*独立百年祭(3)*
紺青色の空はひたすらつきぬけるように蒼く、ひとかけらの雲すらも見えない晴天であった。深呼吸などしようものなら、肺の中まで青く染まるのではないかと思われるほどの、この上ない晴れの日。それが、アシリッド独立100年目を祝う盛大な式典のために、天が与えてくれた無償の贈り物である。
王宮の広場には美しい幾何学模様のアシリッド織り、と呼ばれる布地で天幕がいくつも張られ、そこに列席者がひとかたまりずつとなって式典の様々な演しものに見入っていた。他国から出席しているのはラウディニア、ベルニカ、サウラム、シェン・タオ、リムレリア、フレイラ、チャウリー、エディラ、ショウランといった国々の王族や重臣達である。しかし話題性においても華やかさにおいても、その中で最も人目をひいたのはラウディニア、それもシャイア王女であることは間違いなかった。
今そのシャイアは、幸せそうな微笑をたたえながらアシリッドのリシャール王太子の傍らにいる。シャイア王女を我が妻に、と名乗りを上げていたリムレリアのカルロ王子からは、その件について早速苦情があったものの、名宰相と名高いマヌエルからは遠まわしに『アシリッド・ラウディニアの縁組は喜ばしいことだ』という旨が伺える書簡が既に届いていた。サウラムは現在沈黙を守っており、ラウディニア一行とは慇懃な挨拶が交わされたのみ。
アシリッドのイスターファ王子―現在まだ三歳である彼は、前王の側室の孫であり、正式な王子として認められているわけではなかったのだが―を含むリシャールの敵対勢力と見られるハミル族は、この一年で本当に弱体化した様子で、式典に出席しているのかどうかわからないほどの慎ましい存在となっていた。『…それだけ、リシャール王子の粛清が激しかったということだろう。』と、ザインは改めてリシャールに脅威を感じている。代わりに、というわけでもないのだろうが、目立っていたのが王妃ヒルデガーダの一族でもあるライザ族であった。
アシリッドには有力な部族―最近は貴族、と言い換える場合も多い―がもともとは六つある。最も強大なものが現在王族であるアラティーフ族。今やほぼこの一族がアシリッドを牛耳っていると言って過言ではない。それを支持しているのがライザ族とルディン族。どちらも富裕な北アシリッドをその本拠地としており、特にルディン族のほうは気候の穏やかなラウディニア寄りの勢力で、アラティーフとはかなり密接な関係であると同時に親ラウディニア派でもあった。
アラティーフ・ライザ・ルディンの三部族を『三家』と呼ぶこともあり、アシリッド政治・経済はこの三家によって動いているような状況である。
また、今は勢力が小さいとは言え、一世を風靡したこともあるハミル族、そしてアブド族。この二部族は、アラティーフが拠点とする中部アシリッドよりやや南に勢力を構える。
そして、最も南、その大半が砂漠という場所には、ミトラ族がいた。この部族に関しては今現在、その話題を口にするのが事実上タブーとなっている。十数年前までは、『アシリッドで最も強い兵の育つ土地』として有名だった南部アシリッドに、突如、住民大虐殺という惨劇が降って沸いたのである。ミトラの城砦、そしてその町の住人は、子供から年寄りに至るまで一人残らず皆殺しになったと言う。今、その真相を知る者は誰もいないということになっているが、一説に『ミトラ城主がリシャール王子の不興を買ったため』という不気味な噂があった。当時まだリシャールはほんの少年であるが、それだけに真実味があると言う者もいて、その恐ろしさに震撼となった国民は貝のように口を閉じ、真相は全て闇の中に隠されてしまった。このことについては、有力なアラティーフ族の者でも、無関心を装うのが常である。
今、真っ青な空の下で、アシリッド三家の天幕は実力を誇示するかのようにいかにも堂々と張りめぐらされ、逆にハミル、アブドの一族は少々肩身が狭いようである。しかし王族であるアラティーフは、巨大な天幕の中で王、王妃、王太子がそれぞれ別のほうを向いており、大勢の人間にかしずかれているといっても傍目から見て決して幸せそうではなかった。また、ヒルデガーダの一族であるライザの者の中には、明らかに国王・アブドゥルに挑戦的な視線を送っている者もおり、その人間模様はかなり複雑である。その様子を各国の大使たちは、笑顔の下で注意深く観察し続けていた。
