが死刑囚である陸田真志の書いていることである。
自らが死刑となることによって、自分が人を殺したという罪悪について考えることができる、これが死刑囚にとっての死刑の効用である、という主張である。
「死刑制度を必要とするのは死刑囚本人である」とする陸田真志の論旨を、この反国家主義の立場から死刑廃止を主張せんとするような文章に動員しようというようなことをしようとしているわけではない。
どうしてももう一方の方の殺人者は、その殺害の行為についてどのように『考えて』いるのか、ということを、陸田真志の処刑は突きつけざるを得ないと思うのだ。
つまり、すでに13人の処刑を執行している鳩山邦夫法務大臣であり、それを民主主義的制度の名目においては、その行為の主体であるはずの、我々「国民」である。
「死刑を執行する主体」は、その殺害行為を、どのように考えるのか。
13人を殺した鳩山邦夫は、2人を殺した陸田真志ほどにもその殺害行為について『考えて』いるだろうか?