式典は国王の合図で始まり、楽隊はもちろん、アシリッドならではの馬術の披露、南の国らしい情熱的なダンスなどのお披露目で大いに盛り上がっていたが、このような時に少し気持ちを休められるのが下働きの者や、普段は誰かに仕える仕事に就いている者達だった。無論、大勢の人間を接待しなければならない状況下なのだから、体は目が回りそうなほど忙しいのだが、いつもに比べると上部からの監視の目がかなり緩むため、精神的には随分と楽なのである。
特に、リシャール付きの小姓や女官で、たまたま式典のほうへ行かなくてもすんだ者達にとっては、今日は天国のような一日であった。
「あの…。シャイア姫様付きの女官の方でいらっしゃいますか?」
おずおずと、ほっそりとしたアシリッド女性に声をかけられたのはミアである。彼女の穏やかそうな外見は、誰からも親しみやすく見えるようであった。
「はい。左様でございますが?」
ミアはシーツの替えを取りに行くため、リネン部屋に着いたところだった。そこにはおそらくリシャール付きらしい女官が二人いて、今彼女に声をかけたのは、そのうちの背が高いほうである。もう一人は微笑みと挨拶だけを残して、部屋から出て行った。
「…あの…お忙しいところこんなことを申し上げるのはご迷惑かもしれませんが…。シャイア姫様はまだお若いのに、色々とご苦労をなさっていらっしゃるようで…。私ども、アシリッドの者もご心配申し上げております。何か私どもに出来ることがありましたら、何でもおっしゃってください。」
「まあ、お気遣いありがとうございます。姫様がお聞きになられたら、お喜びになられますわ。もしよろしければ、お名前を伺ってもよろしいですか?私は、ミア・ラ・テーヌと申します。」
ミアはにっこりと微笑んだ。アシリッドの女官は慌てて言葉を繋げる。
「失礼致しました、ヴィヴ・ジャハルと申します。コマレスの出身なので、実家ではラウディニアの方とも親しくさせていただいたことがあります。」
「アシリッドで最初に泊まらせていただいたのがコマレス城でしたわ。あのあたりはラウディニア商人もよく行き来致しますものね。」
ミアは丁寧に応対しながらも、この方は何か他に言いたいことがあるのかしら?と内心ではいぶかしんでいた。その気持ちを察したのか、ヴィヴは更に慌てた様子で弁解混じりの返答を返す。
「も、申し訳ございません、こんなところで話しかけたりして、ご不審に思われますよね。実は私ども、アシリッド城下で働く者は皆、ラウディニアのお優しい姫君にとても憧れておりまして…。毎日、今日は誰が姫にお言葉をいただいた、という話で持ちきりなんでございます。ただ、あの…。殿下は激しいご気性の方ですから…。こんなことを申しあげるのも何ですが…。姫様のことをご心配申し上げております。」
その歯切れの悪い言葉を聞いてミアは、『この人が言う“殿下”はリシャール殿下のことよね、もちろん。…そうよねえ、ご側室騒動とか、姫様がリシャール殿下のご寝室に行かれたこととか、そりゃ、下の人たちはみんな知っているわよね…。』『でも、この人たちは姫様のことを心配してくれているのだわ。それについては信用してもいいような気がする。だってきっと見つかったら怒られるでしょうに、わざわざ声をかけてくれたのだもの。』と考え、アシリッドに来てからずっと気になっていたことを、思い切ってヴィヴに聞いてみることにした。
「あの…一つだけ、お聞きしたいことがあるのですけれど。」
「はい、何でしょうか?」
「ヒルデガーダ王妃殿下は、何か大きなショックというか…とても悲しいことがおありだったのではないでしょうか?」
「えっ?!」
その、ヴィヴの表情を見て、ミアは『やっぱりそうなんだわ。』と思う。彼女は、虚ろで甘すぎるヒルデガーダの微笑みを見て以来、ずっと気になっていたのだ。王妃の表情は、以前ミアが仕えていた、心を喪う病気になってしまった貴族の婦人に非常によく似ていたからである。
「不躾な質問をして申し訳ございません、深い意味はないんです、ただちょっと、気になったものですから…。大変失礼を致しました。ごめんくださいませ。」
顔面蒼白となって口を閉じたヴィヴの様子を見て、答えてくれなくても仕方ないわ、あまりにも唐突すぎたわよね…とミアは思い、その場を立ち去ろうとしたが、その前にヴィヴはごくごく小さな声でミアに耳打ちすると、逃げるように先にリネン部屋から出て行った。
「あの方は、ご主人がいらっしゃる方だったのです。でも、陛下に望まれて、ご主人は殺されました。…ここは、そういう国です。姫様もお気をつけあそばして!…失礼致します。」